百の華
どれだけ悩もうと、ちっとも変わらない未来がある。あれだけ悩んだのに、結局最初から考えは一貫している。なのにあれこれ余計なことを考え、本質を見失ってしまう。
人間として。
私として。
それぞれ答えは出ていた。生ぬるい現状と関係の中に飲み込まれることに慣れてしまっていたため、私は手を伸ばせないでいた。
戻れないのだ。それを言ってしまえば良くも悪くも今の関係性には。突きつけられているのだ。何かを手放して何かを得ること。何かを手放して何も得られないこと、何も手放さないまま何も手に入れないことを。
時間は待ってくれない。悠長にはしていられないのだ。だって、人間だから。何が起こるかわからないから。突然友達を失うかもしれないし、将来のために貯蓄していた大金を奪われるかもしれない。
そんなことは世の中の人間、皆承知のうちで、今に限ったことではない。だが、そういうことを言い訳にして踏ん切りをつけようとしなければ、私はいつまでも事を曖昧にしたままで居心地の良い今の環境に浸っていようとするのだ。
長いようで、限られている。言わなきゃいけないことを言う時間は。そう言い聞かせることで、私は初めて人に本心とやらを伝えてみようとしていた。
「おかえりー」
「うん」
ノックをすると、彼女が出迎えてくれた。
「料理作ったの。食べる?」
そう言いたそうに見えたのは、私が余計なことで頭がいっぱいだったからなのかもしれないし、彼女に似つかわしくないフリルの付いたエプロンを身に着けていたせいかもしれない。彼女の一挙手一投足に敏感になってしまっていて、その行動から見て取れたのだ。
だが、他人の行動や表情を意識したからと言って、そんなに容易く人間の本心には迫れるはずがない。私はどこぞやの心理学者でもなければその分野に精通している訳でもない。そんなことを考えているうちに時間だけが過ぎて行くのだ。時間が過ぎるのなら体は静止していられない。無造作に手、足が動く。でも頭はフル稼働。そうやってなんとなく椅子に座る。
茹でたほうれん草にスクランブルエッグ。この香りはチーズだろう。湖沼の香りもした。私は「おいしそう」と呟く。彼女は「ありがとう」と微笑む。
食べてもいないのにおいしそうだなんてよく思えたものだ。無造作に導かれたと信じていたい。
スプーンを口に入れると、不味くなかった。おいしいの類に入る料理だった。私が食べるのを見た彼女は、自分の口にもスプーンを運び出した。
「昔ね、小学生くらいの頃、名前も知らない男の子に会ったことがあってね、陽が暮れるまでサッカーボールで一緒に遊んだことがあったの。あ、今でもそのサッカーボール残ってて、すごく覚えててさ」
「あーそりゃ楽しそうだ」
「でさ、あたしの家って門限があったのよ」
彼女は手を動かしながら話す。だから、私もほうれん草を口に放り込みながら話した。
「いやいや、小学生なら門限くらいどの家もあるんじゃない?」
「それって田舎だからだよ。都会はみんなないのよ」
「そうなのか。でなに?」
「うん。それで、その子を家まで連れて行ったの」
「わあ、大胆」
「そういうのじゃないから」
「ませてんなー」
彼女は笑いながら私の頭をひっぱたいた。
「そのことがさ、今でも忘れられないんだよねー。あたしの勝手に巻き込んじゃった気がして」
「まあ、その男の子も小学生でやらしいことは考えないだろ」
「いや、だからそういうのじゃなくって」
「じゃあどういうのだよ」
「助けてくれるかもって思ったんだよね。この子ならって」
「助ける? って何から?」
「え」
「いや、え、じゃないだろ。一番重要なところじゃん」
「あ、えっと、だから、門限破ったから母親に怒られるじゃん。それから助けて欲しかった、みたいな」
「ああなるほどね。まあ確かに他の子どもがいる前で、娘のパンツ脱がしてお尻を叩くのは無理な気がするな。さすがの母親でも」
「そう、だよね」
