⑯生存率
岩場に囲まれた日陰の砂地を前に、ディオンは隣に立っていたあたしをいきなり抱き上げた。
「へ?」
あたしを肩に担ぐと、ディオンはそのまま砂地へと足を踏み入れた。さくり、さくりとディオンのブーツが砂を踏む。
「え、あの、あたし歩けるよ? そんなにひどい怪我はしてないから」
あたしが驚いて言うと、ディオンは平然と前を見据えながら言った。
「わかってる。コレはそういう理由じゃない」
じゃあ、何?
あたしはどうしようもなく胸が騒いだ。押し黙ったあたしに、ディオンは歩みを止めずにようやく説明してくれる。でも、それは愕然とするような内容だった。
「ここは島の中で岩陰になる気温の低い場所――つまり、島の生物にとって過ごしやすい場所でもあるわけだ」
「島の……生物?」
「そうだ。蛇やトカゲ、サソリ、要するにこの亜熱帯地域に生息する毒性を持つような生き物だ」
「ど、毒!?」
あたしがびくりと体を震わせても、ディオンは歩みを止めなかった。
「そういう生き物は夜行性で、昼間は岩場の陰や土の中に生息する。……ここみたいな場所にな」
その言葉に、あたしの頭から血がサッと駆け下りて行った。
「ディオン、じゃあここ通っちゃ駄目じゃない! 違う道を探さなきゃ!!」
でも、ディオンは落ち着いて言う。なんでそんなに落ち着いてるの?
「違う道なんてない。ここを通るか後を登るかのどちらかだ。で、道具もなしに登れる場所でもないからな、前に進むしかない。ぐずぐずしてて日が暮れたら終わりだ。ヤツらは夜行性だって言っただろ」
「そんな……っ」
だからって、無理矢理通って噛まれたりしたらどうするの!?
そこであたしはハッとした。ディオンがあたしを抱えて歩くのは、あたしが噛まれないように、なんだ。
それに気づいたあたしはディオンの背中を叩いた。
「下ろして。あたしだけ安全に進むのなんて嫌。一緒に隣で歩くから!」
心臓が急速に冷え込むようなそんな感覚がした。そこからはただ感情の波が押し寄せる。
最悪のケースを想像してしまうと、恐ろしくてじわりと涙が滲む。そんなあたしの顔はディオンには見えない。
ディオンは島の領主様の息子で、私掠船の船長で、大事な大事な島の柱。ディオンがいなくちゃ島は保たれない。大切な、人――。
身ひとつのあたしとは命の重みがまるで違う。そんなディオンを犠牲にしてあたしだけ無事でも、誰も赦してなんかくれない。
でも、ディオンはあたしの要求を無視して歩き続けた。
「ねえってば!」
あたしは更に強く、癇癪を起こした子供みたいにディオンの背中を叩いて暴れた。うっとうしそうにディオンは腕の力を強めてあたしを締めつけると、厳しい口調で言う。
「うるさい」
ざくり、ざくり、とディオンの足が砂地を進み続ける。あたしはその音を聞く度、どうしようもなく苦しくなって涙が止まらなくなった。ディオンの肩にすがりつくようにして声を絞る。
「……あたしはディオンみたいに重要な人間じゃないもん。ディオンの方がずっとずっと大事なのに。ディオンがいなかったら島はどうなるの?」
すると、ディオンは呆れたのか小さく嘆息した。
「勝手に殺すな。……でもまあ、オレがいなくてもあの島はなくなったりしない。オレがすべてを背負ってるわけじゃない。オレがオレにできるやり方で支えているに過ぎないからな。いなければいないなりの方法で生きて行くだろう」
何それ。意味わかんない。
ぐす、と声を詰まらせながらあたしは続けた。
「あたしに何かあったらゼノンとエセルに悪いと思うから、こんなことするの?」
一瞬、間があった。返答が途切れたから、あたしは更に重ねる。
「エセルが言ってたよ。ディオンは両親を亡くしたゼノンに引け目があるって」
すると、ディオンは不意に苦笑した。
「引け目? エセルのヤツ、そんなこと思ってたのか? ゼノンはただ信頼できるヤツだし、オレなりに気を許してはいるが、そんな風に感じて接してたつもりはないな」
じゃあ、なんでよ?
普段なら泣かないでいられる。でも、今は無理だ。こんな状況で感情は抑えられない。
ぐすぐすと泣くあたしに、ディオンは平坦に言った。
「お前よりはオレの方が体力がある。万が一噛まれても生存率は高い。コレの理由はそれだけだ」
それだけって――……。
ふぅ、とディオンの息遣いが聞こえた。
「お前、ただ運ばれてるつもりかも知れないが、お前にはちゃんと役割がある」
「え?」
「オレがもし毒にやられた場合、お前が応急処置をしろ。それで生存率が変わって来る」
もし?
……嫌だ、考えただけで怖い。震えが止まらない。歯がかみ合わないくらいに怖くなって、あたしは体をよじってディオンの首にしがみついた。
「やだ。……ディオンが死ぬとか考えられない」
乱暴な口調の陰にたくさんの優しさが隠れてる。それを目の当たりにして、あたしは今まで以上にディオンに対する尊敬の気持ちが湧いてる。
涙も拭かずに首が締まるくらいしがみつくと、ディオンはやっぱりうっとうしそうだった。
でも、不意にひどく優しい声音で言った。
「だから、死なせないために覚えろ。オレが今から言うことをひとつも漏らさずにな」
「む、無理。こんな状況で頭働かない……っ」
小さな子供になったみたいに、あたしは少しも冷静になれなかった。ただしゃくり上げて泣くあたしに、ディオンは辛抱強く言い聞かせる。
「お前ならできる。お前の記憶力はオレが保障してやる。この短期間でエピストレ語も随分上達してるんだからな」
なんでこんな時だけ素直に褒めるの? 珍しいことしないでよ。これが最後みたいじゃない。
泣いてばかりで返事をしないあたしに、ディオンは勝手に授業を始めた。
「――まず、噛まれたのが何か、蛇かサソリか、それを確認しろ。そうして、傷口を探せ。間違っても、傷口から毒を吸い出そうとは思うな。そこで、噛んだのが蛇だった場合は血の流れを止めるように傷口の上を縛って心臓より患部を高くしろ。ただし、サソリだった場合は絶対に縛るな。……返事は?」
「……はい」
あたしのかすれた声にディオンは満足げにうなずいた。そうして続ける。
「患部は水で洗う。なるべく安全な場所まで抜けて、そうしたら一か八か、銃声で居場所を知らせて助けを呼べ。それで誰も来なければお前が呼びに行け」
動けないディオンを置いて? 嫌だそんなの。
あたしはそれを伝えるようにディオンの首に力を込める。
ディオンは怖くないの? なんでそんなに落ち着いてるの?
二人の間にあたしのすすり泣く声と潮騒とが入り混じる。このまま、何もなくこの場所を抜けてしまえる。そう信じてもいい?
このことも、後になって笑って振り返れるよね?
そう思わないと、あたしは堪えられそうもなかった。




