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ep.77 ライオンアイズ・ウォッチ(ただし湘南仕様)

橋を渡りきった先。

かつて観光客で賑わっていたであろう江の島の玄関口は、今や厳重な木柵と有刺鉄線、そして廃車を積み上げて作られた防壁によって、完全に『要塞化』されていた。


防壁の各所には、手製の槍やボウガン、中には自衛隊の払い下げらしき自動小銃を構えた衛兵たちが鋭い視線を光らせている。

ギギギと重い音を立てて開かれた防壁の向こう側へと、一郎は足を踏み入れた。

そこは、外の地獄とは一線を画す、奇妙な活気に満ちた『集落』だった。

ざっと見渡したところ、人口は100人程度といったところか。

かつての土産物屋や旅館の建物は、すべて避難民の居住スペースや共同の倉庫として再利用されている。

通路にはテントが乱雑に張られ、泥に汚れた子供たちが走り回り、大人たちは武器の手入れや、何やら怪しげなスープの炊き出しに追われていた。

実にディストピアの縮図のような雑多な雰囲気だ。


だが、その集落の入り口に掲げられた、手書きの看板を見た瞬間、一郎は思わず足を止め、盛大に心の中で突っ込みを入れてしまった。

看板には、下手くそな英語と日本語でこう書かれていた。


【Lioneye's Watchライオンアイズ・ウォッチへようこそ】


(……いや、なんでだよ! ここ日本だぞ!? 湘南の江の島だぞ!?)


ハクスラ界の古典、PoEのプレイヤーであれば誰もが知っている、Act1の最初の拠点の名前である。

神の仕業なのか、それともこの集落のリーダーが自分と同類の重篤な『覚醒者エグザイル』なのかは知らないが、あまりにも世界観のゴリ押しが激しすぎる。

生シラス丼のノボリが残る観光地に『ライオンアイズ・ウォッチ』は無理があるだろう。

しかし、ツッコミを入れつつも、一郎は冷徹にこの土地の生存戦略を観察し、分析を始めていた。

二十年の社畜生活と、早期リタイアを達成するためのリサーチで培われた「監査の目」が勝手に作動する。


「なるほど……。立地条件としては完璧な安全地帯だな」


江の島という土地は、陸地と一本の橋だけで繋がった完全な隔離空間だ。

橋さえ塞いでしまえば、陸側から押し寄せるモンスタースタンピードの大部分をシャットアウトできる。

海から襲来する水棲のマーマンどもについては、自分が川崎のコンビナートで手に入れた『Nessa's Prayer(ネッサの祈り)』を使って跪かせたように、何らかの対処法があるのだろう。

