『毒見しかできない女』と仰るので、十年分のお役目をお返しいたします
「オリヴィア・ヴァレンタイン。お前との婚約は、今夜かぎりで破棄する」
弦の音が途中で切れた。
王太子アルヴィン殿下が広間の中央からわたくしを指していらっしゃる。
「理由が要るか。お前は毒見しかできない女だ。王太子妃の器ではない」
三百人の目がいっせいにこちらを向いた。
十年になる。十歳のあの日から、わたくしはこの方の膳の皿を一つずつ、先に口へ入れてきた。朝も昼も夜も、一日として欠かさずに。
そのために、朝は殿下より一刻早く起きる。昼の視察に随行するときは、道中の宿へ先に人を出して膳の刻限を合わせる。夜会の日は広間へ入る前に厨房へ回る。舞踏の輪に入れなかったのは、そこにいなかったからだ。
社交界でのわたくしは踊らない令嬢ということになっている。
それを、毒見しかできない、と仰る。
殿下の腕には桃色の髪の令嬢が寄り添っていた。ノエミ・ラスキエ男爵令嬢。今年の春から社交界に出てきた方で、殿下が可愛がっていらっしゃるという噂は、わたくしの耳にも届いていた。
そのノエミ様が痛ましいものを見る目でわたくしを見た。
「オリヴィア様、わたし、ずっと胸が痛かったんです。毒見だなんて、そんな危険なこと。お可哀想で」
「聞いたか、オリヴィア。ノエミはお前の身を案じている」
殿下は満足そうに頷かれた。
「そんな下働き、侍女にでもやらせればいい。婚約者にさせることではなかったな。今夜からは女官長に手配させる」
広間のどこかで小さな笑いが起きた。
扇の陰から囁きが流れてくる。
——毒見ですって。それで痩せておいでなのね。
——踊りもなさらない方だもの。ほかに何ができて。
十年前にこの広間でわたくしに毒見を勧めた方も、たぶんこの中にいらっしゃる。冗談のような口ぶりだったことだけ覚えている。
わたくしは膝を折り、顔を上げてから申し上げた。
「殿下。恐れながら、もう一度だけ申し上げます。殿下の膳には毒が入っております」
「またその話か」
殿下は心底うんざりした顔をなさった。
「十年、同じことを言い続けたな。証拠は。誰か倒れたか。倒れたのはお前だけだ」
「わたくしが先に口にしておりますので」
「体の弱い娘が、己の不調を毒のせいにしているだけだろう。医師もそう言っている」
同じことを、何十人もの方から言われてきた。
わたくしの訴えを、証拠として受け取った方は一人もいない。
だからわたくしは毎食、自分の口で確かめ続けるしかなかったのだ。
「承知いたしました」
わたくしはそう申し上げた。
「では、毒見のお役目も、本日かぎりでお返しいたします」
殿下は片眉を上げられただけだった。返す、という言葉の意味を、まるで受け取っていらっしゃらないお顔だった。
わたくしはもう一度膝を折り、広間を出た。
泣きも縋りもしなかった。この十年で、公の場で顔を崩さない訓練だけは、嫌というほど積んでいる。
◇
回廊で女官長を呼び止め、懐から書付を出してお渡しした。
三枚ある。膳の皿を一口ずつ確かめる順序。喉が痺れて指先が冷えたら、その皿は下げること。下げるときの言葉。過去十年で毒の出た皿の傾向と、出やすい日取り。
三年前から書き直しては懐に入れていた。いつ外されても、次に立つ者が困らないように。日付だけを、その晩に入れた。
「引き継ぎでございます。明日から入る者に、必ずお渡しください」
女官長は書付を受け取り、それから廊下の先へ目をやった。
殿下がノエミ様を伴って歩いてこられるところだった。
「なんだ、それは」
「オリヴィア様から、引き継ぎの書付を」
殿下は書付を女官長の手から取り上げ、一枚目に目を落として、鼻で笑われた。
「侍女にでもできる仕事に、引き継ぎ書とはな」
