Episode.98 闇黒の脳髄
長き旅路の果てに辿り着いた『古の都』地下遺跡最奥間、その広大な一室の中心でミーナ達に後を向けていた『ネメシスの脳髄』がその全貌を晒そうとしていた。
嘗て訪れたどの遺跡の部屋よりも広く、上にも前にも遥か先まで開けた空間を埋め尽くしていた『負の想念』の闇が晴れ、振り向いたその姿は極めて悍ましい代物だった。
地下鉄道の車輛ほどもある卵型のそれは、前半分に巨大な一つの眼球が埋められていた。
脳髄の形をしているのは後半分だけで、眼球との繋目には人面疽の様な肉腫が大量に並んで埋め尽くしており、その表情は絶望に嘆き悲しんでいたり、苦しみに呻いていたり、総じて沈痛な感情を露わにしている様に見える。
それは前半分を構成する眼球がギョロギョロと動く度に視線を向けた方向の顔は圧し潰され、反対側の顔は引き裂かれ、眼球の両脇からドクドクと赤黒い血を垂れ流す。
一見するとそれは眼球の流す血涙にも見えるが、実態は周囲を傷付けて流させている返り血を浴びているに過ぎない、というのが何とも悪辣である。
そして、恐らくは大脳に値するその醜悪な本体からは蜂の様な胸部と腹部を生やしており、六本の異常に長い脚にはそれぞれ鋸刃の様な爪が並び、けたたましい金属音を鳴らして高速回転している。
これで斬り付けられては一溜りも無いだろう。
『私はネメシス! 愚かなる罪深き人間に滅びの報いを与える怒りの神也‼ さあ、断末魔の中で懺悔の悲鳴を上げるが良い! お前達が踏み躙ってきた生き物や同胞の痛みと苦しみを知り、私の絶対的な正しさを解るが良い‼』
圧倒的な負の想念は一時的に晴れているものの、それでもネメシスの放つ圧は尚も凄まじかった。
だが、もうミーナ達は誰一人として揺らがない。
『ミーナよ、心して、然れど自信を持って平常心で挑め。 勝利は必ずやお前さんに、人類に齎される! さあ今こそ、目の前で歪に佇む偽りの神を討て‼』
妖刀の言葉に背中を押されるようにミーナは飛び出した。
敵の本体を斬り付けるためには大きくジャンプする事が求められる。
「行くぞネメシスっ‼」
宙空に跳び上がったミーナに、ネメシスの脚の回転鋸が襲い掛かる。
ミーナはこれを刀で打ち据え、更に高く舞い上がる。
「っ……‼」
『流石に強力じゃ。刃が毀れおった……!』
今までどんな強敵を相手にしても一切損傷しなかった妖刀が初めてその前例を破られた。
しかし、ミーナにとってそれは逆に大きな光明だった。
「はぁああアッッ‼」
ミーナは『ネメシスの脳髄』、その巨大な眼球部に刃を深く突き立てた。
相手を攻撃する為の武器となる部位との衝突で起きたのが刃毀れ一つなら、それ以外の本体に歯が立たない訳が無い。――その確信がミーナに思い切った攻撃を敢行させた。
「俺達も続くぞ‼」
その先陣に呼応されるように、シャチ、フリヒト、エリも続々と追撃に出る。
シャチの剛腕によって振るわれた戦斧は『脳髄』の脚を一本切り落とした。
フリヒトとエリの飛び道具、クロスボウの矢と短剣投擲は本体の眼球を捉えたものの突き刺さらず、折れた破片が『脳髄』の脇に飛び散った。
この場で『ネメシスの脳髄』に真面に攻撃が通じるのはミーナとシャチの二人のみ。
しかし、フリヒトとエリも唯の役立たずで終わるつもりは毛頭無い。
二人は二人で、この時何が出来るかを必死で考えていた。
ミーナは突き刺した妖刀を動かし、相手に継続してダメージを与え続ける。
『……調子に……乗るなよ……!』
ネメシスの呪詛と共に不穏な気配を感じたミーナは刃を薙いで眼球を斬り裂くと、一目散に跳び退いた。
間一髪、次の瞬間黒い靄が『脳髄』の周囲を覆い尽くした。
もしあのまま密着状態を取っていたら、強烈な『負の想念』を叩き込まれ、ミーナの戦意は大きく揺らいでいただろう。
こういった咄嗟の判断能力は最初の最初からミーナの天稟であった。
「シャチ‼」
「おう、任せろ‼」
更に、この闇には間髪を入れずに対処しなければならないという勘がミーナに働いた。
それはシャチも同じであった様で、彼は旋風を巻き起こし、闇を霧散させた。
『ぬうぅっ……‼』
立ち直ったとはいえ、依然として『ネメシスの脳髄』が放つ強大かつ無尽蔵の『負の想念』は脅威以外の何物でもない。
ミーナはネメシスが再び広間を黒い靄で埋め尽くそうとしている事を察し、先手を打たなければならないと考えた。
