31,可及的速やかに!?
私の鼻をすする音を聞いて、フィルミーノ様は私の顔を覗き込み、ぎょっとした。
胸元を掴んで急に涙目になっていたら、驚くのも無理はないだろう。フィルミーノ様は慌てて私を離し、体勢を整えようとし始めた。
「す、すまない、レイーラ嬢!決して泣かせるつもりはなかったんだ。断りもなく触れてしまって、申し訳ない」
フィルミーノ様の言葉に、私はぶんぶんと顔を横に振った。離れようとしていく彼の服をぎゅっと掴んだまま、私は思い切って声を出した。
「わ、私は……期待してもいいのですか?」
「え?」
「私は伯爵家の娘です。フィルミーノ様の隣に並ぶ方なら、アッバティーニ侯爵令嬢との婚約が破棄されても、きっとそれに準ずる方と結ばれるだろうと……。私はあくまで婚約破棄の協力者であって、思い上がってはいけないのだと……そう気付いてしまって」
私がそこで言葉を区切ると、優しい両手が私の頬を掴んだ。そしてふわりと顔を持ち上げられる。
そこには、眉を下げたフィルミーノ様が困ったような表情でこちらを見ていて、私はぎゅっと目を瞑る。困らせてしまったと、目尻からほろりと涙がこぼれ落ちていく。
「だから昨日、食事をせず帰ると言ったの?」
「……全て終わってしまったのだと。婚約破棄が出来た喜びよりも、フィルミーノ様と適切な距離感に戻らなければいけないのだと、そちらばかりが頭に過ぎってしまって」
実際には、優里に戻らなければいけないのだろうかなど、他にも思うところは色々あったけれど。何よりも、フィルミーノ様への想いに気付いて胸を痛めていた――その気持ちに嘘はない。
「そっか。そっか……」
フィルミーノ様はそう呟きながら、また私の頭を抱き締めた。私は「どうして……?」とか細い声を漏らし、体を震わせる。彼の制服に涙が滲んでいく。
「私はこの数週間、レイーラ嬢と一緒にいて、君以上に信頼出来る相手なんていないと思っていたし、君もそう思ってくれているような気がしていたんだ。だから、言葉にしなくても伝わっているものだと……」
「え……?」
「けれど君は、最初から家格を気にしていたよね。正直私もこういうのは初めてで……。これは私の落ち度だね。気付けなくてすまない」
よしよしと優しく頭を撫でられ、私は子供のように体を震わせながら涙をこぼしてしまう。
「お互い婚約破棄が出来た今なら、正式に伝えても許されるだろうか。私はね、レイーラ嬢。たった数週間しか君と関わっていないけれど、君にとても惹かれているんだ。これまで婚約者候補と名を上げられてきたどの令嬢達よりも、君といると楽しくて落ち着く。私が私のままでいられるんだ」
「私が、私のまま……?」
それは私自身が感じていたこと。
あちらの世界では優しくないと言われてきた自分でも、フィルミーノ様はそんな私をそのまま受け入れてくれた。それにどれだけ救われていたか。
(まさかフィルミーノ様も、そう思ってくれていたなんて)
「私は公爵令息として、どんな時でも紳士的ににこやかに振舞うことを教え込まれてきた。だからどんな令息令嬢にも表面的に優しく接するようにはしていたけれど、心の底から優しくしているわけではなかった。腹の中は、実のところ真っ黒だと思うしね」
フィルミーノ様はそう言って苦笑する。
実際どれくらい真っ黒かはさて置き、私は時折フィルミーノ様から漏れ出る仄暗い表情や歪んだ顔を見ているため、そんな時もあるのだろうなと笑ってしまう。
「表面的な私を見て、言い寄ってくる令嬢達に辟易としていた。それでもいつか婚約しなければいけないのだろうしと、言われた通りに婚約してみればこれだ」
「あぁ……」
「今だから言うけれど、あの喫茶店で証拠を集めていたのは、この一件で女性不信にでもなったと言って、暫く婚約や結婚といった話題から遠ざかれないかなって算段があったんだよ」
「そ、そうだったのですか?」
そんなつもりだったとは知らず、私は驚いた。
まさかその予定を狂わせてしまったのではと、口に手を当てて顔を青くした。それを見て、フィルミーノ様はくすくすと笑う。
