ep.3 FIREしたはずがディストピアの底辺にいた
暗く湿ったコンクリートの片隅で、鈴木一郎は何度目かもわからない独り言をこぼした。
1999年、世界は変わった。
突如として現れたダンジョン、そこから溢れ出した未知の怪物。
現代兵器を嘲笑うかのような蹂躙劇の末、国家は霧散し、人口は20億人にまで激減した。
かつて、一郎は社畜だった。
上司の罵倒に耐え、サービス残業をこなし、趣味も持たず、ただひたすらに「FIRE」……経済的自立と早期リタイアを目指して、質素倹約と投資に明け暮れた。
ようやく目標金額を達成し、退職届を叩きつけた翌週。
神様はあまりに無慈悲だった。
彼が手に入れたのは、悠々自適なリタイア生活ではなく、文明の瓦礫とモンスターが徘徊する地獄だった。
「あー……。今日もマイナスの通知か」
一郎が手元の古びた端末を操作すると、電子化された通貨の残高が虚しく減っていく。
税金徴収人という名のチンピラを闇に屠ったところで電子マネーで統一されている以上、国家は容赦なく搾取していく。
現在の日本は、核シェルターに逃げ延びた富裕層が設立した「新日本民主主義国家」が支配している。
「民主主義」という名は飾りに過ぎない。
投票権は支配層だけにあり、一郎のような「一般市民(実質的な奴隷)」は、呼吸するだけでも税を取られる徹底的な搾取対象だ。
現代の通貨はすべて電子化され、あらゆる行動が記録される。
野蛮な民度、暴力が支配する街並み。
一郎はかつての社畜時代に培った「目立たず、波風を立てない技術」を駆使し、なんとかこのディストピアで生き延びていた。
「おっさん、またその独り言? 気持ち悪いよ」
声をかけてきたのは、隣の区画に住む浮浪児の少年だった。
一郎は感情の死んだような目で少年を一瞥する。
「少年、これが私のアイデンティティだ。平穏こそが至高。私はただ、この狂った世界で、かつて夢見た『静かな暮らし』の残り香を求めているだけなんだ」
「はいはい、わかったから。それより、今日の配給ランク下がったって聞いた? クソ政治家どもがダンジョンの深層開拓に予算回すからってさ」
一郎の眉がわずかに動く。
予算度外視の核融合炉や食品工場を持つ国家であっても、その恩恵を受けるのは上級市民のみ。
一郎たち底辺に与えられるのは、最低限の栄養剤と、それを購うための過酷な労働だ。
「……私のFIRE資金が、紙屑どころか電子のゴミになっただけでも耐えがたいというのに。これ以上、私の慎ましい生活を侵食するか」
一郎は重い腰を上げた。
彼が向かうのは、街の境界線にある「ダンジョン」の入り口だ。
この時代、最も効率的に電子通貨を稼ぐ方法は、ダンジョンでモンスターを間引き、その素材を国に納めること。
文明を崩壊させた元凶に、文明崩壊後の通貨を求めて縋る。
皮肉な話だ。
一郎は40代のくたびれたおじさんである。
筋力があるわけでも、特別な魔法の才能があるわけでもない。
だが、彼は知っていた。 この世界で生き残るための「裏技」を。
ダンジョンのゲートを潜る際、一郎は自身のステータス画面を、誰にも見られないように操作した。
そこには、かつての「投資」と「節約」が、この世界のシステムにバグを引き起こしたかのような、異常な数値が並んでいた。
「……配当金は、十分以上に積み立ててある」
一郎の目が、社畜時代に納期直前のトラブルを解決してきた時のような、鋭く冷徹な輝きを帯びる。
彼の「平穏」を邪魔する者は、たとえモンスターであろうと、この歪んだ国家であろうと容赦はしない。
ダンジョンの奥底から、地響きのような咆哮が聞こえてきた。
以前、一郎が見つけた「謎の宝箱」の中身が、彼の腰元で鈍い光を放っている。
「さて、残業の時間だ」




