四
日もとっぷり暮れた頃、最後のビールを飲み干した幸子は、ようやくいとまを告げた。恵は駅まで送ると言って、幸子が大ざっぱな化粧を終えるのを待った。時計は九時少し前を指している。千鳥足で歩いて行っても、次の列車には余裕で間に合うだろう。
二人はアパートを出て、白い息を吐きながら駅へと続くやや急な坂道を上った。普段なら半ばほどで息切れしてうんざりするところだが、アルコールで何かが麻痺しているせいか、まるで気にならなかった。冬の冷たい空気も、火照った顔に心地よいほどだ。たっぷり五分ほど歩き続けると、線路の下を通る短いトンネルが見えてきた。その手前には、二人が行く道と丁字に交わる一段と急な坂道があって、それを上りきると改札に面したコインパーキング式の自動車整理場があった。整理場をぐるりと取り囲むように桜の木が植えられているから、春になれば遠山の金さんのようになった車を見ることができる。もっとも、今は車など一台も無く、桜の木は枯葉さえ付けていない。
二人は無人の改札の前で足を止め、幸子が券販機で切符を買うのを待ってから、LEDの白い光が照らす一面だけのホームに上がった。不意に、幸子がはっと息を飲んだ。その理由はすぐにわかった。ホーム下の線路の向こう側に、あの白い少女がいたのだ。少女は、バラスト石が敷かれた道床に迫る雑木林の端にぽつんと立ち、真っ直ぐ正面を見つめている。しかし、その視線はホームの上の恵たちではなく、もっと下を向いていた。
「ちょっと、あなた危ないわよ」
幸子が言って、ふらつく足でホームの端に歩み寄った。少女がふと顔を上げ、怪訝そうに幸子を見つめた。恵が、あっと叫んだ時にはもう、幸子は足を踏み外しホームから線路の上へ転げ落ちていた。
「幸子!」
恵はホームの端に駆け寄り線路を見おろした。幸子は線路の上に、ぐったりと横たわっていた。恵はあたりを見回して非常ボタンを探した。しかし、それらしいものは見当たらない。
「幸子、大丈夫?」
線路の上の幸子は、恵の呼びかけにまったく応じなかった。ふと気付くと、少女が幸子をじっと見つめていた。まさかと言う思いが、恵の頭に浮かんだ。彼女は恐ろしい考えを振り払い、意を決してホームへ飛び降りた。そうして意識の無い友人の頬に触れ、もう一度呼びかけた。
「幸子?」
反応が無かった。しかし、ぞっとする間もなく、遠くから響く警笛の音を聞いて、恵は凍り付いた。幸子が乗ろうとしていた普通列車の到着には、まだ早い。少しの間を置いて、ホームのベルが鳴りだした。自動音声が列車の通過を冷たくアナウンスする。恵はパニックに陥りそうな自分を必死で抑え、幸子の脇に手を差し入れ引っ張った。意識の無い友人は見た目以上に重く、しかも足場はごろごろしたバラスト石で踏ん張りが効かない。
視界の端で、白い影が揺らめいた。顔を上げると、少女が首を傾げて怪訝そうにこちらを眺めていた。彼女は何かに気付いた様子で微かに目を見開き、それからぱっと笑顔を浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。死神――と言う言葉が、恵の頭に浮かんだ。
「来ないで!」
恵が叫ぶと、少女は線路の真ん中で驚いたように足を止めた。恵はその隙に、渾身の力を込めて幸子の身体を引っ張った。ごうごうと言う騒音が、どんどん近付いてくる。ホーム下の退避スペースへ転がり込んだ時、その音はもうすぐ側にまで迫っていた。列車の前照灯が少女を照らした。彼女は、相変わらず不思議そうな顔で恵たちを見ていた。警笛は聞こえなかった。少女は怪訝な顔のまま、通過列車の流線型をした先頭車両に接触し、斜めに傾いで消えた。恵の目の前をいくつもの車輌が過ぎ去った。レールを踏む鉄輪の音が遠ざかり、鳴り響いていたホームのベルも消え、辺りは静寂に包まれた。
列車が過ぎ去った線路を、恵は呆然と見つめた。そこには何も無かった。肉片も、血の跡も、服の切れっ端ひとつも、あの少女がいたと言う痕跡は何一つ残されていなかった。あれは何だったのだろう。やはり幸子が言うように、死神なのだろうか。
恵はふと気付いた。彼女たちが逃げ込んだ退避スペースの隅に、白く小さな塊が転がっていたのだ。退避スペースは照明の影になっていたからその姿ははっきりせず、恵は抱えていた幸子を地面にそっと寝かせ、白い物体に顔を近付けた。異臭が鼻を突いた。それは、小さく破れた腹からUの字に腸を一本はみ出した、白い子猫の死骸だった。