俯いた彼女は笑っていた。
この後も私と彼女は食事をしながら雑談をした。どうでもいい話ばかりだった。私の高校時代の話から始まり、「アルバイトってどんな感じなの?」「高校の昼休みって誰と一緒にいた?」などと彼女は話題を駆り立てた。気づくと私は質問攻めにされているのだが、彼女が楽しそうに私の話を聞くので特に嫌な気はしなかった。だから、特に彼女のことを何も聞けていないな、自身のことをあまり話さないなという点には視点が行かなかったのだ。
「あたしの高校の今のクラスめっちゃ楽しいよ。この間、友達と一緒に見た雑誌の店に行ったんだ。ほら、この服もそこで買ったんだよ」
「へえ。最近の学生は服のセンスがあるよなあ。俺なんて適当だからさ」
「それって褒めてくれてる?」
「うん、似合ってると思う」
そんなことを私が口にすると、彼女の顔にはより一層皺が寄り、口調も弾んでいった。
「でも雑誌って今時の高校生はスマホだと思ってたよ。案外そういう子ばっかりでもないのな」
「そうだよー。チョベリグーとかゲロマブって今の女子高生だって使うんだから」
「ゲロマブは男が言うもんだと思ってた」
そんな話から流行語の話になって、「未曾有」だったり「忖度」だったりといろんな言葉が飛び交う中でぴんとこない私は、外界のことにあまり興味がなく知らないということを彼女に話すと、いろんな流行語を教えてくれた。
彼女は生き生きしていた。外見を覗けばとても高校生には見えないくらいなのだ。最近の高校生は、いろんな顔を持ち得ているのだろうか。
食事をし終わって、彼女が「川に入りたい」と言うので、私はそれに従った。「川って気持ちいいんだね」と彼女がそう話すのは、おそらく小さい頃に都会で育ったからかもしれないと思った。私は身近にあったため、いくらか経験しているが、彼女にとっては珍しいことなのだろう。
川の水は太陽の光に照らされているせいか、いつもよりぬるく感じた。ぬるいとは言っても、冷たいものは冷たい。当然、足を入れれば身震いもする。鳥肌も立った。
相変わらず震撼する。日光浴。森林浴。水浴び。このすべてを一気に体感できてしまうのだからこの上ない環境だと思う。そう思わせる空間も凄ければ、そう感じてしまう私も凄いのだと思う。だって、別に絵に描いたように綺麗すぎる訳ではないのだ。綺麗だとは思うけど、形は歪。今私が座って言う川底なんて、砂なのだから。
「人生って意外と組み立てられてると思わない? その人の人柄や性格によって変わっててさ、その人にとってちょうどいい環境になってるような気がする」
「へえ」
「何か言いたいことでもあるの?」
「え? なんで?」
「だって、いつも鉋さんそんな曖昧な返事最近しないもん。おかしいじゃん」
彼女はそっぽを向きながら、水面で口を尖らせ、ぶくぶくしている。
またとないチャンスが目の前にぶら下がった。思ってもみなかった展開。どうする。言うか、言うまいか。
喉のすぐそこまで来ていて、やたらとすでに決めていた言葉がつつく。彼女の顔もそれを過剰に引き上げようとする。
私は、太ももの横に握りしめた拳を押し付け、緊張しながらも言葉を伝えようとした。
「名前! 名前聞きたかったんだ」
「あれ、言ってなかったんだっけ。じゃあ自己紹介だね。古橋百華って言います」
「ふる、はし……」
意識よりも早く、顔が彼女に向いた。
「そう。珍しいでしょ? あ、でもそんなに珍しい訳でもないか。あたしが知らないだけで日本のどっかしらにはいるだろうし」
そんな彼女の言葉を聞いて一度は引いてしまった私の余念だったが、再びぶり返して聞いた。
なんだか気持ち悪かったのだ。今、目の前にいる女の底知れなさがどんどん込み上げてくるのだ。今までどうでもよかった素性を一気に明かしたい一心にさせられる。
私は恐る恐る聞くのだ。
「ごきょうだいは、いたりする?」
