第1話 静止刻
ある日突然、世界が止まった。
そして「あなたは世界の支配者候補に選ばれました」と告げられる。
嘘をつけば消える。勝てばすべてを手に入れる。
これは、戦えない会社員が“言葉”だけで生き残ろうとする話です。
部長の「問題ない」は、だいたい問題がある。
今日は、四二だった。
低い。
こういう日は、たいてい誰かが面倒ごとに蓋をしている。
「神代、おまえ顔が死んでるぞ」
会議室を出た瞬間、森下が缶コーヒーを振りながら笑った。二十代半ば、営業二課のムードメーカー。うるさいが、悪いやつではない。
「生きてるよ」
「いや、さっきの部長の『順調です』、あれ絶対やばい案件じゃん。神代さん、分かるでしょ。人の嘘」
軽い口調だった。たぶん、からかい半分だ。
でも俺は笑えない。
昔から、人の言葉がどれくらい本当か、なんとなく分かる。
嘘発見器みたいに白黒つくわけじゃない。ただ、頭の中に数字が浮かぶ。それだけだ。
部長の「問題ない」は四二。
森下の「今日は定時で帰れそうっす」は一八。
ついでに言えば、俺の「生きてるよ」も六一くらいだった。
「その特技、マジで営業向きっすよね」
「特技じゃない。疲れるだけだ」
「ぜいたくな悩みだなあ」
そう言って森下は去っていく。
気楽でいい。たぶん、あいつみたいに半分くらい本気で、半分くらい適当に生きられたら、俺の人生はもう少し楽だった。
言葉が額面通りに受け取れないのは、地味にしんどい。
大丈夫と言われても、本当に大丈夫なことは少ない。
信じてると言われても、その中にはたいてい保身が混じる。
好きだ、助ける、任せろ、問題ない。
人は、思っているよりずっと曖昧な言葉で生きている。
だから俺は、あまり人を好きにならない。
正確には、なれない。
本音と建前の隙間が見えてしまうと、どうしても一歩引く。
エレベーターの鏡に映る自分は、二十九歳のわりにくたびれて見えた。
ネクタイを緩めながら、今日はまっすぐ帰ろうと思う。コンビニで安いビールを買って、動画でも流して寝る。そういう、何も起きない夜でよかった。
そう思った、十分後だった。
交差点で信号待ちをしていたときだ。
空から落ちていた雨粒が、ぴたりと止まった。
渋谷駅前のスクランブル交差点で、世界は止まった。
問題は、そのとき俺だけが動けたことだ。
最初は、目の錯覚かと思った。
けれど前を歩いていた女子高生の髪も、タクシーのタイヤがはねた水しぶきも、風に舞っていたチラシも、全部その場で静止している。
スクランブル交差点のど真ん中で、世界が写真みたいに固まっていた。
「……は?」
間抜けな声が出た。
いや、出るだろ普通。
周囲を見回す。誰も動かない。信号機は赤のまま止まり、イヤホンをした会社員も、ベビーカーを押す母親も、笑ったまま凍りついている。
俺だけが動けた。
試しに隣の男の肩に触れた。硬い。石みたいだ、というより、触れてはいけないものに触っている感じがした。
本能が、やめろと告げてくる。
スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、見慣れない黒い画面が点灯していた。
通知欄にもホーム画面にもないアプリのアイコンが、中央にひとつだけ増えている。
王冠のマーク。
下には英字で、`CROWN`とある。
「はは。新手の詐欺にしては手が込んでるな」
乾いた笑いが漏れた、その瞬間。
「神代ユウ」
声がした。
目の前に、いつの間にか白い人影が立っていた。
男か女かも分からない。背丈は人並みなのに、輪郭だけが白く抜けていて、顔がない。スーツでもローブでもない、ただ“人の形をした空白”だった。
宗教勧誘なら、勤務時間外にしてほしい。
いや、勤務時間内でも嫌だけど。
「あなたは世界の支配者候補に選ばれました」
人影はそう言った。
抑揚の薄い声だった。機械音声みたいなのに、なぜか耳に引っかかる。
初めて聞くはずなのに、妙な既視感があった。嫌な感じのやつだ。夢の中で一度聞いたことがあるみたいな、ぞわりとする違和感。
「支配者候補?」
「継承戦を開始します」
「待て待て待て。まず説明が雑すぎる。転職サイトでももう少し丁寧だぞ」
「説明は最小限に留めます」
会話が成立しているのに、こっちのツッコミが全部空振りする。
腹が立つより先に、嫌な汗が出た。
人影の後ろ、止まった街の上空に、見えないはずの何かが軋む気配があった。
空そのものにひびが入っているような、そんな錯覚。
「選定されたのは百名。各人に領域と権能が与えられます」
「権能」
「発言は条件下で現実に干渉します」
「……は?」
「ただし虚偽には代償が伴います」
いよいよ意味が分からない。
なのに、冗談だと切り捨てきれなかった。
目の前のものが明らかに現実離れしているせいもある。だが、それだけじゃない。
こいつの言葉には、変な確かさがあった。
頭の中の数字が、九八まで跳ね上がる。
笑えないくらい高い。
「質問を」
「山ほどある」
「ひとつに絞ってください」
「じゃあ、俺が断ったら?」
「辞退はできません」
「最悪だな」
「それは多くの候補者が口にします」
白い人影は、少しだけ首を傾げた気がした。表情はないのに、なぜかそう見えた。
「最初の段階では、理解より生存を優先してください」
「生存?」
「はい」
スマホの画面が切り替わる。
黒い背景に、白い文字が浮かんだ。
`ようこそ、神代ユウ`
`継承戦に接続しました`
指が冷える。
さらにその下に、新しい表示が現れた。
`現在の生存者:97`
`消去済み:3`
「……は?」
今度は本気で声が裏返った。
「百人選ばれたんだよな」
「はい」
「なら、もう三人消えてるのか?」
「はい」
「開始前に?」
「継承戦はすでに進行しています」
その一文で、背骨の奥に氷を流し込まれたみたいだった。
始まってから死ぬんじゃない。
気づいた時には、もう遅れてる。
俺が何か言おうとしたとき、視界の端で、止まった人混みの一角が揺れた。
誰かがいる。
凍った世界の中を、ひとりの男がこちらを見ていた。
三十代くらい。黒いコート。信号待ちの群衆の中で、そいつだけがゆっくり口元を吊り上げる。
動けるのは俺だけじゃない。
男は耳に手を当てるみたいな仕草をして、それから喉をなぞった。
まるで、「言葉に気をつけろ」とでも言いたげに。
次の瞬間、白い人影が消えた。
同時に、世界が音を取り戻す。
クラクション。
足音。
雨音。
雑踏。
全部が一気に押し寄せてきて、俺は思わずよろけた。
周囲の誰も、何も気づいていない。
さっきまで世界が止まっていたことも、白い人影がいたことも、たぶん俺以外には存在しなかったみたいに。
だがスマホの画面だけは消えていなかった。
王冠のアイコンの下で、通知がひとつ増えている。
差出人不明。
震える指で開く。
表示されたのは、短い一文だけだった。
`歓迎する、神代ユウ`
`次に死ぬのは、お前だ`
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
もし最後の通知で少しでも息が詰まったなら、たぶんユウと同じ場所に立てています。
ここから先、この世界は「考える時間」より先に、人を削っていきます。
続きを見届けたいと思ってもらえたら、ブックマークや評価を置いてもらえると嬉しいです。
次は、あの数字がただの脅しじゃないと分かります。




