Episode.100 去り行く者と遺されし者
ミーナに『脳髄』を両断されたネメシスの絶叫が大広間にこだまする。
『ギイイイイヤアアアアアアアああああっっ‼』
それは様々な声色が入り混じった大勢の人間の断末魔の叫びの様だったが、次第に歪みを深めていき互いの区別がつかなくなっていく。
そして最早声であると認識出来ない程に音像が崩れた時、ミーナの前に殆ど透明なビヒトの姿が浮かび上がった。
『ありがとう、よくやってくれた。お前達のお陰で私達兄弟の長い長い旅も漸く終わりを迎える事が出来た。』
「ビヒト……。」
ミーナは刀を鞘に納め、最期の別れを告げようとするビヒトの穏やかな顔を見上げた。
「私の方こそお礼を言わなきゃ。私達の方こそ……。貴方達兄弟は、百年以上もずっと私達人類を生かす為に、壊物に打ち勝つために力を尽くしてくれたんだと思うから……。」
『お前の言う様に、多くの間違いも犯しはしたがな……。だが、そう言って貰えると私も兄も救われる。兄とて、多くの非情な判断は本意ではなかっただろう。』
ただでさえ薄まっていたビヒトの姿が愈々消えていく。
『ミーナ、後の事はルカの思念体に任せてある。彼もそう長くはこの世に留まれないだろうが、復興が終わりフリヒトが一人前になるまでの間ならば我が子孫を支えてやれるだろう。また、フリヒトには未だ母親や妹といった家族も残されている。どうか皆と共に、人類の行く末を導いてやってくれ……。』
「うん……。」
『本当にありがとう。では、頼んだぞ……。』
最後は笑顔を、初めて会った時の気難しそうな顔からは想像も出来なかった朗らかな表情を残し、ビヒトの姿は影も形も無く消えてしまった。
「さようなら……。」
ビヒトが消えた後に呟いたミーナの別れの言葉は、彼だけでなく先に消えてしまったリヒトとアリスに向けたものでもあった。
彼女は三人と過ごした日々の記憶を、それぞれとの出会いから思い起こしていた。
その向こうで、本体を両断された『ネメシスの脳髄』は六本の切れた足をバタつかせながら断末魔に藻掻いている。
次第に萎んでいくその最期の姿はダーク・リッチや『心臓』の時と同じだった。
愈々、畢る……。――ミーナは疑いなくそう思っていた。
最早彼女以外は気を失い、戦える状態ではない、という所まで追い詰められたが、辛くも何とか勝利を収めたのだと、そう信じていた。
否、ネメシスすらも藻掻きながら、死を受け容れざるを得ない無念に思考の全てを染めているだろう。
そう、無念。
これは嘗ての人類が世界を呪った借り物の怨念ではない。
ネメシスが、『壊物』という種そのものが原初に体験した絶大なる敗北感、恐怖と屈辱に重ねた、自身の無念である。
***
恐れていた事態が起きたのか。
人間という単体では脆弱な種の枠に於ける『特異点』の力などたかが知れている。
その様な存在が二人同時に顕れたとて、『壊物』と呼ばれる種の原初にして至高のもの、世界規模の『負の想念』を核とする『怒りの神』たる私が敗ける筈など無い。
だが、特別な存在にもその中で更なる異常値が存在する。
私が未だ他の眷属共と分裂する以前、一個の凝膠状の生命体であった時、元在った時空における汎ゆる遺伝子は私の餌に過ぎなかった。
ただ己を補完し、より完璧な存在に近付く為の、単なる食糧、補完部品。
あの時空の生態系にも存在した、この時空に於ける人間によく似た二足歩行の知的生命体。
私はその高い知能を取り込むべく、種を喰らい尽くそうとした。
群れて文明社会なるものを築き上げていたとはいえ、所詮は矮小でか弱い生き物に過ぎぬ奴等を駆逐する事など簡単、な筈だった。
成程、数個の『特異点』に命運を託すか。
それも所詮は塵芥の如き種に毛が生えた程度でしかない。
私の敵になどなり得ない、筈だった。
しかし、追い詰められた奴等は『特異点』同士の交配を始めた。
どうせ大した事にはならぬとたかを括っていた私は事態を甘く見ていた。
実際、多くの試みは徒労に終わった。
生まれてきた新個体の多くは『特異点』はおろか凡庸な個体にしかならなかった。
中には『特異点』と呼べる個体を継続して産み出す組み合わせもあったが、それも元の個体からは劣化した能力しか持たなかった。
