sweet and thief
私は休暇を使って、田舎に帰ってきていた。毎日都会で暮らしていると滅入ってしまうのだが、たまに田舎へ帰ると、心が休まるのは言うまでもない。
自然と風と樹と……。ガキの頃はそれが当たり前だと思っていて何も疑わなかったのに、大人になってその当たり前に癒される。なぜあの頃は気づかなかったのだろうか。
アスファルトの道の横には、谷川が流れている。水面までの高さは五メートルぐらいあるだろうか。幅はもう少し長くて、七、八メートル。大分水は少なくなった。それは細く、田んぼの脇を流れる用水路とさほど変わらない。
だが流れている。誰も手入れをしていなかったら土手の草が高くなっているはずなのに、それがないということは今でも地域の住民がで草刈りをしているのだろう。
そんな視界に入った情報を頭で整理しつつ、目的の山奥へと向かう。
民家を抜けて一軒家も少なくなり、視界は右に流れる谷川と左に広がる畑の二色となった。都会の駅を歩くときは足が速くなるのに、ここではそれを躊躇う。もったいない。それだけいい環境であることが身体を通してわかる。でもきっとそれは、私が都会になれてしまったことも同時に真実にしてしまった。
やがて道はアスファルトから砂利へと変わり、畑は林へと姿を変え、谷川は上流に達し、ダムのように塞き止められている景色に変わった。
川が川ではない。誰かによって流されていた水。そんな印象を受けるが、陰鬱になるほど私の心は暗くなっていなかった。寧ろ、目的地にだんだん近づいていることに興奮さえ覚えた。
水は姿を消し、砂利も土になった。樹が両脇に生える畦道を、似合わない服を身に着けた男が先へ先へと進む。少しずつ上へ上っているはずなのに、空からの光は途絶え始め、薄暗くなっていった。
車も入れないような幅になった。高いところまで来たらしい。右に落ちれば死んでもおかしくないほどだ。
進んでいくと左側が開けた。
「やっと着いたか」
誰も聞いていない声が響く。
そこには十段ほどの不格好な石でできた階段があり、それを私は上膝に手をあてながら登った。
「おっとっと。堀があるんだった」
登り切った目の前には、深い堀。深さは、二メートルぐらいだろうか。おそらくこの誰もいない、人気のない山奥では、この堀に落ちたらひとたまりもない。たとえ助けを乞おうとも、誰しもこの空間に来れば誰も助けてはくれないということが明らかだった。
というのも、堀はフラスコ型に掘られていて、登ろうとしても難しい。壁は土なのだから、掴むのが一苦労。自力で上がるのは困難を伴うだろう。助けを呼ぼうなんて見当違いも甚だしい。
堀を上空から見ると、Uを描くようにできている。戦国時代、各所に点在した名の知れた大名たち。彼らの作った城の外。それが堀。
じゃあそのU字の中にあるのは何なのか。言うまでもない。
「おお」
かつてベージュに見えた壁の板も、今は廃れた焦げ茶色に。見るからに安そうなトタンとその下に伸びる長方形のドア。家、というには恐れ多いのかもしれないが、それなりに生活ができそうな外装である。山奥には似合わないということを除いて。
私が造った城。
堀に掛かっていた梯子を渡る。折れてもおかしくないほどだったので、急ぎ足で渡り切る。そして渡ってきた梯子を取ってこちら側に置いてしまう。これでもう誰もこちらに来ることはできない。完全な自分だけの空間。
数メートル先の小屋。慣れた手つきでドアを開けた。ドアこそあるものの、玄関と呼べるような高尚なものはない。靴も脱げない。まあ、脱ごうと思えば脱ぐこともできるのだが、要するに、外国のような靴を履いたままで生活をする空間。すなわち床が汚い。
ドアを開けて奥に目に入るのは、リビングの机、椅子、ソファア。ワンルームのその奥にあるのは、対面式のキッチン。とまでは呼べないが、それらしき台所がある。ガスコンロが置いてある……はず。
恐る恐る入って中を覗いていたが、ホームに帰ってきたような安心感が芽生え、ドアノブを離して足を踏み出す。一年ぶりに入ったはずなのに空気は澄んでいて、咳き込むほどではなかった。数秒してから、埃の存在を感じた。
リビングの机に寄って指先で触ってみると、砂埃のざらつきを感じた。ソファはなおさら座れる状況ではなかったが、それでもこの空間に居られるという高揚感を壊せるほどの不快感はどこにもないのだ。
圧倒的な存在感に安心する。かつて見ていたものが、まだ自分の中に存在する。その安心感。
水は通っている。来るときに流れていた谷川につながっている川がある。
電気も、大容量のバッテリーがあったはず。家の裏を降りると日当たりがいいので、そこに太陽光パネルが一枚置いてある……はず。いや違った。こんな山奥でも、万が一誰かに盗まれるとまずいからと、一年前ここを出るときに家の中にしまったのだった。
久々の雰囲気と、非日常的な雰囲気に浸ろうと部屋内を物色し始めた。とりあえず、奥のキッチンへと向かった。
「うわっ」
私は声を上げて後ずさった。
何もないと信じ込んでいたところにあり得ないものがあると、人は驚くらしい。普段からどんな状況にも柔軟に対応できるように、何事にも驚かないようにと気を使っていたつもりだったので、相当な頭に浮かんでいた想像と現実との変化だったのだろう。
紫が散りばめられたジップアップパーカーのフードは深く、目深にかぶられている。ショートカットの髪が布からはみ出ている。長めの丈から少しはみ出たショートパンツ。そこから伸びる二本の素脚は三角に立てられていて、両手で抱え込まれていた。背中はキッチンのキャビネットに寄りかけられ、あと、なぜか裸足だった。すぐ隣には黒い厚底のブーツヒールが置いてあったので、この家に靴のまま上がるのを躊躇ったのかもしれない。
優しいのやら、泥棒なのやら……。
というか、山に来るのにヒールって……。
さっきは驚いて声に出たが、今は驚かない。安定している。冷静に……。よく考えてみれば、鍵が開いているところからおかしかった。おそらく、以前私がここを出るときに閉め忘れたのだろう。もっと遡れば、堀に掛かった梯子。あれは本来かかっているはずのものではない。石段を上る前に、少し奥の裏側から持ってくるもの。
不可解な点は多くあった。でも、それに気がつかなかったのは、本当に自分の心が高揚していて、普段嫌でも目に入って脳にまで伝わってしまうことが、おそらく見えていなかったのだろう。我ながら迂闊である。
寝ている彼女を起こそうか迷った。普段の私であれば、ひっぱたいて起こして怒鳴っていたとは言い難いが、この状況について説明を施して欲しいぐらいには考えるだろう。だが、気づいたときには手が動いていて、羽織っていたブルゾンを彼女の肩と膝に掛けて、自分は埃をかぶったソファへと腰を下ろしていたのだった。




