知らない街へ
私は暗闇に落ちていった。気づくと、目の前に大きなスクリーンがあった。映画館でよく見るあれだ。ただ、私の後ろには座席がない。大きなスクリーンの前に私は立っていた。
次第に映像が流れ出すのだ。
*
古橋百華は、五人家族だった。父親、母親、父方の祖母、姉、百華。
この家の主導権は父親と祖母が握っている。この二人が絶対君主である。
そもそもなぜこの二人が絶対君主なのか。何が原因だったのか。そんなことを考えさせる間を与えないほど彼女の人生は壮絶な日々だった。
父親の機嫌によってすべて左右される。廊下ですれ違えば叩かれるのが当たり前。助けを求めようとすれば、更にきつい嫌がらせが返ってくる。
母親は、それをただ見ていて。敵か味方か。助けてくれないから敵のようにも思えるが、暴力を振るわないだけ、何倍もましだった。
姉の乃杏はなぜかかわいがられていた。頭もよく、馬鹿ではないので反抗すれば殴られるとわかっている。そのため、祖父や父親に反抗することはなかった。その分、妹の百華に被害が加わっていたが。
母親はこれを躾だと言った。老後の世話をするのはあなたたちなのだからと言った。
百華はこれが気に入らなかった――。
毎日毎日どうすれば自殺に見せかけられるかを考えた。土の中に埋めようか。雨の日に殺そうか。いっそ海に流そうか。証拠が残らないような殺し方を考えた。だが、その理由を考えることを言い訳に、時間はどんどん先延ばしになっていく。それに応じて虐待の質も高くなっていったのは偶然のはずだが、百華にしてみれば、時間と重圧に押し迫られているように感じていてもおかしくはない。
その日は、高校の同級生の送別会だった。
百華にとって、高校は唯一といっても過言ではないくらいの居場所で、家のことを忘れられる場所だった。同級生とも仲が良かった。休日にカラオケに誘われるたびに断らなければならないのは心苦しかったが、学校ではちゃんと一緒に笑ってくれている友人たちは、百華の家が厳しいという事情を十二分にわかってくれていた。優しかったのか、どうでもよかったのか。どちらにせよ、百華に白黒つける必要はなかった。
だから、時間を忘れて楽しんでしまったのだ。
どんな言い訳をしようか考えながら歩いた帰宅途中。「ただいま」と誰にも聞こえないように小さく呟いて玄関を開ければ、フッ、とパンチパーマの祖母が現れて、物凄い圧で罵声を浴びせられた。
そこにいたはずなのに、百華の声は届かない。「おかえり」はずいぶん聞かない言葉となった。別にいらない。
髪を鷲掴みにされ洗面所に連れていかれる。見れば、こんなときのためにとあらかじめ用意されていたかのような氷が、びっしりと洗面槽に敷き詰められていた。そこに顔を押し付けられ、蛇口から勢いよく水が出る。百華の髪に当たって飛び散った水が、祖母にかかり更に顔を押し付けられる。脚を蹴られる。
このとき、本音で「殺したい」と百華は思った。殺意が湧いた。生ぬるい性格のせいで、血がつながっているというだけで義理の敬う気持ちが残っていたが、このときは、このときだけは本気で人情が上回っていた。
耐えて耐えて、やっとそれが止んだとき、百華は、スカートのポケットに忍ばせていた多機能ナイフを祖母に向けていた。
祖母は少々驚いた顔をしつつも、肝が据わっていた。それもそのはずだ。これだけ見下していれば、そうそう入れ替われる立場ではない。当然、百華の想像とは違った言葉が返って来た。
「あんたにそんな度胸あるの?」
あるよ!
「あんたがそれで刺せば、この先の未来真っ暗ね」
え?