あるいは、この島の地形そのものが、モンスターの出現を制限する特殊なエリア特性を持っているのかもしれない。


さらに周囲を観察すると、江の島の斜面、かつて「江の島サムエル・コッキング苑」へと続いていた山道一帯が大規模に切り拓かれているのが見えた。

そこには、不揃いながらも青々とした葉を茂らせる畑が、段々畑のように構築されていた。


「山で畑を耕し、食料を自給自足しているわけか。そして海では……」


岩場の影や防波堤の近くを見ると、十数人の住民たちが手製の釣竿や網を使って黙々と作業をしていた。

バケツの中には、現実の魚に混じって、明らかに発光している怪しげな『ダンジョン水産物』がピチピチと跳ねている。

毒見をどうクリアしているのかは不明だが、少なくとも、彼らはこの極限状態において「飢え死にしない生産ライン」を確立しているのだ。

新宿のスラムのように、歪んだ国家の過酷な徴税システムに怯え、配給の芋を巡って殺し合う底辺生活に比べれば、ここは遥かに人間らしい。

支配者の顔色を伺う必要のない、自立したコミュニティの形がここにはあった。



「あんたが、入口の化け物を片付けたっていうおっさんかい?」


不意に、ハスキーな女性の声が一郎を現実に引き戻した。

振り返ると、そこには赤錆びた胸当てを身につけ、腰に大剣を帯びた、いかにも『女戦士』といった風貌の人物が立っていた。

年齢は三十前後。

ショートカットの髪に、幾多の修羅場を潜り抜けてきたであろう鋭い眼光が宿っている。


「鈴木一郎だ。おっさんというのは否定しないが、私はただの隠居志望の男だよ。そこの手荷物どもをここまで運ぶついでに、門前の粗大ゴミを片付けただけだ」


一郎は努めて事務的に、感情を交えずに答えた。

ここで親しみやすい態度を取ると、タダ働きを押し付けられるのがオチだからだ。

一郎の労働力は、明確な対価が支払われる時にのみ稼働する。


女戦士は一郎の言葉に、フッと皮肉げな笑みを漏らした。


「隠居志望ねぇ。そんな化け物みたいな筋肉のゾンビを5体も引き連れて、さらに全身鉄塊の守護者まで従えている男のセリフにしちゃあ、笑えない冗談だ。私はこの拠点の防衛を預かっている『サクラ』だ。歓迎するよ、鈴木。お陰で、今夜は門番の交代要員が一人死なずに済んだ」


サクラと名乗った女性は、背後のゾンビたちを恐れる風でもなく、むしろその戦力を値踏みするように見つめている。

やはり、ここに残っている連中は肝が据わっている。

新宿の魔力を見ただけで失禁していた徴税官たちとは大違いだ。


「サクラ、一つ聞きたいんだが。この拠点の名前は、誰が付けた?」


一郎が一番気になっていたツッコミ処を口にすると、サクラは困ったように眉根を寄せ、島の山頂付近を指差した。


「ああ、あの看板かい? 私たちのボスの趣味さ。『どうせ世界がハクスラみたいなクソ仕様になっちまったんだ、名前くらい乗っかってやろうじゃねえか』ってね。あいつは山頂の展望灯台を改造した司令部に引きこもって、ずっと怪しげな予言だの、クラフトだのの研究に没頭してやがる。あんたみたいな『目覚めた連中』を待ってたのさ」


(ボスの趣味、ね。間違いなく、私と同類か、それ以上のPoE脳な『覚醒者エグザイル』だな……)


一郎は内心で頭を抱えた。

ゲームの知識がある人間と交渉するのは、メリットもあるがデメリットも大きい。

こちらのビルドの弱みを見抜かれるリスクがあるからだ。

常に手の内をすべて見せず、切り札となる隠し資産を持っておく必要がある。


「話は分かった。私は山頂のボスに用がある。ナヴァリの予言について、少し確かめたいことがあってね」

「ナヴァリ? ああ、あの怪しい占い師の婆さんのことか。ボスなら何か知ってるかもな。だが、山頂へ行く前に、もし良ければウチの闇市に寄っていきな。入口の化け物を倒したあんたなら、相応の取引ができるはずだ」


サクラはそう言って、かつての土産物街の奥を指差した。

そこには、怪しげなローブを纏った商人たちが、ブルーシートの上に様々なジェムや未鑑定の装備品を並べているのが見えた。

取引、という言葉に、一郎の投資家としての血が微かに騒ぐ。

パシフィコ横浜での激戦を経て手に入れた至宝『Montregul's Grasp(モントレグールの掴み)』は、未だにステータス不足で装備できずインベントリで塩漬け状態になっている。

この街の市場なら、知性を補強するための『Lapis Amuletラピスアミュレット』や、あるいは知性の付いた指輪が安値で転がっているかもしれない。


「いいだろう。山頂へ登る前に、まずはそのマーケットを見させてもらおうか」


一郎はゾンビたちに周囲を警戒させつつ、江の島の斜面に広がる日本で最も奇妙な拠点の深部へと歩みを進めた。

早期リタイア生活の再建に向けた次なる投資のチャンスが、この泥臭い集落のどこかに眠っていることを願いながら。


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