その言葉に彼女は、「姉が一人います。姉と呼んでいいのかわかりませんけどね」と笑って答えるのだ。そういう言葉の切れ端を取って私は自分の余念が真実だという方向へ拍車をかけていた。その姉が、乃杏、なのかということを聞いてしまえばすぐに済む話なのだ。違えば彼女は違うと言う。それで私の考えすぎな妄想だったとして消える話なのだ。なのに私は、
「俺にも姉がいるんだ」
なんて口走っているのだ。
「へえ、鉋さんにもお姉さんがいるんですか。どんな方なんですか?」
「俺の姉は……」
姉は……
「俺の姉はさ、俺とはかけ離れた出来た人間だった。容姿も醜い訳でなく、言うなればおしとやかで自然と周りに人が集まってくるような人だった。母親から見放されていた俺とは違って、母親にも友人にも誰にでも認められているような人だったんだ。だから正直羨ましいと思ったこともあった。それが彼女の努力の結果だったとしても、それでも羨ましさは否めなかった。当然だよね。俺は姉のことをよく知りもしなかったんだから。でもさ、この間姉と話したときに、俺と同じ生き辛さを感じていたり蟠りを持っているにもかかわらず、その波に乗り続けていたって知ったんだよ。多少の苦しさを伴っても、そちらの道へ身を委ねていた。それを知ったら、俺は本当にこの人に憧れていたんだろうか、思ってさ」
「それでもあたしは羨ましいですよ。下と比べてまだいいかって思うのもどうかとは思うけど、それでももっと嫌な姉とかいると思いますから」
「それも、そうだね」
もっと嫌な姉。幸せではない環境。でもそこから抜け出そうと頑張れない人間。そんなことを思った。
日常で雑談している感覚とは裏腹に、いつしかの記憶が浮かんできた。幾度となく浮かべた小さい頃の記憶が、また蘇るのだ。
あの、女の子が左から伸びてきた手にはたかれて泣き出す光景だ。キッチンのガスコンロ横の強化ガラスから、夕方の明かりが床を照らしていて、女の子の表情は陰になっていてよくわからない。でも、私にはちらっと見えてしまった。感情のない顔が。無表情で、髪型がパンチパーマなのにそちらに意識が行かない。ほっぺたを叩いて、サラサラの髪の毛が揺れて、Tシャツをはがされて、背中を何度も叩かれて、そのたびに「パンッ」と弾けた音が繰り返される。女の子の鳴き声なんかかき消されて、弾ける音だけが頭の中に流れてきて……。
私は、その後、込み上がるおぞましさと絶対的な恐怖を感じて逃げ出したのだ。
少年というのはまさに何色にも染まっていない真っ白な状態だ。好奇心旺盛で社会のことや知識が不足している状態。「虐待」という現場を目の当たりにするが、それが虐待だということを知らない。よくわからないが、嫌な感じがして逃げる。まだそれが恐怖によってだということを知らない時期だ。嫌な感じがして逃げる。純粋な行動だ。
なのに今はどうだ。相手はどう思うか、相手の機嫌を窺う、あいつにはどう思われているんだろうなんて考えてから行動するのだ。それが正しいのも確かだが、正解が一つではないということもまた確かである。
あのとき私が逃げ出さずに彼女の元へ駆け寄って行ったら、彼女が叩かれる姿を見ずに済んだのではないか。目を背けることで見ずに済ませるのではなく、駆け寄っていくことで見ずに済ませる。もっといい答えの出し方があったのではないかと思ってしまう。
思えば、暇になればこんなことを考えていた。中学の授業中、バイト中、通勤列車の車内で。「まあどうでもいいか」と結論付けることが多かった私も、このことについてはケリがつけられなかったのだ。ケリをつける必要がないと言った方が正しいのかもしれない。ただ、彼女の顔が忘れられなかったのだ。
「なあ、百華」
「何ですか?」
「過去の後悔や罪を償うにはどうしたらいいかな?」
「んーそうだね。あたしが抱きしめてあげようか?」
「え、それって……」
私が言うまでもなく彼女は寄ってきて、腕を私の背中に回した。
私は暗い闇に落ちていった。