驚きを隠せず、その圧倒的な圧力に身を縮めて気圧される。
どうして。
どうして。
「刺したきゃ刺しなさいよ。その代わり、あなたも乃杏も殺人の家族として社会から見られるんだからね? ハハ。どっちも真っ暗だねえ。お前」
「お前」という言葉が嫌に残った。名前なんて呼んでくれなくてもよかったはずだ。でも呼んでくれなくてもいいけど、少しぐらい謝ってくれてもよかったじゃん。「ごめん」て、その一言が聞ければよかったのに。ちょっとだけ信じてたのに……。
百華は、ナイフを落として跪いた。
絶好のチャンスを目の前にして、泣き崩れた。数秒前、氷の上で、冷たく、痛い皮膚を感じながらも祖母の喉から血が飛び散る姿を想像していた。祖母の顔から笑顔が消える姿を想像していた。が、もう想像できなかった。その程度だった。
次の日、百華は学校をさぼった。学校の校門まで来て引き返したのだ。唯一の居場所だと認めていた場所でさえさぼってしまったのだから、もう、そこは居場所ではなくなってしまったのだろう。
昼間でも人が行き交う都会では、高校生が一人いようと誰も疑わない。もしかしたらここの方が居場所なのかもしれない。祖母に叩かれることもなければ、みんな百華を無視して歩いていく。
孤独だけれど、快然であった。
街には、腐るほどの店が立ち並んでいた。好きな洋服さえ買ってもらえなかった百華にしてみれば、夢のような場所である。
普通の女の子が、おしゃれできないということは何を意味するのか。単におしゃれに興味がなくて近づかないという訳ではないのだ。
高校の友人と学校で話題になったお店。どうせ行くならそこに行こうと、すでに歩き出していた。
センター街をまっすぐ上り、コンビニの横を曲がると見える。一見、入りづらいような雰囲気を醸し出していた。だが、恐れることなく自動ドアの前に立った。
中に人はいなかった。初めて生で見る店の洋服に高揚し、小走りで服を見て回った。自然と口角は上がっていて、それを見兼ねた店員が百華に近づいた。
「何か服をお探ですか? お好みのブランドがあればご案内いたしますが」
金髪にピアス。ダメージジーンズ。風貌こそ近寄りがたかったが、店員とはいえそんな優しい言葉を掛けられたこと自体なかった。喜びを胸に感じたまま「madness folie」と口にした。店員は、「それならこちらですね」と案内してくれた。
目に飛び込んできたのは、見覚えのあるパーカーだった。壁に取り付けられたワイヤーネットの上にそれは掛けられていた。(これ! これが欲しかったんです!)と心の中で唱え、「もう少しここで見てみます。ありがとうございます」と店員に伝えた。
友人と話していたのはまさにこのパーカーだった。脇からサイドにかけてだんだん太くなる紫のラインがとても魅力的だった。
数分眺めていたが、即決だった。でも、何か物足りない。というか、上だけ買ってもしょうがない。そう思っていたときに、また店員がやって来て、「そのパーカーならショートパンツが似合いそうですね。靴は黒のブーツヒールとか。お客さん、脚細いんで似合うと思いますよ」なんて言うもんだから、その気になってしまった。
与えられた、ダメージの入った黒いデニムのショートパンツと黒のブーツヒール、目当てだったフルジップのパーカーを持って試着室に入った――。
別人になった気分だった。
鏡に映った自分の姿は自分のように思えなかった。おろされた髪を後ろで自分の手で結わえてみた。
「えっと……。これ、着たまま帰ってもいいですか?」
「あ、それならタグ取っちゃいますので、一度脱いでもらえますか」
百華にはもったいないほど微笑む店員を背に、カーテンを閉めた。
値段が見たこともない数字になっていた。すでにタグを取ってしまったせいで、ここで買わないとは言いづらい。だが、決心していた。鎧を身にまとったように別人になった感覚。あれがどうしても忘れられなくて、財布から四枚の札を取り出した。
百華は、制服を持っていた鞄にしまい、鎧に着替えて街に出た。店員さんの「ありがとうございましたー」という声がまだ頭に残っている。
