見知らぬ実態を肯定するということの神秘
話し手の言葉が、頭に入ってこない。彼の近くで話を聞いていたらおそらく頭に入って来るのだろう。
私立を思わせる、高校とは比べ物にならないくらいの門の外へと足を急かす。急かす。急かす。クローズ型のヘッドホンを外して、映画のフィルムのように流れている駅の雑踏へと混じっていく。
人が増えていく。
不快。
おぞましく。
耳を塞いで、俯きながら歩いているとわからないことが多いみたいだ。心臓がつんつんと突かれ、恐る恐る視野を広げてみると、やっぱりそんなにいい気分はしない。でも、違う。悪い気分にも種類があるらしく、今までのそれとはまったく異なっていた。
改めて五感の人間染みた胎動が、腹の奥の方でトントンとノックしてくる。
胸の裏をつつかれる。
俯瞰して見たら、そこは驚くほど速く回っている。重なり合った雑音を分聞してみると、最初こそノイズに聞こえるようなものの、あそこの人、そこの人、四季折々の生活の会話が聞こえてくる。
鼻も相当敏感なようだ。駅の東口を出ると、甘いパンの香りが。香水。体臭。服の匂い。なんだっけな、これ。ああ、あれだ。とそう気づいたときに、自分がいつの間にか目を閉じていたという事実に気がつく。
パッと開けた空は、灰色のくせして夏のような日差しを感じさせ、虹色の蛇が流れ、砂嵐が目の前を覆う。はっきりしない視界に、横にふらついて立ちすくむも、そこは未だに早く回っていた。俺を除いて。
人間が独りなんだなって改めて身に染みる。白いTシャツにすでに染み付いていたはずの染みが、より一層範囲を広げて侵食したかと思えば、今度は別の場所にまで蝕んでくる。
独りだ。でも、いや、だから依存する。そうしなければ生きていけない。
社会。
生活音。
信号。
変わる。
そうやってまた誰かに頼っては互いに弱音を吐き、戯言を溢し、何事もなかったかのようにまた昨日と同じ関係性で今日が回っていく。依存しなければ生きていけないという状況こそが多くの浅はかな関係性を生み、それを自然となかったかのように崩していく。
当然報いはある。
長い時間共に過ごすことで、それらに気づけなくなる。忘れる。だからこの意味がわからない人は、もうすでにその類に入っている。
染み付いていたはずの染みは、変わらず今も範囲を広げて蝕んでいく。その色は、透明なのか、紫色なのか。白いTシャツだったことすらなかったことになって、また新しい鮮やかな紫陽花の水彩画のTシャツの中へと消えていく。
知らないって幸せなんだ。裏腹に、一歩踏み出せてしまえば底へと落ちて行ってしまうのに。
「よお」
突然の言葉に、俺に向けられた言葉なのか確認すべく顔をあげる。
「どちら様ですか?」
その返答は待っていなかったと言わんばかりに呆れて斜め下を見る男の姿に、疑心暗鬼になって、訝しむ。
「おいおい、忘れちまったのか? 高校で一緒だった立原だよ! 一緒に昼ごはん食べてたじゃねーか」
その問いかけに反応することができず、ただ彼の目を眺めながら頭を酷く回転させていた。ガンを飛ばしているように見られていてもおかしくないほどなのに、彼はそのまま俺を見つめ返していた。
「お前そういうとこあったよな。興味ないことは覚えていないみたいな。やっぱ俺たち以外に、他の友達とかいなかったんだろ?」
立原という男の呆れた言いように、なんとなく思い出そうとしているそぶりを見せながら「いや、そう……かな?」なんて言葉を絞り出すのが精一杯だった。
溜息を吐く立原。
「こんな道の真ん中で話すことじゃないか」
そう言って、目と鼻の先にある、駅前の喫煙場へと二人で入った。
そこは、一人のものとは思えない量の煙が、周辺一帯を覆っていた。透明だったはずのガラスは、元からこんな色だったのではないかと思えるようなくすんだ白色に。床にはちらほらと、いつのものかわからないような吸い殻が見える。人が多くて、男女折々、口に白い棒を突き刺している。
空いている手前のスペースにとまった。
立原はポケットからボックス状の煙草を取り出す。一本取り出してふたを閉めるが、考え直したかのようにもう一度開いて、「吸うか?」と聞いて来たので、「あ、大丈夫」と敬語交じりに答えた。
カチッという音とともに火がつき、立原の鼻と口から白い煙が出てきた。
少し措いて、思い出したように彼は切り出した。
「お前、今大学?」
「そう」
「この近く?」
「向こうにちょっと行ったところ」
「ふーん」