そして女官長へ突き返された。
「捨てておけ。この女は自分の役目を、よほど大層なものだと思いたいらしい」
女官長は、はい、と答えた。
十年訴えて届かなかったものが、その晩に届く道理はない。
◇
馬車の中で、わたくしはようやく背を椅子に預けた。
侍女のベルタが膝掛けを直しながらわたくしの顔を覗き込む。
「お嬢様。お顔が」
「ええ。少し、疲れたわ」
言葉にすると、それが本当のことになった。わたくしは目を閉じた。
十歳の秋だった。公爵家の娘として、王太子殿下の婚約者に定められた。祝いの席で、宮廷の誰かが冗談のように言ったのだ。婚約者どのが毒見をなされば、殿下も安心であろうと。
わたくしは真に受けた。真に受けたまま、翌朝から膳の前に立った。
はじめの二日は喉の奥がざらつくだけだった。三日目に痺れた。指先から血の気が引いて、匙を落とした。
その晩は寝込んだ。一口しか含んでいないので、朝には起き上がれた。起き上がって、また膳の前に立った。
毒です、と申し上げた。
医師は、幼い令嬢が慣れない務めに気を張りすぎたのだと言った。母は体の弱い子だからと言った。父は公爵家の娘が役目を投げるなと言った。
寝込むたびに、わたくしの体が弱いことの証拠が一つ増えていった。
毒が入っていることの証拠には、ならなかった。
皿を下げる言葉を覚えたのも、その年だ。
毒です、と申し上げれば叱られる。けれど『わたくしの口に合いません』と言えば、その皿は黙って下げられた。理由を訊く者はいなかった。わがままな令嬢だと思われたのだろう。
そう思われるほうが皿は速く下がった。
一度だけ、下げた皿を取り置こうとしたことがある。十一の年だ。
厨房の者が青くなって、わたくしの手から皿を取り上げた。王族の膳から下げたものは、その場で捨てる決まりなのだそうだ。残せば、毒が入っていたのかと人が騒ぐ。騒ぎになること自体が、王家の恥になる。
証拠は、毎食、目の前で捨てられていった。
だからわたくしは十年、わがままな令嬢でいた。
一年が過ぎ、三年が過ぎた。反応が出ても寝込まなくなった。体が慣れたのだ。
代わりに、味が消えた。
薄れはじめたのははじめの年からだ。十一で、ほとんど何も分からなくなった。舌が焼けてしまったのだと、やっと信じてくれた医師が言った。それは毒のせいですかと訊いたら、その医師は困った顔で黙った。
その方は父にも同じことを申し上げたそうだ。父は、では殿下に伺わねばならぬ、と答えた。それきりだった。婚約者の毒見はもう、王家の帳面に載る務めである。
それから九年、味というものを覚えていない。
喉の痺れと指先の冷えは、今も出る。毒の入った皿を口にしたときだけ、その場で出る。
けれど焼けた舌はいつでもそこにある。だから合図の役には立たない。
「お嬢様」
ベルタが小さな声で言った。
「もう、よろしいのでしょう」
「ええ」
「では、明日の朝は、召し上がりたいものを召し上がってくださいませ」
「……何を食べても、同じ味なのよ」
言ってしまってから、口をつぐんだ。
こういうことは独りの部屋で言うと決めていた。
ベルタは怒らなかった。ただ、はい、と言って膝掛けをもう一度直した。
◇
わたくしが婚約破棄されて帰ったことを、父は二日ほど怒っていた。
三日目に、王家からの詫びも説明も一切ないことに気づいて、怒る相手を変えた。
四日目の朝、食堂で父が言った。
「オリヴィア。……お前は十のときから、毒だと言っていたな」
「はい」
「わしは、体が弱いのだと思っていた」
匙が皿に当たる音がして、それきり止まった。
「うむ」
父はそれだけ言って、朝に届いた書簡の束を持ち上げた。持ち上げたきり、一枚もめくらなかった。
謝罪の言葉はなかった。この方はそういう方だ。