お年玉なんてもらったことはなく、親戚から百華あてにお年玉が届いても、自分の財布に入ることは絶対になかった。お小遣いですら平均して一か月千円以下と小学生並み。もらえる日は特に決まっておらず、母親が忘れていればもらえない。祖母が見ているところで母親が百華にお小遣いを上げているのがばれれば……。どうなるか想像してみて欲しい。
普段、ほぼ家にいる祖母の目を掻い潜るのは難しい。ましてや、百華は学校に通っているのだから、小学生の頃はそれなりにもらえていたのだが、中学高校に上がるとその頻度は少なくなっていった。
たまに学校の行事で早上がりで家に帰ると、「はいお小遣い。少ないけど」と素早く手渡す母親がいた。それを大事にしまうたびに、母親の申し訳なさそうな顔が浮かんでは伝染した。
百華も母親の待遇や事情はわかっている。だが、自分への暴力を見ても何もしようとしない母親はどうなのか。そう思ってしまうのも、すべての元凶は祖母と父親である。
だから、お小遣いをもらえる日はまちまちで、もらえる金額もまちまちであった。
もらえる金額がまちまちというのも、そもそも祖母がお金を管理していて、母親にもお金があまり行かないからである。最低限の生活費と食費が与えられるだけで、それ以外は祖母の娯楽費に充てられる。母親も被害者である。そう、被害者。
そんな小さい頃からのお小遣いを百華は貯めに貯めた。小銭を隠すのは大変である。財布にたまったらこまめに郵便局に行っていた。土日に家を出ても何も言われなかった。小学生が郵便局に来ても、何も疑わずに両替してくれる職員は、とても優しかったのだろう。「大分貯まったねー」なんて言ってくれるたびに、また行きたくなった。
スカートとは違って、ショートパンツは露出が高い。ダメージの入った隙間から肌が見え、スカートよりも丈が短いのは当然だ。パーカーの丈が長めなので、大部分は隠れている。その分だけ優越感に浸れた。自分も社会に追いついた。女の子になれた。そういう気持ちが溢れて、滲み出ていた。
そんなときだった。喜びを抱えきれない百華を母親が諭すかのような出来事が起きたのは。
「ちょっと、お姉ちゃん。痛いんだけど」
少し肩が擦れただけだったのだが、その男は誇張してわざとらしく絡んできた。
「っていうか、よく見たら結構かわいい顔してんじゃん」
百華はやたらと体を触って来る男の手を、黙って振り払った。
「お前、いい度胸してんな。こっちが下手に出てやってんのに」
街中で争いが始まろうとしているのに、誰一人関わろうとしない。無視。乖離。
結局この居場所も、自分一人の居場所でしかなかった。
なされるがまま路地裏に連れていかれた。抵抗しても離れられない。そんなことはわかっていた。何度も父親に殴られ、祖母に叩かれ、母親に見て見ぬふりをされ、姉とは話せない。この状況から離れることなんてできない。できない。何もしなきゃ出れない。そう、何かを犠牲にしなければ。
普通の家庭とは全く違う。他の人が普通にこなすことを、百華は何かを犠牲にしなければできない。現実によって本当の意味を悟った瞬間だった。
ポケットにはちゃんと忍んでいた。片時も離さず、意識して、店で着替えたときも、忘れずに入れておいた。右の二の腕を掴まれ、右手は動かしづらい。左手で後ろのポケットに手を回し、瞬時にパーカーのポケットに移した。それこそ、母親からもらったお小遣いを隠すかのように。
路地裏の奥は、思ったより暗くなかった。ビルとビルの間とはいえ、奥に進んでも光が完全に遮断されてはいなかった。
行き止まりの壁が見えてきた。近づくにつれて何をされるだろうなんて余念は最初から頭にない。ごく普通の女子高生が、成人男性を押しのけて脱出するなんて無謀だった。そんなこと鼻からわかっている。
ただその一瞬の油断に敏感になろうとする。
こういうとき、なぜだか安心していたりする。心臓の音がうるさくて額から汗がたらたら垂れていたりしそうなものだが、なぜかそれがない。妙に冷静で、事を俯瞰して見られる。すぐそこに対象者がいても、鷹にでもなったように男の頭上を見下ろせる。
そうこうしている間に、百華の背中は壁に押し付けられた。
