妻の知らない旦那サマの顔
結局、ケント(本名ケント=バレイル=クレメイソン)はイスラの企てからは手を引いた。
ハッキリ言ってもう付き合っていられないと思ったからだ。
異様なまでにジラルド=アズマに執着するイスラにも、天然過ぎて男としての自信を悉く打ち砕くメルシェにも。
幸い、鈍感メルシェのおかげで別にコトが起きたわけでもない。
ケントはこれからはもう、ただの文書室の文官として勤める事を、選択した。
仮病を使ってメルシェに近付き、口付けをしようとした企てが失敗してから早一週間。
その仮病の所為でケントは“持病の癪持ち”という設定持ちになってしまった。
折に触れメルシェやトキラから「体調は大丈夫?」「無理はしちゃダメよ」「重い物なんて持たなくていいから」「自分の体の事だけ心配して」と、まるで重病人か妊婦のような言葉掛けをされるが、それさえ気にしなければ概ね良好な関係を築けそうであった。
無関係を決め込むと、後には同僚としてメルシェを気遣う気持ちだけが残る。
あのイスラの事だ。
簡単には諦めたりしないだろう。
ケントはメルシェの様子をチラ見した。
普段と変わりなく、
淡々と自分の仕事を熟すメルシェ。
特に変わった事は無さそうだ。
それにメルシェは東方の古代守護精霊という無敵(に近い)ボディガードに24時間365日守られているのだ。
いくらイスラでもそう安易と害する事は出来ないはず。
出来ないから、自分を使ってメルシェを誘惑するという手を使ったのだ。
でも、それでもやはり一言くらいは告げておいてもいいだろう、とケントは思った。
「メルシェさん」
名を呼ばれ、メルシェは回転椅子を少しクルリとさせケントの方を見た。
「なぁに?」
「この国は王都のような都心部であっても比較的治安は良いですが、用心に越した事はありません。なるべく一人で行動しないようにして下さいね。王宮の中でも気を付けて」
「?はい、気を付けます」
急に身辺に気を付けるように言われ不思議そうにしながらも返事をするメルシェを見て、ケントは満足したように頷いた。
しかし、あれほどジラルドが警戒し、守護精霊まで憑かせてメルシェを守っていたというのに、まさかの事態が起きた。
メルシェの護衛にばかり気を取られていたジラルドの、盲点を突かれたと言っても良い出来事であった。
メルシェの身に何かが起こったわけではない。
ジラルドの身に、ナニかが起こったのだ。
「え?アレ?ナニこれ……!?
ど、どういう事っ!?ちょっ……メルっ……これは違う、誤解だっ、俺は無実だ、気が付けばこんなコトになってたんだっ……し、信じてっ!!」
狼狽え、必死に取り繕い、慌ててとにかく言葉を並べ立てるジラルド。
研究室の扉の前にはメルシェが、
そして研究室に置いてあるベッドの上には上半身裸のジラルドと全裸のイスラが並んで横たわっていた。
メルシェはもはや感情の幅が振り切れたのか、
何も言わずただ立ち尽くしてベッドの上のジラルドとイスラを見つめていた。
そんな様子のメルシェにイスラが鼻で笑い、勝ち誇った顔で言葉を投げかけた。
「ごめんなさいね奥様。彼も私も酔っていたのよ。でも人間、そんな時こそ本音が出るものなのよ。ジラルドは激しく私を求めてくれたわ。私達はこうなる運命だったの、悪く思わないでね」
俯くメルシェにイスラは尚も言い募る。
「丁度良かったじゃありませんの、奥様は離婚したがっていらしたもの。これで心置きなく離婚出来ますでしょう?なるべく早く離婚届をお渡ししますので、一人寂しく家で待っていてくださいましっ!」
とそう言って、部屋からメルシェを追い出した。
部屋の中には立ち竦むジラルドとイスラの二人っきり。
「………」
俯いたまま何も喋らないジラルドを見て、イスラはほくそ笑んだ。
――上手くいったわ。あれだけ鉄壁の布陣を敷かれたメルシェをなんとかするよりも、当のジラルドと既成事実をでっち上げて二人を離婚させる方がてっとり早いものね。
イスラはメルシェではなく、ジラルドに狙いを変更したのだった。
魔術を用いたのでも、色仕掛けをしたのでもなんでもない。ただ研究室にいたジラルドに睡眠薬入りのランチを食べさせて眠らせただけだ。
そして眠っている無防備なジラルドに酒に酔って関係を結んだという暗示を掛けたのだ。
それから頃合いを見計らいメルシェをジラルドの研究室に呼び出し、いかにも“事後”という状態を見せつけた……という訳である。
――ふふ、ちゃんと暗示は掛かっているみたいね。ジラルドったら狼狽えて可愛いったらありゃしない。こうなったら貴方達夫婦はお終いね。そして貴方は、私の責任を取らなければならない。平民女ならともかく、伯爵家の娘である私と関係を結んで、ただで済む訳がないくらい貴方にだってわかるでしょう?