けれどその日から、公爵家の食卓にわたくしの膳が出るようになった。十年、王宮で三度の膳を済ませてから帰る暮らしだったので、家の膳というものをわたくしはほとんど知らなかった。
十日目に、辺境伯ライナルト・アーレンス様が公爵家へお越しになった。
北の国境を預かる家の当主で、社交界には年に二度しか出てこない方だ。わたくしとは夜会で三度ほど言葉を交わしたことがある。三度とも、天気と馬の話だった。
冬のあいだ、北へ抜ける街道は雪で閉じる。だからこの方は毎年、雪の解けるまで王都の別邸にいらっしゃる。
「オリヴィア嬢。これを」
差し出されたのは木箱に入った一切れの干した果実だった。
「北の谷でとれる。かなり酸い」
わたくしは木箱を見て、それからこの方の顔を見た。
「……ライナルト様。わたくしの舌のことを、どなたかにお聞きになりましたか」
「いや」
この方はそこで初めて少しだけ言い淀まれた。
「三年前の夜会で、あなたは出された菓子を一つも取らなかった。二度目のときも、三度目のときもだ。だから馬の話をした」
「食べ物の話をすれば、あなたが困ると思った」
「北へ戻ってから、王都の商人に訊いた。毒見を十年なさっている婚約者がいる、と」
「北の谷にも毒草を扱う者がいる。長くやった者は、みな舌が鈍る。あとは、こうして確かめるほかない」
わたくしは礼を述べて、口に入れた。
舌の上で、何かがちりりと起きた。
酸い。
「……酸い、ですわ」
「そうか」
ライナルト様はそれだけ言って手帳を開かれた。そして何かを書きつけ、木箱の蓋を閉じ、次の木箱を出された。
「では次だ。これは苦い」
「あの、ライナルト様」
「一つずつやる」
そう仰って、その日は七つ持ってこられた。分かったのは酸いものが一つだけだった。
分からなかった六つにも、ライナルト様は同じだけ時間をかけ、一つずつ手帳に印を付けられた。
翌週も来られた。今度は十一。
その日、この方はベルタを呼ばれた。
「この十日で、彼女が残さず食べたものを教えてくれ」
ベルタが挙げたのは三つだ。葱を利かせた汁物。香草を詰めた鶏。皮のかたい梨。
「味が分からないものを食べ切るのは、苦しい。それでも残さなかったものには理由がある」
ライナルト様はそれも手帳に書き取られた。
三度目は雪の日だった。玄関で外套を払いながら、この方は当たり前のように仰った。
「甘いものは今のところ全滅だ。塩は分かる日と分からない日がある。酸いものと香りの強いものは通る。あとは温度だな。熱いほうが分かるらしい」
わたくしは思わずこの方の顔を見た。
「……なぜ、そこまで」
「あなたが十年、毎日食べたものの話は、誰も訊かなかっただろう」
ライナルト様は外套をベルタに渡された。
「私は訊く」
その晩、わたくしは独りの部屋で少しだけ泣いた。
ベルタにも見せなかった。
◇
王宮の食卓が止まったという話が公爵家に届いたのは、婚約破棄からひと月あとのことだ。
はじめは、殿下の毒見に立てられた侍女が寝込んだ、という話だった。
マノンという名の十六の娘だそうだ。膳の皿を一口ずつ確かめるようにとだけ命じられて、それきりだった。
三日目の晩に寝込んだ。翌朝には起き上がった。次の膳に立ち、また寝込んだ。
その話を聞いた瞬間に、何が起きているのか分かった。
あの娘は喉が痺れて指先が冷えることを、慣れない務めの緊張だと思っている。それがその皿を下げろという合図だとは知らない。
知っていたところで、あの娘には下げられない。
十年、毒の入った皿をわたくしが下げられたのは、わたくしの舌が優れていたからではない。婚約者だったからだ。
三年かけてあの書付を書き直していたわたくし自身、そこが見えていなかった。
