Episode.101 最後の戦い
ミーナによって止めの一太刀を受け、消えていく許りと思われた『ネメシスの脳髄』の亡骸は人間程の大きさに萎んだところで突如としてどす黒く染まった。
断末魔の苦痛にバタつかせていた六本の脚はビクビクと痙攣しながら漆黒の節を伸ばし始める。
『う、ごオオオオオオオッッ‼』
「な、何⁉」
突然の異常な挙動にミーナが驚いたのも束の間、間髪を入れずに六本の脚がミーナに襲い掛かって来た。
不意を突かれたのと、余りの速度にミーナは成す術も無く体を縛り上げられてしまった。
幸いな事に、納刀していた鞘を持つ左手だけは自由に動かせるものの、万力の様な力で締め上げられたミーナは苦しみに呻き、吐血する。
「がはッ‼」
『ミーナ‼ 一体どういう事じゃ⁉ この期に及んでネメシスがまた新たな形態に変容したとでも言うのか⁉』
ミーナが一転窮地に陥り、妖刀の気も動転している。
『拙いぞ! これ以上ネメシスに進化されたら、最早此方に打つ手は無い‼ ミーナが我が身を犠牲にする他……‼』
既にシャチもフリヒトもエリも『ネメシスの脳髄』が放った『怒りの日』を受けて気を失っている。
また、驚異的なタフネスを誇るシャチが仮に目を覚ましたとしても、彼の武器である戦斧はミーナを守る為に砕け散ってしまっているのだ。
真面に身動き出来ない状態に拘束されたとはいえ、戦えるのはミーナのみ。
そして彼女もまた、強大な破壊力を誇っていた妖刀の雷光を撃ち尽くしている。
妖刀自身が数に入っていないのは、彼自身の力も殆ど残っていないという事を彼が誰より理解しているからだ。
残されているとすれば、ミーナ自身の『命電』のみ。
今までシャチもフリヒトもエリも、多かれ少なかれ自身の命を思念の力に変え、消耗しつつ戦ってきた。
だがミーナの場合、これまで妖刀や残されたソドムの『想念の力』、そしてビヒトの『思念の力』が彼女の消耗を肩代わりして来た。
『これは……天の意思か? ミーナだけ唯で帰しはしないという……。』
妖刀は運命を呪う様に声を搾り出した。
しかしそれを聞いたミーナは微かな笑みを浮かべた。
「やるしかないじゃない。」
苦痛に抗するが如く、ミーナは閉じていた目蓋を僅かに開いて目の前の、『ネメシスの脳髄』だったものが変容していく様をじっと見詰めている。
その眼光には確かに覚悟の色が宿っていた。
「私も命を削って戦えって事なら、迷わずにそうするよ! だってみんなそうして、やっとここまでネメシスを追い詰めたんだもの! 私だけが自分を可愛がってみんなの頑張りを無駄にするなんて絶対に嫌だ‼」
『ミーナ……。』
妖刀はミーナを護ることを本懐としてきた。
だがその中で、彼女の想いを見誤っていたのかも知れない。
尤も、意気込んだ所で縛り上げられたミーナは戦う事すら望めない絶体絶命のピンチである。
しかし、彼女には一つ確かな希望を感じるだけの理由があった。
「みんなのお陰で……私はまだ生きている! フリヒトとエリがチャンスを作り、シャチが『脳髄』の脚に着いていた武器を全て斬り落としてくれていた! もしあれが無かったら、私は今頃斬り刻まれている‼ みんなが私に望みを繋いでくれたんだ‼ ネメシスを斃す為の望みを‼」
ここまで希望が繋がっている事、それ自体が既に奇跡。――ミーナが希望を棄てない理由がそこにあった。
それと、もう一つ。
『解った、ミーナ。しかし、決して使い切るんじゃないぞよ。確かに皆、己の命を削って戦ってきたが、さりとて決して死んではおらん。ならばお前さんだけが死ぬ道理も無い。必ず生きて帰るんじゃ。解っておるな?』
「勿論!」
ミーナは目を見開き、新たな姿となった敵を真直ぐに見据える。
『生きて帰るだと? それはならん! 私をこのような目に遭わせたお前は必ず息の根を止めてくれる。私はその為に生まれて来たのだ‼』
「ネメシス‼」
『違う。私はネメシスではない。』
漆黒に染まっていた『ネメシスの脳髄』の残骸は煮詰まって沸騰する様にボコボコと音を立てて泡立ち始めた。
そして一気に膨れ上がり、泡は無数の人間の顔、それも一様に怒り、憎しみ、嘆き、悲しみなど、あらゆる負の想念を体現した表情の『闇の人面疽』を模った。
その中央の、脳髄だった部位は巨大な髑髏が恐ろしい怨嗟の表情を浮かべていた。
『私は人間のお前に敗れ、人類の人類への怒りを挫かれたネメシスが、今際に原初の怨嗟を思い出した事で産まれた存在。怒りの神の呪怨を核とした新たなる〝壊物〟種の個体。即ち、〝カース・オブ・ネメシス〟‼』
それは正に、怨念の集合体としか形容のしようがない姿形をした壊物だった。