しかし、先程の様に自身の雷光を使って対処する事もまた避けたかった。
何故ならば、既に妖刀から告げられた残弾は一発しかない。
ミーナはこの貴重な大技を、『ネメシスの脳髄』本体へ直接喰らわせたかったのだ。
そんな彼女の意図を多く語らずとも瞬時にして察する天稟と信頼関係がシャチにはあった。
それ故、彼は自身が戦斧で旋風を巻き起こし、まだ弱い内に負の想念を霧散させたのだ。
「まだまだ行くぞ、ミーナ‼」
「勿論‼」
今度はシャチが振り被った戦斧の上にミーナが跳び乗り、渾身の振り及び旋風と共にミーナは高々と舞い上がった。
巨大な『ネメシスの脳髄』の遥か上、如何に長い脚であっても届かない領域からミーナは妖刀を振り被って降下する。
同時に、シャチが下から再び戦斧を構え、上下から挟み撃ちの構図を作る。
『莫迦め! 如何に届かぬ高さとはいえ、鳥でもない以上は私の許へ降りて来ざるを得まい! そうなれば宙空で身動きが取れんお前は良い的になるだけだ!』
「フン、それは俺を無視すればの話だろう! その程度の事、計算に入れていないと思うか? この俺が貴様の思い通りにさせると思うか?」
『重ねて〝莫迦め〟だ‼ 私にはまだ五本の脚が残されている‼ 四本でお前の動きを制し、一本を上へと差し向ける‼ 刀一本で鋸刃に対処している隙に、特大の〝負の想念〟を叩き込んでくれるわ‼』
上下から仕掛けるミーナとシャチへのネメシスの対処はそう間違ったものではなかった。
一度脚を斬り落とされているシャチに対しては怒涛の波状攻撃で鋸刃を潜らせない。
そのシャチですら一筋縄でいかない攻撃を中空のミーナに捌き切れるかと言われると、かなり厳しいものがあるだろう。
しかし、それはミーナとシャチの二人を相手にしていた場合の話だ。
逆にネメシスは自身に届く攻撃を警戒する余り、通せなかった二人の事は完全に意識の外へ追い遣ってしまっていた。
フリヒトとエリは、それぞれ射撃、投擲が可能な武器を使用している。
つまり、離れた位置から脚の鋸刃に横槍を入れ、攻撃を逸らしてしまうことが出来るのだ。
ミーナを迎撃しようとしていた一本はフリヒトのクロスボウがピンポイントの連射で弾き、シャチに向かう四本の脚はエリの短剣がそれぞれ一本ずつの投擲で弾く。
傷付けることは出来ず、折れるなり砕けるなりして使用不能になるとは言え、攻撃を当てるという事はそれだけ運動エネルギーを相手に見舞うという事だ。
二人の攻撃はミーナとシャチの援護には充分だった。
「虫螻蛄が! 餓鬼の遊びの様に羽脚を捥ぎ取ってくれる‼」
シャチの戦斧が『脳髄』の脚の根元に炸裂し、一気に四つの鋸刃が宙を舞った。
「ガアアアアアアッッ‼」
ミーナに至っては此処へ来て自身の中に秘められていた力を解放し、野獣の様な咆哮と共に敵の本体を妖刀で滅多斬りにする。
フリヒトとエリの援護、ミーナとシャチの攻撃は実に効果的にネメシスへと決して小さくないダメージを与えていた。
ミーナは仕上げとばかりに妖刀を再び『ネメシスの脳髄』の眼球上部へと突き刺し、そのまま剣を引き斬り裂きながら背後へと回り込む。
『ぐあああアアアアッッ‼ おのれえええええっっ‼』
着地したミーナはここぞとばかりに刀を振り被る。
『そう、今じゃ‼ 行けミーナ‼』
妖刀の言葉に呼応するように、ミーナは渾身の一太刀を振るい雷光を直接敵の本体に浴びせる形で斬撃を見舞った。
『ギャアアアアアアアッッッッ‼』
ミーナは確かな手応えを感じていたが、同時にこれ程簡単に行く訳が無いという予感もしていた。
『おぉぉぉのぉぉおぉれぇぇぇええええっっ‼』
激しい憎悪と怨嗟の声が幾重にも混ぜられた声色で広間中に響き渡る。
そして『ネメシスの脳髄』はミーナが引き裂いた切り口から、宛ら羽化するかの如く血の翅を生やした。
同時に、敵が放っていたどす黒い圧が何倍にも膨れ上がる。
『私はネメシス! お前達人類への怨念の化身! 即ち‼ 怒りと苦しみが増せば増す程力もまた増大するのだ!』
変形した敵の姿は、正に「脳髄の悪魔」といった容貌をしていた。
『私はネメシス! お前達もすぐに解るだろう! 本当の絶望は、滅びに至る闇黒はこれからだと‼』
やはり旧文明を滅亡に追いやった原初にして最強の壊物、その核となる存在は一筋縄では行かない様だ。




