第一話『偽善者』
春の匂いが嫌いだった。
別に花粉症というわけではない。
桜が嫌いなわけでもない。
ただ、何かが始まりそうな空気が嫌いだった。
何かが始まれば、何かが終わる。
そんな当たり前のことを考えるようになったのはいつからだっただろう。
「おい」
頭を叩かれた。
雨宮零は顔を上げる。
目の前には見慣れた顔があった。
「聞いてんのか?」
「聞いてない」
「聞けよ」
「興味ない」
「酷くね?」
昼休みの教室。
窓際の席。
高校に入学してまだ二週間。
隣の席になっただけの男子。
名前はまだ覚えていない。
覚える必要性も感じていなかった。
「で、何の話だ」
「やっと聞く気になったか」
男子は満足そうに笑う。
「お前さ」
「うん」
「気持ち悪いよな」
零は無言になった。
数秒後。
「喧嘩売ってんのか」
「違う違う」
男子は笑う。
「なんか良い人ぶってる感じ」
「は?」
「困ってる人見たら助けそうじゃん」
「助けるだろ」
「ほら」
「?」
「そういうとこ」
男の言っていることの意味が分からなかった。
男子は机へ肘をついた。
「俺さ。そういう奴嫌いなんだよ」
「なんで」
「だいたい嘘だから、偽なんだよ」
零は少し考えた。
「そうか」
「否定しないのか」
「別に」
男子は驚いたような顔をする。
「変な奴」
「お前に言われたくない」
「俺は新堂優斗」
「聞いてない」
「自己紹介だよ」
「そうか」
「お前は?」
「雨宮零」
「知ってる」
「じゃあ聞くな」
「会話終了じゃん」
零は本へ視線を戻した。
優斗は数秒黙る。
それから突然言った。
「なあ」
「なんなんだよ」
「友達いる?」
「いる」
「何人」
「二人」
「少な」
「十分だろ」
「いや少ないだろ」
「別に増やす必要ない」
「俺も入れろよ」
「なんで」
「暇だから」
「帰れ」
「隣の席だぞ」
優斗は大声で笑った。
教室の何人かがこちらを見る。
零はため息を吐いた。
面倒な奴だと思った。
入学して二週間。
まだクラス全体の空気は柔らかい。
グループも完全には固まっていない。
皆が少しだけ他人行儀で、少しだけ優しい。
だからこの時の零は知らない。
この教室が。
この笑い声が。
この平和な空気が。
半年後には地獄へ変わることを。
放課後。
零は家へ帰った。
古い一戸建て。
決して裕福ではない。
それでも好きな家だった。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえりー!」
妹の声。
次の瞬間。
小さな身体が飛び付いてきた。
「うおっ」
「零ー!」
「重い」
「嘘つけ」
「重い」
「酷い!」
妹は頬を膨らませた。
母親が笑う。
「零、手洗いなさい」
「分かってる」
父親は新聞を読んでいた。
いつもの光景。
変わらない日常。
退屈で。
平凡で。
少しだけ幸せな時間。
夕飯の時。
父親が言った。
「高校はどうだ」
「普通」
「友達は?」
「できた」
「おお」
「一人だけど」
「十分だ」
父親は笑った。
零も少しだけ笑った。
本当にそう思っていた。
友達なんて多くなくていい。
家族がいて。
少し話せる友人がいて。
普通に生きられればそれでいい。
その程度の願いだった。
夜。
零は机へ向かっていた。
参考書を開く。
窓の外では春の風が吹いている。
静かな夜だった。
スマホが震えた。
見知らぬ番号。
開く。
短いメッセージ。
『死ね』
零は首を傾げた。
誰かの悪戯だろう。
そう思った。
それだけだった。
翌朝。
教室へ入った瞬間。
零は足を止めた。
机の上。
油性ペンで大きく書かれていた。
『死ね』
昨日のメッセージと同じ言葉。
周囲を見る。
誰も何も言わない。
笑う者もいない。
止める者もいない。
ただ。
誰も見ていないふりをしていた。
雨宮零は数秒それを見つめた後。
静かに席へ座った。
そして消しゴムを取り出した。
まだ。
この時は。
本当に何も始まっていなかった。