だから毒の入った皿は、そのまま膳を通っていく。
殿下のところへ、行く。
ふた月目に噂が変わった。
殿下が皿の前で震えるようになられたという。
匙を取っては置き、置いては取り、口をつけては途中で椅子を引く。厨房の者を総入れ替えなさった。それでも治らないので、毒見役を三人に増やされた。三人が順に口をつけ、異常はございませんと申し上げてから、殿下が手を伸ばされる。
伸ばして、止まる。
三人が口にするのは、それぞれ一口である。喉が痺れた者は水を飲んで黙る。指先が冷えた者は、手を後ろへ回して隠す。王太子の膳に難癖をつけて職を失う者はいない。
異常はございません、と三人が言い、皿は殿下の前へ運ばれる。三人のうち二人は、月の半分を寝込んでいたそうだ。
残りを召し上がるのは殿下おひとりだ。わたくしがひと月かけて含んだ量を、あの方は二日で召し上がっている。
三月目には痩せた、という話になった。夜会に出てこられなくなった。
◇
その月の半ばに、宮廷の侍医が公爵家へお見えになった。
十年、わたくしを診ていた方だ。体の弱い令嬢だと最初に言ったのも、この方である。
「オリヴィア様。不躾を承知でお尋ねいたします。殿下のご不調について、何かお心当たりはございませんか」
「ございます」
わたくしは即座に申し上げた。
「殿下の膳には毒が入っております。十年前からです」
これで、二十八回目になる。
侍医の目つきが変わった。夜会の晩にノエミ様がなさったのと、そっくり同じ目だった。
「毒でございます」
「ええ、ええ」
その方は丁寧に一礼して玄関へ向かい、扉の前で足を止められた。
「……失礼ながら。その毒とは、どのようなものでございましょう」
「口にした場で、喉が痺れます。指先が冷えます」
侍医は動かなかった。背中を向けたまま、ずいぶん長く立っていらした。
十年、わたくしを体の弱い令嬢だと診てきたのはこの方である。毒だと認めれば、その十年が丸ごと誤診になる。
やがて「お大事になさいませ」と仰った。
門の外へ馬車が出ていく音を、窓から聞いた。
二十八回目も、届かなかった。
◇
わたくしは何もしなかった。
手紙も出さなかったし、宮廷に人も遣らなかった。そのどれかをすれば、わたくしがやったことになる。
あの娘のことは、考えた。
文を出したところで、届く先は女官長か殿下である。二十八回はねつけられた訴えが、二十九回目で通るとは思えない。届かないどころか、追い出された婚約者が新しい毒見役に難癖をつけている、という話になる。あの娘の立場が悪くなるだけだ。
一口なら、朝には起き上がれる。十歳のわたくしがそうだった。
わたくしが知っていたのは、それだけである。
それを、何もしなかった、と言うのだろう。
十年、毎食、皿を下げていた者がいなくなった。それだけのことだ。
四月目の初め、殿下が朝の食卓で倒れられた。
◇
王室監察院のロート卿が公爵家へお見えになったのは、その半月あとだった。
老いた痩せた方で、挨拶もそこそこに一枚の紙を机へ置かれた。
わたくしの筆跡だった。毒の出た皿の傾向と日取りを書いた一枚である。合図と下げ方の二枚ではない。
「女官長が持っておりました。三枚のうち、これ一枚だけを」
「……捨てろと命じられたはずでございます」
「命じられて、四月持っていたわけです」
ロート卿は少しだけ目を細められた。
「あの女官長は、十年前にあなたを毒見にと勧めた席にいたそうです。そのときは笑っていたと申しておりました」
「……残りの二枚は」
「その晩のうちに焼かれました」
ロート卿は紙を裏返された。
「殿下の御前で捨てろと命じられた紙です。持っていると知れれば、あの者の首が飛ぶ」
隅に日付が入っている。婚約破棄の夜のものだ。