恵は、例の胃が捻れる感覚を覚えた。どうにも俊彦を喪ってから、死と言うものに過敏になっているようだ。いっそ吐いてしまえば楽になるだろうと思い、退避スペースを這い出して立ち上がり、胃の辺りを押さえ口を開けて前かがみになった。ぼたぼたと唾液がこぼれた。驚いた恵は慌てて口を閉じ、あふれる唾を飲み込んだ。それで、ようやく彼女は、胃におぼえた奇妙な感覚の正体に気付いた。それは嘔気などではなかった。
恵は退避スペースに振り返り、子猫の死体を見つめた。またもや胃が捻じれ、口の中に唾があふれた。彼女は跪いて、死体とその下のコンクリートの間に手を差し入れ、持ち上げた。死体は弛緩しきっていて、恵の手の平から首と足と尻尾と腸をだらりと垂らした。自分がやろうとしていることを、恵は理解していた。ただ、方法がわからなかった。
「どうすればいい?」
目を閉じたまま、恵はたずねた。誰も答えをくれなかった。再び目を開けると彼女の腕の中には、あの白い少女がいた。少女はだらりと頭を傾げ、まぶたと口をうっすら開き、鼻と唇の端から黒っぽい血を流している。恵が少女のワンピースの裾を胸元までまくり上げると、ヘソの下あたりの皮膚と筋肉が破れ、そこからUの字にピンク色の腸が一本はみ出していた。
ここだ、と恵は思った。彼女は少女の腹にゆっくりと顔を近付け、大きく口を開いた。コップをぶちまけたように唾液がこぼれ、少女の下腹部を濡らした。そう、ここだ。ここから食べ始めればいいんだ。
退避スペースにいた幸子が小さくうめいた。
「幸子?」
驚いて振り返ると、彼女は頭を押さえながら身を起こした。友人の無事を知って、恵はほっと息を吐いた。幸子は恵の手の中のものを見て眉をひそめた。
「それ、死んでるの?」
恵は頷いた。
「とりあえず、ホームにあがりましょう。列車が来たら大変よ」
幸子はバッグを拾ってホームに放り投げ、二、三度失敗してから恵に目を向け無言の助けを求めた。恵は死体をホームにそっと置いてから幸子のお尻を押して手助けし、彼女自身は自力で這い上った。
「あの子はどうしたの?」
幸子はホームに立って、線路の向こう側をきょろきょろと探した。恵は首を振り、死体に目を落とした。胃を捻るような飢えは感じなかった。ふと気付くと、幸子が怪訝そうに恵を見ていた。
「退避スペースで死んでたんだ」
恵はしゃがみこみ、再び死体を持ち上げた。それはもう、白いワンピースの少女ではなく、最初に見つけた時と同じ白い子猫の死体だった。彼女は死体を持ったままホームを出た。幸子は黙って後を付いてきた。恵は自動車整理場を横切り、桜の木の根元に子猫の死体を置いてから、素手で地面を掘り始めた。あっと言う間に指がかじかみ、彼女は何度も指に息を吹きかけながら作業を続けた。そうして、じゅうぶん深い穴が空くと、その中へ子猫の死体を置き、そっと土をかぶせた。
「十字架でも挿す?」と、幸子。
恵は首を振り、立ち上がって手に着いた土を払った。彼女は子猫を埋めた地面をじっと見つめ、言った。
「この子は土に返りたかったんだ。自分の死体を食べてくれる虫も、動物も、カラスもやって来ないコンクリートの上じゃなくて、土の地面で眠りたかった。たぶん、それだけ」
ホームのベルが鳴り、自動音声が「まもなく列車がまいります」と告げた。しかし、幸子はじっと恵を見つめるばかりで動こうとしない。
「乗り遅れるよ?」
恵が言うと、幸子は腰に両手を当て苦笑いを浮かべた。
「こんな格好で電車に乗ったりしたら、他の乗客に変な目で見られるわ」
言われてはじめて恵は気付いた。幸子の服は線路の赤さびにまみれ、ストッキングは穴だらけだった。それに、ところどころ擦り傷もある。
「そうだね」恵は笑った。「いっぺん帰って着替えようか。怪我の手当もしなきゃ」
「ついでに飲み直しましょう」
「キミは、うわばみかなにかか?」
恵は呆れた。
「うわばみだったら、とっくに冬眠してるわ。もう、酔いがさめてから寒くてしかたがないの。さっさと帰って何か飲まなきゃ」
幸子はくるりと背を向けて歩き出した。恵は急いで追いかけ、彼女の横に並んで言った。
「うわばみじゃなくてロシア人だったか」
「ウォッカは好きじゃないの」
「そう言うことじゃないってば」
くだらないことを言い合いながら歩いていると、ホームに停まっていた列車が、がらがらとディーゼルエンジンの音を響かせて出発した。その音につられてふと振り返った恵は、子猫を埋めた桜の木の下に白い影を見たような気がした。思わず足を止めてじっと見るが、そこには何もなかった。
「どうかした?」
幸子も足を止めてたずねた。
「なんでもない」
恵は桜の木を見上げた。ここに花が咲くのは、まだまだずっと先だ。でも、その時まであの子のことを覚えていたら、また来ようと彼女は思った。恵は、ほうと息を吐いた。冷たい空気が、それを真っ白な塊にして、星が瞬く夜空へ運び去った。