事情聴取のような語り口と、久々に会ったらしい彼の警官らしからぬ口車に、どこか釘が一本抜けているような、警棒が抜けているような違和感を持つ。
それにしても、こんなにも忘れてしまうものなのだろうか。たかだか高校時代の一時を過ごした友人。話すことが少なかっただろうとは推測できるが、それでも同じ教室のどこかにはいて、何度も目を合わせていたはずの立原を忘れてしまうなんて。
「お前のことだからさ、覚えてないかもしれないけど、同じクラスに有保って奴いたの覚えてるか?」
立原と目を合わせられない俺がいた。
立原は、まただるそうに溜息を吐く。
「はあ~、お前って奴は。まあ、そういうとこがあいつも好きだったんだろうけどな。なんとなく想像つくし」
「え?」
そんな問いには目もくれず、俺に背を向けて灰皿の方へと寄って行った。戻ってきても依然と彼は話し出さない。おまけにスマホを見ている。よく見れば、周りの人間のほとんどがスマホを触るか、耳に当てている人だらけだった。
ひどく場違いな気がした。
「立原……君?」
彼は、俺には目もくれず、「んあ」と声にならないような反応を見せた。
「申し訳ないけど、本当に君のことが思い出せないんだ。さっき言ってた女の人のことも。だから本当にごめんなさい。もう帰るね」
そう言って、透明な空気を見ようと入口へと振り返った。
「女だってことは知ってんだな」
不意を突くような言葉に胸がざわざわした。確かに。なぜそんなことを知っているのか。なんとなく女だなって感じがしただけだ。大した意味合いは込められていないのだが、確かに立原の言い分も理解できる。俺は、舘らのことすら覚えていないのに……。
「俺のことすら覚えてないくせに、あいつが女だって覚えてんのっておかしくねーか?」
「あっ、えっ? んっと……」
「別にお前がそういう性格だって知ってるから気にしてるわけじゃねえけどさ、お前そんなんでこれから先、生きていけんの? 今、大学で何してんだよ。馴染めなくて落ち込んでるわけじゃねーよな?」
立原の顔は、真剣とも他人事のようにも見て取れた。目じりの薄い堀から黒い瞳へと滑らかな眼。その瞳に騙されそうになる。
「あいつさ。いなくなったんだよ。突然。何の前触れもなく。神隠しかってんだ」
え? いなく、なった?
「どれだけ探しても見当たらねえんだ。有保の野郎」
いや。
違う。
「それ……さ、」
立原はこちらを怪訝そうに見つめた。
「見当たらないんじゃなくてさ、もしかして忘れちゃっただけじゃないの?」
立原が顔をしかめたのが、横顔でもよくわかった。
「あのなあ、そんな馬鹿な話があるか。たかだか高校時代の一時を過ごした友達だけど、それでも同じ教室のどこかにはいて、何度も目を合わせるだろ。おまけに一緒に昼飯食ってたし、今でも思い浮かぶっつーの」
「それが忘れるってことじゃないの?」
そう。それにすら気がつけないじゃないかな。本当に忘れているなら。
「既視感ってあるじゃん? デジャブって言うのかな。あれって実際には似たような景色を見た記憶と重なって脳が勘違いすることらしいんだよ。でもさ、最近の俺の見た既視感ってのはさ、そういう程度のものじゃないんだよ。頭に直接入り込んでくる感じで、さっき食べた昼食を思い出すように甦るんだよ。もうさ、既視感とかじゃなくて、昔の記憶みたいな気がするんだ。でも、実際それが前世の記憶なのかって確かめる方法なんかないし、一応、俺はデジャブだと思ってるんだけど……。まあ何というか、なんとなくだけど、立原君も……」
見ると、立原は呆れたとでも言うように手を肩の横に広げている。
「アホくさ。そんなの信じられるかよ。ぶっちゃけ何言ってるかよくわかんねーし。まあ、確かに最近そのデジャブっての結構感じたりするけど、そんなたいそうなもんじゃねえよ。ほら、そこにある樹。見てみろよ」
立原の指さす先。駅の反対側に、都会にしては珍しい大きな樹が一本立っている――。
「さっきあれ見たら、昔も見たことある気がするなーって思っただけだ。その程度だよ。馬鹿らしい」
立原は、苛立ちを隠せないような動きで灰皿へと煙草を入れる。そして、「もう会うことはねーと思うけど。じゃあな」と一瞥して俺の目の前を通る。
咄嗟に声が出た。
「待って! 最後に一つだけ」
「ああ? 何だよ。まだなんか用があんのか?」
荒い口調だったが怯まず問いかけた。
「立原君の下の名前って……」
「ああ? そんなことも覚えてねーのか。鉋だよ、鉋。木ぃ削る鉋。今度はちゃんと覚えておけよ」
立ち去る後ろ姿。
煙たい風が、鼻を刺激した――。