イスラは怪しげな微笑みを湛えながらジラルドにしな垂れかかる。
「ジラルド……とても素晴らしかったわ」
いかにもそれらしく、イスラはジラルドに言う。
もう言い逃れが出来ないようにのゴリ押しだ。
しかしその時、扉の方からジラルドの声がする。
「何が素晴らしかったんだ?」
視線を向けるとそこにはジラルドの姿があった。
「え?…………え?」
イスラは今自分が体を密着させているジラルドと、
扉の前で腕を組みながらきちんと魔術師のローブを身に付けた姿のジラルドと両方を見やった。
「え?ジラ……二人?え?え?」
訳がわからず目を白黒とさせているイスラを見ながら、ジラルドはもう一度尋ねた。
「だから何が素晴らしかったんだって?」
「ちょっと……何これ、どういう事っ?」
狼狽えるイスラを尻目にジラルドは指をパチンと鳴らした。
するとイスラが寄りかかっていた方のジラルドが瞬時に姿を消し、後には術式の書かれた札のような物だけが残った。
イスラはそれを見て目を剥く。
「っ……式神っ……!?」
「そう、お前が俺だと思ってメシを食わせ、眠りこけたらベッドに移し、ご丁寧にシャツを脱がせた相手は俺の分身、式神ジラくんだよ。なかなか迫真の演技だっただろ?」
「なっ……何故っ?どうしてっ?いつから式神にっ!?」
「もうかれこれ3日前くらいからかな」
「3日前っ!?」
「そう。3日前から俺の代わりに式神ジラくんに出仕させてたの。念には念を入れて。そして俺は遠隔で周りの状況を見てたって訳。でもこれは魔力は消費するけど案外アリだな♪誰にも気づかれずサボれる事がわかったぞ☆」
次々に明かされる事実にイスラはわなわなと震え出す。
「………いつから?いつから私に警戒していたの?」
「メルの守護精霊がムギ似の野郎をお姫様抱っこした時からかな。お前、自分で気付かなかったのか?えげつない殺意をメルに向けてたぞ。それこそマッチョンマゲが感知するほどに」
あの時、走り去るバレイルを見送りながらジラルドは瞬時にイスラから徒ならぬ殺気を感じた。
守護精霊もそれを即座に感知し、メルシェを包み込んでいた。
「そこでようやくお前の真意を見抜けた訳だ。俺に対する感情なんて気にも掛けないから気付かなかったが、お前がそれほどまでに俺に執着し、メルに害意を持っていたとはな」
「だってっ!!貴方には私の方がお似合いだと思わないっ!?身分も家柄も、同じ魔術師としてもっ!!あんな魔力の無い平民女と結婚しても貴方に利する事は何一つ無いのよっ!?」
それを聞き、ジラルドはこれ見よがしに欠伸をした。
心底くだらない話を聞かされて、退屈だと言わんばかりに。
「ジラルド!」
「……イスラ=クレメイソン」
「!!」
ジラルドのバディとなって2年以上、これまで聞いた事のない冷たい声で名を呼ばれ、イスラは息を呑んだ。
「俺は、利益を得る為に結婚したんじゃない。
メルシェだから結婚したんだ。魔力が無いとか出自なんてどうでもいい。メルシェだから結婚したいと思ったんだ」
「………」
イスラは下唇を噛みながら俯く。
そんなイスラを一瞥しながら、ジラルドは話を続けた。