「婚約から遠ざかろうと思った先で、まさか婚約破棄を手伝ってほしいと言われるとは思わなかったし、そうして出会った君が手放せない存在になるなんて思わなかったな」
「えっ?それって……」
呆然とする私に微笑んだフィルミーノ様は、ソファから降りてその場に跪いた。明るく柔らかい緑色の瞳が、木漏れ日の光を取り込んで煌めきながら、まっすぐ私を見つめている。
そっと手を掬い上げられれば息が詰まるほど恥ずかしいのに、その瞳から目が逸らせなかった。
「レイーラ・ヴァレンティ嬢。苦境に立たされても決して折れることのない、君の芯の強さに目を奪われた。そんな君が時折顔を赤らめて、私に見せる少女らしい仕草に心惹かれた。次はどんなことをしてくれるだろう、どんな顔をしてくれるだろうと……次に会う時が楽しみで仕方なかった」
「……っ」
「無鉄砲なところが心配で、時々陰る表情が気がかりで……つい君のことを思い浮かべてしまう。もうレイーラ嬢以外には考えられないんだ。だからどうか、私の婚約者になってくれないだろうか」
その声色は、いつもの明るく紳士的なものとは違い、少し掠れて震えているような、懇願するようなものだった。いつだって完璧なフィルミーノ様が緊張しているなんて、これは夢じゃないのだろうか。
――本当に、私はまだレイーラなの?
レイーラに入れ替わったという、長い長い夢を見ているのでは……そう過ぎるほど、信じられなかった。
けれど視線を下げると、はらりと視界に水色がかった銀色の髪が揺れた。
――元の私では有り得ない色。この体の前の持ち主が「頑張れ」と、「もう貴女がレイーラなのよ」と、そう言っているような気がした。
俯きそうになる顔をぐっと持ち上げて、揺れる瞳を見つめ返す。フィルミーノ様のように、表情からも声色からも、私の全てで想いが伝えられるように――。
「――私、レイーラ・ヴァレンティは、フィルミーノ・アルジェント様をお慕いしております。どうか私を、フィルミーノ様の婚約者にしてください」
私が心からそう言うと、気付けば私はフィルミーノ様に抱き上げられていた。
――待って?これは、お姫様抱っこというやつでは?
その状態を意識した途端、私はぶわりと顔に熱が集まった。
「えっ!?ちょっと、フィルミーノ様!?」
「ありがとう……ありがとう、レイーラ嬢。嬉しくて我慢出来そうにないから、今日はもう早退しよう」
「早退!?」
「このまま伯爵に挨拶しに向かって、すぐに婚約の許可をもらいに行こう。可及的速やかに君を正式な婚約者にしておかないと、私がおかしくなってしまいそうだから」
「えっ?ちょっ、えっ!?」
十分おかしいですが!?と、私が目を回している間に、フィルミーノ様はずんずんと図書室の出入口に進んでいってしまう。
カウンターに立っていた司書の人は、あんぐりと口を開けたままこちらを見つめている。
「奥のソファに読んでいた本を出しっぱなしにしてしまっているのですが、なにぶん急用が出来てしまったのです。すみませんが、片付けをお願い出来ますか?」
「え?あ……え、えぇ……」
フィルミーノ様はいつもに増して煌めいた顔を司書へと向け、有無を言わさぬよう申し訳なさそうな表情でゴリ押すと、颯爽と図書室を出ていく。
抱えられている私は、その光景を腕の中から見上げるしかなかった。
そのまま私は、公爵家の馬車に乗せられた。
フィルミーノ様は役所で婚約証書を受け取ると、伯爵家に直行。屋敷に着くやいなや、イラリオ――お父様を仰天させ、川の流れのようにスムーズに署名を書かせてしまった。
それは、図書室を出てから僅か一時間ほどのことだった。
ついにレイーラがフィルミーノと結ばれましたっ!
フィルミーノは……恋の成就に暴走気味でしょうか?(笑)
伯爵家では婚約証書に署名を書いてもらえたようですが、公爵家は許してくれるのでしょうか?
それに、断罪された人達は結局どうなったのでしょう?
また、結ばれた二人の関係に変化はあるのでしょうか?
完結はもう間もなくです!
最後まで二人を応援いただけますと幸いです( .ˬ.)"




