⑧女王の恋人
甲板の夜気は半袖のあたしには少しだけ肌寒かった。肌を撫でるようにしながら甲板の上で船べりに近づく。たくさんの停泊する船がある。薄闇の中に点々と灯るランプの明かりが幻想的ですごく綺麗だった。
そのまま遠くを見渡すと、城下町の明かりが煌々としてる。きっと、あの明かりが完全に消えることはないんじゃないかなって思えた。
眠らずに騒いで踊って夜を明かす。ここはそんな場所だ。あたしの故郷もそうだった。
ぼうっと船べりに手を添えて空を見上げると、ヴァイス・メーヴェ号の隣に停泊している船の甲板からあたしに声がかかった。
「やあ、こんばんは。いい夜だね」
へ?
あたしは声のした方に顔を向ける。そこにはエセルみたいに軽そうな若い男性がいた。容姿は十人並みなんだけど、どっかナルシストっぽいな。顔にかかる前髪のせいかな。
その人はあたしを見てヒュゥと口笛を吹いた。そして、にやりと笑う。
「君、可愛いね」
やっぱり軽い。でも、一応褒められたみたいだしお礼くらいは言っておこう。
「ありがとうございます」
あたしがにこりと笑うと、その人はとんでもないことを言った。
「ねえ、君っていくら?」
「はいぃ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったあたしに、そいつは少しバツが悪そうに顔を歪めた。
「なんだ、こんなところにいるから呼び出し娼婦かと思ったけど違うんだ?」
イラ。
あたしがムッとしたのがわかったのか、そいつは更に言葉を重ねる。
「いや、だってこの船、ディオン=フォーマルハウトの船だろ? あの、女王の恋人の」
そのひと言に、あたしはさっきとは比べ物にならないような大声を出した。
「はぁあ??」
あたしのリアクションで、そいつは更に自信をなくしたみたいだった。
「あれ? 違うのか? そうするとこの船は誰の?」
違う、そっちじゃない!
あたしは思わず身を乗り出すようにしてそいつに言った。
「この船は確かにディオンのだけど、何その女王の恋人って!?」
すると、そいつはたじろいだ。
「何って――」
その言葉の先を遮ったのは、いつの間にか甲板にいたファーガスさんだった。
「こら、何をしてるんだ? 風邪をひくから中に入りなさい」
その隙に、そいつは自分の船の中に逃げ込んだ。きっと面倒くさいと思ったんだ。
あたしの声が大きかったのか、ファーガスさんは会話を聞いちゃったみたい。大きくため息をついてる。そんなファーガスさんにあたしは訊ねた。
「ファーガスさん、ディオンが女王陛下の恋人ってほんとですか!?」
もしそのまま結婚とかになったら、ディオンってすっごいお偉いさんになるわけだよね?
あたしは頭の整理がつかないまま、混乱してその場でグルグルと目を回しそうだった。
ファーガスさんは更に嘆息するとぽつりと言った。
「ミリザが思っているような関係とは少し違うな。そもそも、女王の恋人とささやかれている男は複数いるからね」
「え?」
「女王の『お気に入り』の青年たちだよ」
お気に入り?
ファーガスさんはこくりとうなずいた。
「そも、王が男性であれば国中から選りすぐった美女を集めた後宮が用意される。けれど、女王陛下にとってそうしたものは無駄でしかない。美しく着飾るだけの男など囲って何が楽しいのだと仰られるそうだ。ただ、能力が高く、見目もよい青年たちはそんな陛下の御目に適い優遇されることがある。そうすると、大抵の者は邪推するのだよ」
それって……。
あたしは思わず唖然としてしまった。そんなあたしにファーガスさんは苦笑した。
「ディオンはあれで、そうした駆け引きが上手いのでね。隙を見せずに陛下の気だけを惹く。正直なところ、私掠免許は陛下のディオンへのひとつのカードだ。ディオン自身、それはよくわかっている」
二の句が告げないあたしに、ファーガスさんは更に言った。
「だからミリザのような女の子を連れて町を歩いては少々障りがある。女王陛下ほどの方だから、その程度のことは気になさらないかも知れないが、念のためだ」
そっか。
女王陛下だもんね。望んだものはなんだって手に入る。
ディオンは正直、どう思ってるんだろ。陛下のこと……。
私掠免許は島の命綱。それがなきゃみんな生きて行けないかも知れない。
我慢してるの? それとも、ディオンにとって女の人なんてそう重要じゃないのかな?
船乗りって、そういう考え方の人多いよ。陸にいる間だけ、とか。
あ、なんか考えたらムカムカして来た。あたしがぼんやりしてると、ファーガスさんは更にトドメを指すようにして言った。
「今日はきっとみんな戻って来ないからね。ミリザも早く休みなさい」
……あ、そうだ。
あたしの故郷でもそうだったじゃない。船乗りの男の人が陸に上がるとどこへ行った?
女の人のところ。
そう、一歩間違えればあたしが身を沈めた場所。
うわ、すごく切ない……。