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眠姫異聞  作者:
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 また、冬が巡ってきた。

 都の南方にあるこの場所にも、窓の外では木枯らしが吹き続いている。対象的に、分厚い壁で出来た城内は、あたたかな炎に満たされて。ここだけ時が止まっているかの様だ。

 しかし時が止まっていない証拠に、仕事用の大きなオーク材の机の上に積み重ねられた書類の山。そしてその更に上に薄く積もっていくほこりは、日々その量を増している。クロードには、読まずとも最早内容など解りきっていた。ため息も出ない。様々な方面からの帰還の催促だ。封を開ける気にはなれない。

 思えば産まれてきてからこれまで真面目に皇太子をやってきた。こんな風にすべてを放り出すのは初めてだ。勿論、皇太子がいつまでも不在では、要らぬ憶測や在らぬ疑惑も持たれよう。良くない事態である事は重々承知している。あの、派手で、うるさい、婚約者には一度も返事を出していない。隣国の大臣の娘だ。外交的に、政略的に重要な相手である。

 しかし。

 すべてが億劫でどうでも良かった。


 クロードは思いついたように手紙の山から一つを抜き取り、封を切った。そうして、取り出して。読んでみようとしてやっぱりやめた。ぞんざいに元の位置に放り投げると、力なく立ち上がる。そうして、部屋に置かれた大きな寝台に座り込んだ。

 真っ白なシーツ。枕元には可憐で真っ白なスノードロップの花が生けてある。春。雪解けを願うその花に、寝台にて昏々と眠り続ける少女の目覚めへの祈りをのせて。

 シーツの中で小さく眠り続ける愛おしい少女、ミシェル。部屋の中には二人きり。

 彼女の事に比べれば、あのうっとおしい催促の手紙や、我が皇国の行く末、皇太子の地位、努め。そのすべてがどうだって良い事だった。

 青ざめた頬にそっと手をすべらせる。ほんのりと暖かい。その暖かさだけが、気がかりだ。ゆっくりと上下する胸元だけが自分の安心を担保してくれる。


 まだ、生きている。


 この叫びだしたい様な、駆け出したい様な気持ちをなんと呼べば良いのか。本当に、大切なのだと。日々痛い程に感じている。やりきれない。やるせない。

 窓の外で一際強い一陣の風が駆け抜けた。少し立て付けが悪くなっている古城の窓ががたがたと揺れた。ふと外を見やれば空はどんよりと重い。ぼんやりと見ていると徐々に焦点は、窓枠から空へ。室内から、外の世界へと向かう。どうやら細かい雨が降ってきた様だ。冬の寒い雨。つい想像してしまう。夕暮れの中。しっとりと濡れた自分。

 それでも、別に、何とも思わなかった。


 また、夕暮れがやってくる。

 今日もミシェルは目覚めなかった。

 こんなにも、自分の心の中を占める愛しい存在。どんなに正論や建前を振りかざしたところで、この子に勝るものなんてない。どうしてもっと早く気がつかなかったのか。この子の為なら捨てたって良いと思えるすべてを、どうしてもっと早く捨てなかったのか。いまのように、全てに背を向けて。この手を引いて都を出れば、この子は少なくとも私の傍で笑っていてくれたはずだ。自惚れではない。この子に必要なのは自分だけだと、もっと早くに思い切れていたなら。

 ミシェルは、私が居ないと眠れない。知っていたはずなのに。訳の分からない正論を振りかざして見ない振りをした。


 私が、この子を捨てた。


 これがその報いなのか。

「ごめんね、」

 想いは言葉となって、或は形となって溢れ出る。パタパタと乾いた音をたてるそれは、すっきりと整えられたシーツの上ではじけ。やがて丸い無数の水玉模様となって消えた。


 それでも。

 それでもという想いが、帰還の邪魔をする。

 ほんとうに、これまで真面目に皇太子をやってきた。生まれて始めてのわがままだ。あと少しだけ、傍らに在ることを許して欲しい。彼女を失った、色あせた世界には耐えられそうにない。

 それでも、明日は今日と何かが違うかもしれない。

 もしかしたら明日、目覚めてくれるかもしれない。ぱっちりとした空色のその双眸。寝起きのあどけないその仕草。甘えるように延ばされる、華奢な両腕。

 その時は思い切り抱きしめて、大好きだと伝えたい。


 或は。

 明日には冷たくなっているかもしれない。始めてであったあの時の。真っ白なおくるみに包まれた小さな天使。色あせない思い出。

 残された時間が僅かならば、最期までその暖かさを覚えていたい。


 どうして、この手を離してしまったのか。幾度後悔しても遅いけれど。これだけは言える。

「愛していますよ。ミシェル。」

 いらえはない。

 それでも。愛しい、変わらずに、柔らかな、小さな体をぎゅっと抱きしめた。

 いまだ、あたたかな体。叫びたいくらいに、悲しくて、幸せだった。


 古城の夕暮れはただ、更けてゆく。







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