第11話 裏切りの形
桜庭は、逃げなかった。
灰冠街区の会議室に戻ると、黒瀬が端末を解析し、保科が無言で椅子に沈み、俺はまともに顔を上げられなかった。
その空気の中で、桜庭だけが静かに待っていた。
「説明してもらうわ」
黒瀬の声は、氷より薄かった。
端末の画面には、高槻とのやりとりが並んでいる。
位置情報。
接触予定。
今日の偽保管場所。
言い逃れは無理だ。
桜庭は少しだけ笑った。
もう営業スマイルじゃない。疲れた人の笑い方だった。
「ええ。必要ですね」
「いつから」
と俺。
「最初からではありません」
頭の中の数字は、八六。
本当だ。
それが救いになるわけじゃない。
桜庭は机の上に両手を置いた。
「最初の接触は、選定の直後です。高槻陣営は早かった。私のことも、家族のことも知っていた」
「家族?」
俺が聞くと、桜庭は少しだけ目を伏せた。
「妻と娘がいた。……はずなんです」
言葉の最後が揺れる。
今までで一番、数字が読みづらい。
「写真がある。通帳の引き落としも、保険もある。でも、顔が思い出せない」
保科が息を呑む。
黒瀬でさえ一瞬だけ言葉を失った。
「高槻は言ったんです。継承戦で消された存在には、薄く残る痕跡がある。協力すれば、そこへ手が届くかもしれないと」
最低だ。
でも、たぶん効く。
「信じたのか」
責めるつもりで言ったのに、声に力がなかった。
桜庭は俺を見る。
「神代さん。忘れたいのに、忘れきれないものってありますか」
答えられない。
「私には、それが家族だった」
頭の中の数字は、九〇。
高い。
悔しいくらい高い。
黒瀬が冷たく問う。
「それで、何人売ったの」
「致命傷になる情報は二回。小さな位置情報は数回」
「成瀬くんは」
桜庭は、そこで初めて言葉を失った。
「……あれは、想定していなかった」
頭の中の数字は、七二。
本当かもしれない。だから何だ。
俺の中で、怒りと疲労と罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざる。
「ふざけるなよ」
桜庭は黙る。
「想定してなかったで済むか。あいつ、消えたんだぞ」
怒鳴ったところで戻らない。
分かってる。
分かってるのに止まらなかった。
保科が低い声で言う。
「じゃあ、もう切ろう」
当然だ。
普通ならそうする。
でも黒瀬は桜庭ではなく、俺を見た。
「神代」
判断を渡してきた。
最悪だ。
こういう役を、人にやらせない人だと思っていたのに。
いや、違う。
俺が証拠を選んだからだ。
なら次の判断も、俺が持たなきゃいけない。
長く息を吐く。
「切らない」
保科が顔を上げる。
桜庭も、黒瀬も。
「……正気?」
と保科。
「正気じゃないかもしれない。でも、こいつは高槻につながってる」
「だから?」
「つながってるなら、逆に流せる」
部屋が静かになる。
黒瀬の目だけが、少しだけ細くなった。
「続けて」
「桜庭さん。あんたは高槻に、“まだこっちを切ってない”って見せ続けろ。その代わり、次からは俺たちが入れる」
桜庭はしばらく黙り、それから苦く笑った。
「最低ですね」
「知ってる」
「でも、勝ち筋ではある」
頭の中の数字は、八一。
黒瀬が小さく頷く。
「採用」
保科は納得していない顔のままだった。
でも反対しなかった。
たぶん、俺の顔がひどかったんだと思う。
最後に、桜庭が俺へ向かって頭を下げた。
「成瀬くんのことは、言い訳しません」
「言い訳されたら殴る」
「でしょうね」
それでも、俺はこいつを追い出さなかった。
許したからじゃない。
成瀬を失って、それでも勝つために使うと決めたからだ。
たぶん、その瞬間に俺のどこかは昨日までと違うものになった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
許していないのに切れない、信用していないのに使うしかない。
あの嫌なねじれが残ったなら、たぶんこの章のいちばん大事なところまで来ています。
続きを追ってもらえるなら、ブックマークや評価を置いてもらえると嬉しいです。
次は、ようやく反撃の形を作り始めます。