その最後の敵、『カース・オブ・ネメシス』は六本の脚で尚も執拗にミーナの身体を締め上げる。
「ぐうううううっっ‼」
『死ね‼ このまま縊り殺してくれる‼ お前だけは絶対に許さん‼ 嘗て私を屈辱に塗れさせた〝あ奴〟ともまた異なる〝特異点の中の特異点〟‼ お前を殺し、そしてこの呪怨の赴く儘に何もかもを破壊し尽くしてくれる! 在りと汎ゆる時空の何もかもを喰らい尽くしてくれる‼』
凄まじい『負の想念』の限りをミーナに向ける『カース・オブ・ネメシス』。
だが、これだけ彼女を締め続けているにも拘らず、ミーナは一向に絶命する気配を見せない。
『ミーナよ、解っておるな?』
妖刀は静かに言い聞かせる。
ミーナも、全て承知の上と言わん許りに頷いた。
「『カース・オブ・ネメシス』。悪いけど貴方に私は殺せない。」
『何だと?』
「だって貴方、全然弱いもの。」
ミーナは厳然たる事実を『カース・オブ・ネメシス』に突き付けた。
妖刀も早くから気付いていた事だが、未だにミーナを絞殺しきれていない事からも明らかである。
『所詮貴様は、否、壊物という種の生体そのものがそうと言えるが、貴様等は他種の遺伝子情報や人間の怨念を借りなければ強くなれない張りぼての存在に過ぎん。それはネメシスとて例外ではない。ネメシスが強大であったのは、世界という人類最大規模の群体から怨念を借りていたからじゃ。故に、ネメシス自身の怨念などたかが知れておる。そんな空虚な想念を核としたところで、大した力は得られんという訳じゃな。』
これまでミーナ達に強敵として立ちはだかって来た壊物達は皆、強大な力を持つ明確な背景を人間から借りていた。
ネメシスは言わずもがな、『双極の魔王』ことソドムとゴモラはそれより小規模とはいえ国家規模の怨念を核としていた。
また、ダーク・リッチはイッチという個人をベースにした『負の想念体』であるが、そこには己の逃避的過失により文明を滅ぼしてしまった悔恨という余りにも重過ぎる無念が潜んでいた。
それらに比べて、人間の借り物ではないネメシス自身、壊物という種の起源に在った無念等というものは、所詮一個の生命体が身勝手に他種を喰い尽くそうとして返り討ちに在った事の逆恨みという、どうしようもなく小粒の怨念だった。
である以上、その程度のものを核としたところで大した壊物になれるはずが無かったのである。
『くっ……! だが‼ 今お前は私に捕まれ身動きが取れん! 即ち‼ このままでは私を斃すことが出来ず、孰れ体力が尽きて死ぬ! 時が来れば私に殺される最後からは逃れられない‼』
勝ち誇る『カース・オブ・ネメシス』だが、ミーナは喝破する。
「人間の強さは心の強さ‼ 自分の命を越えて未来を想い積み上げて来た思いの強さだ‼ それは決して、壊物なんかに敗けはしない‼」
ミーナには唯一、左腕が残されている。
納刀された鞘を握っていた左手は一瞬手を放し、刀を落とす。
すぐ様、柄を握ったミーナは妖刀を振るい、遠心力で抜刀して片手のまま順手に持ち替える。
『刀を抜いた所で無駄だ‼ その間合いからは私まで届かん‼』
「届く‼ 私たち人間は‼ 人類は‼ 弱い者同士互いに助け合う為に嘗て文明を築き上げ、そしてそれを蘇らせようと今も頑張っているんだ‼」
ミーナは左手に握った妖刀の切っ先を『カース・オブ・ネメシス』の本体に向け、そして勢い良く腕を切り離した。
その速度、威力はミーナ自身の『命電』が乗った凄みと共に、敵を貫通して床に妖刀を突き刺した。
『ギャアアアアアアッッ‼ ば、莫迦な‼ 義手だとおおおおおっっ⁉』
ミーナの左腕は義手、それも旧文明が作り上げた最高品質の逸品である。
正に弱き者のための技術、人間の美点の象徴。
嘗て人類文明の正しさを信じた男リヒトがミーナに授けたそれが、最後の最後で決め手となったのだ。
ミーナを縛っていた脚の拘束は呆気無く解け、彼女は床に落下して倒れ伏した。
対する『カース・オブ・ネメシス』はまたしてもその存在を薄めながら萎んでいく。
『おのれ……! おのれ……‼ だが今度はこの私の無念を更なる核として……‼』
尚も『カース・オブ・ネメシス』は生き汚く足搔こうとする。
だが、ネメシスの怨念ですらこの程度でしか無いのに、その更なる搾り滓に出来ることなど残されていよう筈が無かった。
『嗚呼……畢る……。究極の存在に……進化する筈だった私が……何と脆く儚い……。』
叶う筈の無い空虚な無念の嗄れ声を残し、ネメシスが残した呪怨の結晶は今度こそ跡形も無く消え去った。
斯くして、嘗て人類文明に破滅を齎した原初の壊物は、それでもなお生き延びた人間達の手で漸く引導を渡された。