「それにしても命拾いしたなイスラ。もしメルシェに手を出していたら、魂までも切り刻んで悪魔を召喚して食わせていたぞ。ターゲットを俺に変えた事だけは褒めてやろう。メルシェは俺の逆鱗だからな」
たかが言葉の筈なのに、ただ口から発せられた音に過ぎないのに、
その最後の言葉から感じられる質量はイスラの心を凍らせ、震え上がらせるには充分であった。
しかし今のイスラを動かすものは何なのだろう、貴族令嬢としてのプライドかそれとも女としての意地か、イスラは震えながらもジラルドへ向けて言葉を放った。
「……でも、もう貴方達夫婦が終わりなのには変わらないわっ……あの女がここで見た事は消せないものっ……今頃はもう、離婚届にサインをしてるんじゃない……?」
「あ、言い忘れてたけど、さっきのメルも式神メル子ちゃんだから☆」
「…………え゛」
「メルも3日前から式神に取って代わってるんだ。メルは今頃、おトキさんと東方旅行の真っ最中だよ。俺が何日もかけて練りに練った東方ご堪能ツアーを満喫してる筈だ。本物のメルがこの場を見たんだったらあんなものじゃないぞきっと、俺もお前もその瞬間に精神が再起不能になるほどの罵詈雑言を浴びせられフルボッコにされていた筈だ」
「え゛」
「いやぁでも、後でメルを迎えに行くんだけど怒られるだろうなぁ。夜眠ってるメルとおトキさんを無理やり転移魔法で東方に連れて行ったからなぁ。
ホテルに手紙だけ残して置き去りにしてきたから、こりゃ~…後が怖いぞぅ……せめて旅行を満喫して機嫌を直してくれてるいいんだけどなぁ……費用も全部俺が出したんだし……許してくれるよな……?」
ジラルドは天を仰ぎ見て祈りながらそう言った。
「そんな……」
己の計画が全て無駄であったと知り、イスラは完全に戦意喪失、意気消沈してその場にへたり込んだ。
そんなイスラにジラルドは告げる。
瞬間、部屋の温度が一気に低下したような冷たい冷気をイスラは感じた。
「イスラ、バディは解消だ。
もうお前は俺の中で敵認識確定だ。今すぐ王都から消えろ。これが最後通告だ、もしまだ何かしようと企んだり、いつまでも俺の前をふらふらしていたら、もう容赦はしない。本当に魂まで切り刻む、わかったな?」
「っ~~~~……!!」
いつものジラルドの声ではない。
地の底から何かと共鳴するように響くジラルドの声にイスラは知らず泣きながら何度も頷いた。
「ご、ごっごめっ…ごめんなさっ……」
そしてその後意識を失い、ぱたんと倒れた。
「…………」
それをジラルドは何とも表現し難い冷たい目で見つめていた。
きっとメルシェは一生知る事はないジラルドの顔だ。
ジラルドは何を思ったのかいきなり魔術で絵筆を顕現させた。
そして気絶しているイスラの顔に……
「ぷっ☆」
ラクガキをした。
その次の日には、イスラ=クレメイソンは王宮魔術師団に辞表を提出し、まるで逃げる様にして王都を離れた。
彼女がどこに行ったのかは家族しか知らない。
それから数年後にイスラは王都に戻ったが、王宮には二度と寄り付かなかったという。
イスラの顔にどんなラクガキをしたのか……ご想像にお任せします☆
次回、最終話です。