虫唾が走るような底気味が悪い顔をした男。
近づく。
近づく。
ポケットの中で上手くナイフを開き、平静を保つ。
近づく。
近づく、近づく……。
鷹はゆっくりと背後を取って沈んでくる。
男の手が百華の胸元に伸びた瞬間。視界の端が揺れた瞬間。躊躇なく、何本もの刃が弧を描いた。
「――おーい!」
はっと我に返る。腕組みをしてしかめっ面の男がそこには立っていた。後ろに見えたのは、路地裏ではなくセンター街。
自分の家がおかしいからって、他人を見た目で判断し、変な想像するんじゃないと顔を振った百華であったが、結局連れられて男の家まで来てしまっているのだから、男が相当なら百華も相当だ。
なんとなく雰囲気と時間に促されて服を脱いだ。
長いようで短い時間だった。男の訝しげな眼と顔が見えていて、肌と肌が弾ける音がまどろみに誘われるようにぼんやりと響いていた。内でも外でも。
狂気を感じる目。エゴの目。
蘇る記憶。あれは幻か。
夢だったか。
意識はあった。
ただ、何も感じられなかっただけだった――。
事を終えた男は、恥ずかしげもなく大の字で仰向けになる。
百華は、まだまどろみの中にいた。まどろみの中で、ソファアの隙間にぼんやり手を伸ばした。
ぼんやりとした夢の国で、ふらふらと遊ぶように立ち上がる。ひくひくと動く男の喉に多機能ナイフが入り込む。生暖かい血が散った。男は叫んでいる。ぼんやり聞こえる。
目を刺す。左、右。
足をバタつかせる男。
的確に太ももを刺せた。右、左。
胸を刺す。肋骨に当たる。弾かれる。今度はスッと入る。また。また。もう一度。最後に左脇。
刺すたびに逆さの雨が降った。液状化が始まったかのようにどす黒い血は沸き出た。それに構わず、ナイフを振り続けた。ぼんやりしている。
突然、前触れもなく男は振っていたナイフを奪い取った。なぜ目が見えるんだというよりは、「ああ、取っちゃうんだ」という想いの方が強かった。
実際、奪い取れたのはたまたまだった。男は感覚でなりふり構わず、盲滅法にナイフを振り回していた。
脱帽すらできない。今宵の晩餐は、食うべからず。
それらが頬をかすめた。
痛いというよりは、痒かった。
他の傷が痛みだしたのか、次第に男の動きは地盤沈下でもしたかのようゆっくりと沈みながら治まっていった。
離れた位置でそれを見つめ、多機能ナイフをそっと自分の右の掌に押し込んだ。
そのまま浴室に行った。
温かい水が全身に降りかかった。
返り血が思い出される。
多機能ナイフを念入りに洗った。
ボディーソープを使って、全身を丹念に撫でた。
男性用のシャンプーで髪の毛を洗った。よく泡立った。スースーした。
頭の泡だったシャンプーを流した。
沁みてきそうで目を閉じた。
頭皮に水が当たる音がする。
黒い血が降ってきた。
目を開ければ透明。
浴室を出て、そこにあったバスタオルを拝借した。拭いても拭いても、髪はカサカサだった。身体の匂いは、自分でもわかった。
のんびりとドライヤーをかける。
洗濯機の上から着ていた服を取って着る。そういえば、ローファーさっきの店に忘れた。
部屋に戻ると、血の水溜りができていた。床には、雨が降り始めたばかりのアスファルトのように点々と降りかかっている。
匂いが服についてしまわないようにと、外に出た。
正直帰り道はわからない。どうしてここに来たのかもわからない。どこ? 何が起きているのかもわからない。
なんとなく目についたおしゃれな店に入って、香水を買った。メイクの濃いかわいらしい店員さんに、「全身にたっぷり」と、オーダー通りふりかけてもらった。
日が暮れるときになって、知らない駅に行き着いた。この電車に乗ってしまえばもうここに来ることはないだろう。
憾みなく、思い残すことなく、電車に乗ってまた知らない駅に行こう。次々に乗り換えて、ただ、自分のことを知らない街に行こう。南国に行こう。北海道に行こう。言葉がわからない国へ行こう、島へ行こう。どこかへ行こう。遠くへ行こう。
歩くたびに鳴る、ローファーとはまた違ったコツコツと鳴る音が、嫌な記憶を植え付けようとした。蘇らせようとした。
泣いた。




