この人、だあれ? だれでしょね【運転手視点】
思った通りだった。言葉は短かったが、不快感のようなものは一切含まれていなかった。
ほらな。
運転手は自分の勘が当たったことに喜びを覚えた。しかし同時に、こんなことも思った。
今度もはっきりと聞こえた。でも、補聴器もしていないのに、どうしてなんだ。おかしい。絶対におかしい。こんなにはっきり聞こえるわけがない。まだ夢を見ているに違いない。
運転手は素早く周囲を見渡した。
夢の証拠を見つければいい。そうすれば夢から覚めるかも知れない。
しかし、目に映るすべてが、現実の世界のものにしか見えなかった。
だとすると、本当に耳が良く聞こえるようになったのだろうか、
夢なのか、現実なのか分からなくなった運転手は、昔から伝わる方法を試してみることにした。
二十一世紀の現在でも、その言葉が死語になっていないところをみると、実際に効力があるからだろう。しかし、ほっぺだと、乗客に不審がられる。そこで彼なりの工夫を凝らした。
どうか、夢ではありませんように。どうか、夢ではありませんように。
心の中で祈りながら、握力58キロの右手を自分の太もものやわらかい部分に置くと、思いっきりつねり上げた。
あまりの痛さに、奥歯を食いしばった。想像以上の痛さに涙が滲んだ。
しかし、嬉しいとは思わなかった。バンザイを叫ぶ気持ちにもなれなかった。
この痛さも、夢の中での出来事なのではないだろうか。そう思ったからだ。
ふと、目を上げると、バックミラーの乗客と目が合った。
この客も、夢の中の登場人物かもしれない。
疑いだすとキリがなかった。運転手は気持ちを切りかえることにした。
夢だろうが、現実だろうが構わない。この際、そのことは忘れて、運転手として行動しよう。
「どうして、あの店をご存じなんですか?」
乗客の問いかけを思い出した運転手は、その質問に答えることにした。
昨日、たまたま見つけたんです。地べた里庵という風変わりな店名だったので、中を覗いてみたら……
いきさつをそのまま話すつもりだったが、待てよと、思った。
先ほどの閃光と聴力アップは、外的要因によって、もたらされた。そう考えた場合、どうなる。
要因は、ひとつしかない。
この客だ。この若者が関係している可能性が高い。年格好や、服装からすると、ごく普通の人間にしか見えない。しかし、念力のようなものを使って、病気を治す達人がいるという話を聞いたことがある。子供じみた発想だとは思ったが、そう考えるしかなさそうだった。
と、そこで、運転手はいいことを思いついた。
話を長引かせよう。会話の中にヒントが隠れているかもしれない。それを見つけ出して、夢か現実かをはっきりさせよう。
「一般市民が撮ったビデオを、ニュースとして使っている番組を見たことがありますか?」
運転士はそう言って、反応を待った。答が返ってくるまで十数秒かかった。
「ニューズナウなら、殆ど見ています。あのコーナーは結構クオリティーが高くて、」と言ったところで、運転席に体を近づけるようにして続けた。「もしかすると、運転さんは、MBCふるさと特派員のメンバーなんですか?」
そのせりふを頭の中で反復した運転手は、確信した。
これは夢ではない。夢の中に、このような具体的な話は出てこないはず。
「いえ」
ふるさと特派員とは関係がないことを告げた後、運転手は思った。
局の人間ではないようだが、相当映像に詳しいらしい。自分の頭に浮かんでいるニュース番組のコーナーを一発で当てた。その上、あなたも、メンバーなんですかと言った。一般人なら、そんな質問はしない。
もし、マスコミに携わっている人間だとすると、詮索するのはやめたほうがいい。腹の探り合いになる危険性を孕んでいる。そうなると、本職には負ける。その上相手に不快感を与える。場合によっては、今回のことがねじ曲げられた形で世間に出回る。
一番怖いのは、彼が聴力アップに関わっていたときだ。絶対に元の状態に戻されてしまう。
信号が青になったのを確認した運転士は、手短に話した。
「私も、似たようなことをしていますが、マスコミには、一切、出ないんです」
「と言われますと?」
案の定突っ込んできた。こうなると、言葉を選びながら喋るわけにはいかない。それに、こっちのことは、何もかも分かった上での乗車ということも考えられる。腹を割って話したほうが良さそうだ。
「四十年以上タクシーに乗っていますと、色んなことに詳しくなるんです。警察よりも裏社会に精通している運転手もいます。私の場合、店舗情報専門なんです」
運転手はそう言って、後部座席に意識を向けた。




