6話 落馬事故
いよいよ、決行の夜が訪れた。
フィルには、すでに計画の段取りを伝えてある。記録用の魔導具を持参してもらい、会場近くの人目につかない場所で落ち合う手筈になっていた。
支度を終えたリゼットは、鏡の前で最後に身だしなみを整えると、玄関へと向かった。夜会用のドレスの裾をそっと持ち上げ、馬車が待つ車寄せへと歩を進める。
「お嬢様、馬車の用意ができております」
侍女のアメリアの声に頷き、リゼットは馬車に近づいた。だが、繋がれた馬の姿を目にした瞬間、びくりと肩が跳ねた。
心臓が早鐘を打ち、息が浅くなる。
脚がその場に縫い付けられたように、動かなくなった。
「お嬢様?」
異変に気づいたアメリアが、心配そうに顔を覗き込んでくる。リゼットは、自分でも驚くほど強張った表情をしていたのだろう。慌てて、平静を装おうとした。
「……ごめんなさい、大丈夫よ。少し、驚いただけ」
そう答えながらも、馬の姿から視線をうまく逸らせずにいた。艶やかな毛並み、小さくてつぶらな瞳、蹄が地面を踏みしめる音。そのどれもが、あの日の記憶を、否応なく呼び覚ます。
馬が驚いて棹立ちになった瞬間の、あの浮遊感。地面に叩きつけられた衝撃。視界が反転し、意識が急速に薄れていく、あの感覚。
あれ以来、リゼットは、馬という生き物そのものに、うまく向き合えなくなっていた。
「あれほどの怪我をなさったのですもの、馬をお怖がりになるのも、無理のないことです」
アメリアが、労わるような声で言った。リゼットの落馬事故のことを、彼女もよく覚えているのだろう。
「……大丈夫よ、アメリア。少し深呼吸すれば、平気だから」
リゼットは、自分に言い聞かせるように呟いた。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。震える指先を、ドレスの上からそっと握りしめた。
馬車の御者が扉を開けた。
馬の姿を視界に入れないよう、リゼットは俯き加減のまま、素早く馬車の中に乗り込んだ。
窓の外を、ゆっくりと流れていく夜の街並みを眺めながら、リゼットは静かにあの日のことを思い出していた。
***
快晴の午後だった。セシリアが屋敷を訪ねてきて、「ねえ、今度、三人で乗馬でもしない?」といった。
「エドガーも一緒に、3人で。もう一度、セリシアに会いたいって言ってたのよ」
当時のリゼットにとって、エドガーは先の夜会で出会った、素敵な青年だった。その彼が、もう一度会いたいと言ってくれている。そう聞かされただけで、頬が緩むのを止められなかった。
「いいわね。天気もいいし」
気づけば、笑顔でそう頷いていた。
そして、後日。3人で乗馬に出掛けた。
郊外の丘陵地帯を抜けるコースを選んだのは、セシリアだった。
「この時季はこの道が一番綺麗なのよ」
その言葉に従い、リゼットたちは笑い合いながら馬を進めていった。
三人で並んで駆けるうちに、少しずつ会話が弾んでいく。エドガーは思った以上に話し上手で、他愛のない会話が時間を忘れてしまうほど楽しかった。ふとした拍子に見せる笑顔には、人を惹きつける華やかさがあった。
異変が起きたのは、林の小道に差し掛かった時だった。
何かに驚いたリゼットの馬が、突然大きく嘶いて棹立ちになる。とっさに手綱を握り直す間もなく、リゼットの体は宙に投げ出された。
視界が反転し、鈍い衝撃とともに、意識が急速に遠のいていく。
「リゼットッ……!」
セシリアの悲鳴と、エドガーが何か叫ぶ声を、最後にぼんやりと聞いた気がした。
***
次にリゼットが目を開けたのは、見知らぬ天蓋の下だった。頭に鈍い痛みが残っている。かすかに聞こえる話し声に、視線だけをそちらへ向ける.。
「リゼット!? 目が覚めたのね」
セシリアの声だった。涙ぐんだその声に応えるように、エドガーの手が、リゼットの手をそっと握った。
「リゼット、気がついたのか。……無事で、本当によかった」
心配そうに眉を寄せるエドガーの顔を、リゼットはぼんやりと見上げた。
「わたし……」
「ああ、無理をしないでいい。君は落馬したんだよ。今すぐ君のご家族と医者を呼んでくるから、そのまま休んでいてくれ」
そう言い残すと、エドガーが足早に部屋を出ていった。
入れ替わるように、セシリアが涙ぐんだ目でリゼットを覗き込む。
「本当に、良かった……治癒師の手配も間に合って」
「治癒師……?」
「ええ。貴方、顔に怪我を負ったのよ。もしかしたら傷が残ってしまうかもしれない、というくらい、大きな怪我だったの」
その言葉に、リゼットの顔から一気に血の気が引いた。
「ええ、顔に貴方怪我を負ったのよ。傷が残ってしまうんじゃないかというぐらいに、大きな怪我」
「……っ!」
それを聞いて、リゼットは声にならない悲鳴を上げた。
セシリアがくすっと笑った。宥めるように、その背中を撫でる。
「大丈夫、安心して。治癒師が来てくれたおかげで、傷はすっかり良くなったから。傷跡なんて、どこにも残っていないわ」
差し出された手鏡を覗き込むと、映っていたのは、いつもと変わらない綺麗な肌だった。怪我をしたと言われても、にわかには信じられないほどに。
けれど、治癒師なんて……。
普通の医者とは違い、魔法によって傷を癒す彼らは、治りが早く、後遺症も残さない。その代わり、数は極めて少なく、確かな伝手がなければ頼むことすら叶わない。当然、治療代も並外れて高価だった。
「もしかして、エドガー様が……治癒師の手配をしてくださったの?」
その問いに、セシリアは一瞬だけ戸惑うような表情を見せたが、すぐに頷いた。
「えっ……ええ、そうよ。エドガーがいなかったら、どうなっていたことか。貴方のこと、本当に心配していたんだから」
その言葉を、リゼットは疑うことなく受け取った。
エドガーが、自分のことを心配していた。そそれだけではなく、自分を治療するために治癒師の手配もしてくくれた。その事実だけで、胸が温かくなるのを感じていた。
「そうなの、わざわざわたしの為に……」
「もう少し、寝ていたら? まだ顔色が優れないわ。お医者さまがいらしたら、起こしてあげるから」
「そうね、ありがとう……」
そう答えた直後、リゼットの意識はまた、ゆっくりと途切れていった。
部屋の隅に、誰か別の人物がいたような気もしたが、痛みで思考がぼやけていたせいか、その姿ははっきりと思い出せなかった。
この日を境に、リゼットの中で、エドガーという青年の存在は特別なものへと変わっていった。