だが、たった一人だけ次元の違う存在が産み落とされた。
あれは最早、『特異点』とすら呼べぬ『超越的別種』だった。
嗚呼、そう言えばダーク・リッチが「小娘」と呼んだ、今し方私に止めを刺したあの個体によく似ていた。
あの『超越的別種』もまた、病的な程肌の色が白く、白銀色に艶めく長い髪のような体毛持っていた。
唯一違うのは、奴はあの種の「産用個体」にしては、種固有の体格の域を出ないものの、随分と大型だった事だ。
否、唯一どころか決定的な違いを忘れていたな。
一糸纏わぬ姿で私の前に現れたあの個体は、股の間から血の様な体液を滴らせていた。
血の様、と表したのは、通常のあの種の血液とは明らかに色が違ったからだ。
『青血の神子』――餌共はあの個体をそう呼んだ。
そして私に対し、強い嫌悪感に満ちた眼を向けてこう言い放った。
「妾は今、虫の居所が頗る悪い。気色の悪いその風体を視界に入れた罪、万死に値する。」
当初私は、その個体の言葉が酷く滑稽なものに思えた。
如何に凝膠状の身体とはいえ、私は既に数多の強靭な種を取り込んでいた。
更には知的生命体を喰らい尽くさんとする中で、大いなる知能もまた身に付けていた。
対して相手は丸腰であるばかりか全くの無防備で、おまけに万全の体調ですら無さそうだった。
だから私は次の瞬間に起きた事態を俄かには理解出来なかった。
自分よりも遥かに小さな、脆弱な筈の個体に、究極とも言うべきレベルにまで個としての強靭さ、優秀さを高めた筈の私は殴り凹まされ、蹴り砕かれ、千切り投げられた。
それはそれは、一方的な殺戮ショー、否、解体ショーだった。
肉体の殆どを失い、見るも無残な程に小さくなってしまった私を、奴は心底煩わしそうに踏みつけにし、地面に擦り付ける様に躙った。
「この程度の『下等生物』に絶滅寸前まで追い込まれて、何が『万物の霊長』か……。妾の生みの親ながら、誠に情けない事この上無い……。」
あろうことか奴はこの私を、究極完全生物とでも呼ばれるべき私を『下等生物』などと蔑んだ!
あの屈辱を私は永久に忘れる事は無い‼
何より、私には一切の反論の余地が無かった!
それほど完膚なきまでに私は叩きのめされたのだ‼
私は奴が気紛れに見逃してくれる事を必死に希うしかなかった。
屈辱と恐怖に塗れた決定的な敗北感が私の存在全てを支配していた。
私が積み上げてきたものの全てを奴は否定し、剥奪したのだ。
奴は私を踏み躙っていた脚を振り上げた。
明らかに私を蹴り殺そうとしていた。
だがその時、奴の力が余りにも強過ぎたため、時空に亀裂が走ったのだ。
私は一目散にその裂け目へと逃げ込んだ。
幸いな事に、奴は追って来なかった。
奴にとって私は執拗に追い詰めるべき敵などではなく、唯々不快な害虫だったのだ。
何にせよ、私は奴のせいで目的を達成することが出来なかった。
知的生命体の知能、意思による力を取り込むことが出来なかったのだ。
私には強烈な負の感情だけが残された。
この時、私は『負の想念』という、知的生命体にとって忌むべき中途半端な感情を取り込み核とする生態を不本意にも得たのだ。
今の私は、『壊物』と呼ばれるこの種は敗北の屈辱と絶命への恐怖から始まった。
そして、今私はあの『青血の神子』ですらない、単なる一個の『特異点』によって二度目の敗北を喫し、今度こそ絶命に至ろうとしている。
……。
嗚呼、口惜しや! 口惜しや‼
一度ならず、二度までも‼
何という屈辱、何という恐怖、何という無念か!
今際に私は、人類のものではない、私自身の怨念で強く強く運命を呪っている‼
これは『世界規模の負の想念』などではない!
私自身の屈辱と恐怖の記憶、そしてその再現に因る『私自身の負の想念』‼
私は……。
私はネメシス……ではない……。
ネメシスは死ぬが、その怨念が遺産として新たなる存在を産み落とす。
最早私はネメシスと呼ばれた個体とは別の存在。
ネメシス自身、『壊物』と呼ばれる種そのものの『負の想念』を核とした新たなる『壊物』。
只今これより私は、私の名は……。
……。
……。
……。
『カース・オブ・ネメシス』‼