「オリヴィア嬢。あなたはこの晩、何を仰いましたか」
「殿下の膳には毒が入っております、と」
「その前は」
「その年の春に宰相閣下へ。二年前に王妃殿下の女官長へ。四年前に殿下ご自身へ。……十歳の年から二十七回、先月、侍医どのに申し上げたぶんを入れて二十八回でございます」
「厨房の献立帳です。王族の膳は、出した料理をすべて日付とともに書き留める決まりでした。下げた皿には、下げた旨の印が付きます。十年分、一日も欠けずに残っておりました」
ロート卿は紙を指で叩かれた。
「あなたが下げさせた皿は、十年でおよそ一万一千。納入の記録と突き合わせました。そのすべてに、ラスキエ男爵領から納められた香辛料が使われております。あなたが下げなかった皿には、一度も使われておりません」
毎食、目の前で捨てられていたはずの証拠は、捨てられていなかった。決まりだからというただそれだけの理由で、十年ぶんの料理名と日付が書き留められ続けていたのだ。
「香辛料を押収して調べました。一度に人を殺さぬ量を、毎食の膳に。狙いは殿下を弱らせることでした」
「……娘を、入れるために」
「そのとおりです」
「けれど十年、殿下はお元気でいらっしゃいました」
「ラスキエ家は、それを承知しておりました」
ロート卿は紙から目を上げられた。
「効いていないことは、あちらにも分かる。だが婚約者に毒見をやめさせる手立てが無かった。娘を殿下に近づけ、あなたから毒見を外させる。当主の手控えに、娘が年頃になるまで待つとございました。家令の申し立ても同じです。それが十年越しの本筋でございます」
「では、なぜ十年も入れ続けたのでしょう」
「毒は、香辛料そのものでございました」
ロート卿は乾いた声で仰った。
「ラスキエ領の谷に育つ草です。あの土地の水を吸うと、実に毒が回る。乾かしても抜けません。混ぜ入れたのではなく、はじめからそういう品なのです」
「……毒のないものを納めれば」
「あの家の谷では採れません。よそから買えば色も香りも変わり、厨房が気づきます。納めるか、納めないかしかございません」
「……では、なぜ納め続けたのでしょう」
「やめれば、その品は厨房から消えます。娘を入れる段で納めはじめ、そこで殿下が弱れば、誰が見ても納めた家を疑いましょう」
厨房の当たり前にしておくために納め続けた毒が、一万一千枚ぶんの記録になって残った。
ノエミ様が年頃になるのを、あの家は十年待っていた。
そしてその娘が可哀想だからと言って、毒見をわたくしから外させた。
「ノエミ嬢は、ご存じなかった」
ロート卿は淡々と仰った。
「今朝、実家の者と引き離しました。話を聞いた際、失神なさいましたので」
「そうですか」
「オリヴィア嬢。証言をお願いしたい」
「必要な分だけ、いたします」
それ以上はこちらから足さなかった。
言わずに済むというのは、こういうことなのか、と思った。
◇
宮廷から使者が来たのは、その五日あとだ。
近衛の隊長が王家の紋の入った書状を捧げ持って、公爵家の玄関で膝を突いた。
「殿下は、意識をお取り戻しになりました」
「よろしゅうございました」
「王家として、オリヴィア様に王宮へお戻りいただきたく」
「お断りいたします」
隊長の顔が上がった。
「殿下は、あなた様でなければ膳に手が出せぬと仰せです。国王陛下も、婚約の破棄は無効とし——」
「隊長どの」
わたくしは玄関の敷居をまたがずに申し上げた。
「順序が違います」
「順序、とは」
「わたくしは十年、毒が入っていると申し上げてまいりました。二十八回でございます。そのすべてを、体の弱い娘の妄言として片付けられました」
隊長は書状を持ったまま、動かなくなった。
