生きる走馬灯
鳥のさえずりが聞こえる。今そんな時期だっけ?
何か匂いがする。味噌?
鼻歌が聞こえる。大分下手だな。
何かを注ぐ音。
「あっつ」
ああ、味噌汁溢したな。
蛇口をひねる音。水が落ちる音。ステンレスを打つ音。
また蛇口をひねる音が聞こえた。今度は、絞った水が落ちる音。
スリッパが床を擦る音が近づいてきた。
「あ」
「おはよう」
いい匂いがした。彼女のシャンプーだろうか。
「髪伸びてない?」
「そう? 結婚してからはずっとこんな感じだけど」
ああそうか。私は結婚したのか。よく見ると部屋も違うし。あんな山奥の家に住むのはやめたんだ。そりゃそうだよな。やっぱ叶いっこなかったんだ。
「鉋さん」
「何?」
「あたしは今、鉋さんと一緒に居られてすごくうれしいよ。昔なんてどうでもいいくらい、今がうれしい」
「そう。なんかそう言われると俺もうれしいな」
「鉋さん、あたしのこと好き?」
「え……」
「あたしは、鉋さんのこと好きだよ?」
「俺も……、……のこと好き」
「嘘? ホント?! ちゃんと名前で呼んで」
「えっと…………」
『名前、わかんないや』
パッと目が開いた。
自分の寝言で目を覚ますなんてどうかしているが、起きてしまえばそんなことどうでもいいが、事実になってしまう。
変な夢を見た。断片的にしか覚えていない。でもこれだけははっきりと覚えている。
「彼女の名前、わからないや」
名前も知らない女に恋しているなんてどうかしている。私の脳はおかしいのか。上手くいかないからって、私をからかって彼女と結婚した夢でも見せたのだろうか。
立ち上がって、冷蔵庫を開ける。
「電気切れてるし」
おまけに裸足だった。ソファアは汚れるから、寝る前に脱いだんだったっけ?
外に出る。
相変わらず、朝の空気は信じられないほど身体に効く。そこら辺の一類薬品よりよっぽど効くんじゃないだろうか。
しゃがんで堀の中を覗いてみる。
誰か人がいる。
「誰?」
「鉋さーん。助けてくださーい」
急に自分の頬が上がったのがわかった。
「お前、そんなところにいたのか! 今出してや、」
いない。
頬を両手ではたいた。
馬鹿な夢を見ている。そんなに影響力があったのだろうか、彼女には。
何度も頬を叩きながら玄関に向かう。そして家のドアを開けた。
「あれ! 鉋さんだ。おかえりなさい」
また頬が上がる。
「おう、ただい、」
キッチンが見えた。
「まあ、いる、訳、ないよな」
起きているから嫌なことを考える。いつかの自分に戻った気がした。しょうがなく何か食べて寝てしまおうと、冷蔵庫を開ける。
「あれ」
さっきも開けたが、普通におかしい。誰がこんなに詰めたのだ? 食材がぎっしりと詰まっている。
あ。
あのときも。
あのときも。
あのときも。
彼女はいつも笑っていた。
「お前……」
誰もいないプレハブ小屋に、水が染みた。床に落ちた粒が埃をたてた。
また同じことを繰り返したのだ。何が時間は待ってくれないだ。悠長にしていられないだ。悩む時間は無駄だ、だ。全然違うよ。全部違う。
彼女は誰よりも大人だった。私みたいなドブネズミみたいな男と一緒にいて、笑って、ご飯食べて、寝て、出かけて帰ってくれば出迎えてくれる。
とめどなく溢れてくる涙は、拭っても拭っても止まってはくれない。袖がびしょ濡れになってもまだ止まらない。
変えてしまえる。人間の感情は他人に唯一影響を及ぼせる。
気づいたら私のそばには誰もいなくなっていた。私が情けないから、私が馬鹿だから。臆病だから。ケチな感情ですら押し殺せず、大切なものを見失っていく。
身体は動き出していた。