「まず詫びるべきは、十年ぶんの訴えを聞かなかったことについてでございましょう。膳の心配は、そのあとになさいませ」
「……」
わたくしは膝を折った。
「そう、お伝えくださいませ」
書状は開かれないまま持ち帰られた。
◇
その月の末に、公爵家の勝手口へ娘が一人立った。
マノンだった。
殿下が倒れられたあと、毒見に立った侍女は三人とも暇を出されていた。宮廷としては務めを果たさなかったということになるらしい。行くところがないまま王都をさまよい、宿代が尽きてここへ来たのだという。
痩せていた。顔色が十二の頃のわたくしに似ていた。
「あの、わたし」
「お入りなさい」
「わたし、皿を下げませんでした」
玄関の敷石の上でその娘は震えていた。
「喉が痺れたんです。指が冷えて。でも、そんなことを申し上げる立場ではなくて。あのとき下げていれば、殿下は」
「マノン」
わたくしはその手を取った。冷たい手だった。もう毒のせいではない。ただ寒いのだ。
「あなたに下げられる皿は、一枚もありませんでした」
「でも」
「わたくしにそれができたのは、婚約者だったからです。あなたの落ち度ではありません」
娘はそこでやっと泣いた。
わたくしは泣かなかった。娘の背に手を当てて、泣きやむまで待った。
ベルタを呼んで、湯と熱いものを頼んだ。
その晩、この娘は公爵家の侍女になった。膳の前には二度と立たせていない。
◇
ラスキエ男爵家の摘発は、近衛と監察院がまとめて行った。
わたくしは求められた日に監察院へ出向き、皿を下げた日と、その皿が何であったかを述べた。それだけだ。剣も断罪の言葉も、わたくしの手のものは一つもない。
男爵家は取り潰しになった。当主と長男は死罪、家財は没収。
ノエミ様は北の修道院へ入られた。
アルヴィン殿下は王太子の位を弟君へ譲られ、離宮に移られた。
伝え聞くところでは、あの方は毒の一件をすべて理解なさったという。誰がいつから何のために盛り、十年、誰がそれを止めていたのかも。
それでも離宮から月に一度、手紙が届く。
わたくしは一度も開かずに監察院へ回している。
なぜ戻らないのか、と書いてあるそうだ。毎月、同じことが。
◇
雪が解けて北へ戻られてからは、木箱は馬で届くようになった。十日に一つほど。
春の終わりに届いた八十九番目の箱には、書付が入っていた。求婚である。北は寒い、けれど酸いものと熱いものが多い、それだけの口上だった。
わたくしは、はい、と書いて返した。
夏が来て、わたくしはアーレンス領へ来た。
◇
北の冬は朝のうちに窓が白くなる。
「オリヴィア」
ライナルト様が湯気の立つ碗を持って部屋へ入っていらした。この方は使用人に運ばせない。ご自分で運んで、ご自分で置いて、それから座られる。
「百二番目だ」
わたくしは碗を受け取った。
北の谷の草を干して、皮を薄く削いだ果実と一緒に、熱い湯で立てたもの。香りが強い。湯がかなり熱い。
一口、含んだ。
喉は痺れなかった。指先も冷えなかった。
その代わりに、舌の奥のほうで何かがゆっくりと開いた。
苦い。それから後ろのほうに、ほんの少し甘い。
わたくしは碗を持ったまま、しばらく動けなかった。
「どうだ」
「……苦うございます」
「うん」
「その後ろに、甘うございます」
ライナルト様は手帳を開かずに、わたくしを見ていらした。
「甘いものは全滅だと仰いましたでしょう」
「言った。だから、甘いものだけでは駄目なのだと思ってな」
この方は碗を指された。
「香りを強くして、熱くして、苦いものの後ろへ隠す。そうすれば通るかもしれん。そう当たりを付けた」
「……百二で」
「百二で当たったな」
その朝の茶に、十年ぶりに味がした。
窓の外で雪が落ちる音がして、わたくしは二口目をゆっくりと含んだ。
(了)




