第1話 奇妙な男と酒浸り
村に奇妙な男が現れた。
なんでも記憶喪失だとかで、素性の一切がわからないらしい。その上並の男より頭二つは抜け出た長身を持っていたもので、彼の来訪は瞬く間に村中の知るところとなった。
魔王が討たれて早三年。人々が望んだ平穏を手にして早三年。各地に生じていた魔物はめっきり姿を見せなくなり、人ならざるものと争い合う時代は終わりを迎えた。
平和な時代だ。それゆえに、人々は魔物よりも人間が怖くなったようだ。見知らぬ余所者へと向ける視線は往々にして冷ややかで、コミュニティの内側に入るのは容易なことではなくなった。俺自身がその一例だ。
この村に移住しておよそ二年が経過した今でも俺は余所者だ。村人達は俺をいないものとして扱っているし、俺だってそれを受け入れている。王都から遠く離れた田舎村にとって、排他的であるのは一種の生存戦略としてあまりにも正しい。
だから、急にやってきたこの怪しい男もまた余所者であり続けるのだろうと、俺は勝手に同情していた。いや、親近感すら覚えていたんだ。
裏切られた気分だった。
あの男、現れた当初は自分の名前すら言えなかったというのに、早々――たったの三ヶ月ほどで、すっかりこの村に馴染みやがったのだ。
記憶喪失故か随分無知な男だったようだが、それを補って余りあるほどに真面目で勤勉。村のためにと積極的に力仕事を請け負う姿を、村人達は喜んで受け入れた。ろくに働きもせずに引きこもり、昼間から酒ばかり食らっている俺とは雲泥の差である。
そういうわけで、俺はこの謎の新顔――アドヴェンと呼ばれている男のことが嫌いだった。直接会話したことは一度もないため、俺が一方的に嫌っているだけなのだが。
だからといって、別にどうこうしようとは思わない。そもそもアドヴェンと顔を合わせるつもりもない。嫌いだなぁって思って、それだけだ。俺はもう他人の人生に関わることをやめたのだ。
誰と関わることもないまま、ひっそりと死んだように生きていたいと、俺はそれだけを望んでいる。
なのに、
「頼みがあるんだ」
「…………あ?」
「俺をルデウカ区域まで連れて行ってはくれないか」
夕暮れ時、久方ぶりに聞いたノックの音に嫌々と開けた玄関扉の向こう側。そこにあったのは見上げるほどの長身と人好きのする笑顔であった。
名乗られずともわかった、こいつがアドヴェンだ。これほどまでに近くで見るのは初めてだが、なるほど、そりゃあ早々に受け入れられもするだろうよ。派手ではないが整った顔は如何にも誠実そうな雰囲気を纏っている。
「頼みがあるんだ」
何も言わず睨むように見上げるばかりの俺に痺れを切らしたのか、アドヴェンはもう一度そんなことを言った。なので、俺は返事もしないで思い切り玄関扉を閉めた。アルコール、あるいは酩酊によってのみ為せる業である。
ノックなんて無視するべきだった。頼み事なんて聞きたくない。俺は知らない。今日は誰も来なかった。
酔っぱらった脳味噌を騙すのなんざ簡単だ。アドヴェンを玄関先に捨て置いたまま、俺は再びベッドに潜り込んで寝た。ノックの音は二度としなかった。
■ □ ■
次に目が覚めたのは真夜中だった。
頭痛、酒焼け。慣れたものである。近くの沢で水を汲んでこようと、辺りに転がしていた適当な瓶を引っ掴み、玄関の戸を開けた。
いる。
アドヴェンが、夕方に見た姿のまま、俺の家の前に立っている。
「貴方に頼みがあるんだ」
その男は既に聞いた言葉を既に聞いた調子で言った。
「俺をルデウカ区域まで連れて行ってはくれないか」
「…………お前さ、ずっとそこにいたわけ?」
「そうだ。貴方に頼み事があって」
俺はアドヴェンの顔をまじまじと見た。こいつ、まともな人間じゃないぞ。
自分で言うのもなんだが、俺は考え得る限り最悪の来客対応をしたはずだ。そんな人間に引き続き頼み事をしようだなんて思うか? 夜中まで家の前に立っていてやろうだなんて思うか? 普通じゃないだろ、どう考えても。
なんでこの男が村に馴染めているんだ。おかしいのは俺の方だっていうのか。
で、何? ルデウカ区域?
意味が分からないな。分からないってことは、取り合わなくてもいいってことだ。
俺はアドヴェンの妄言を無視して、彼をすり抜け家の外に出た。こっちは喉が痛いんだ、水が飲みたいんだよ。不審者と会話している余裕なんてない。
うっすらと月明りだけが照らす夜だった。些か酔いの残る頭であったが、沢への道は慣れたものだ。村境の森に入り、獣道を辿って十分。大小入り混じった石のつぶてを分け入るように流れる水は、今日も変わらず穏やかだ。
瓶を洗って水を汲み、それを一息で飲めるだけ飲んで、残った分はざぶりと自分の頭にかけた。さっぱりはしたが、頭痛は消えない。悩みの種も消えていない。もう一度瓶いっぱいに水を汲み、渋々、それはもう嫌々と問題に向き合うことにした。……家からここまで、ずっと俺についてきていたアドヴェンに。
「お前、ちょっと正気じゃないぞ。真夜中まで人の家の前に立つことも、今俺の目の前にいることもだ」
「……そうなのか? すまないが、俺は、その、普通というのがあまりよくわかっていないらしいんだ。ここまで堂々と無視をされたのは初めてで、……どうしたら良かったのか、教えてくれないか」
薄暗い中でも見て取れるほど、いかにも申し訳なさそうにアドヴェンは眉を下げた。そういえば記憶喪失みたいな触れ込みだったな。だからといって許容できるような挙動ではない。
「じゃあ覚えて帰れ。俺の家の前で待つな。俺の後ろをつけてくるな。二度と俺に頼み事をするな」
「待ってくれ。俺はルデウカ区域に行きたいんだ。貴方を頼れと、村の人は言っていて」
しつこいな。頼み事なんて聞きたくないって言ってるだろ。
俺は無言でアドヴェンに背を向けた。酔いが完全に醒めてしまう前にさっさと家まで戻りたかった。
静かな夜だ。男二人の足音と水音が聞こえるだけの、穏やかな夜だった。
三年前、魔王が存在していた頃と比べて、世界は本当に平和になった。どこにだって魔物が存在していた昔と違って、今はもうほとんど魔物に遭うことはない。
武器も持たずに夜中水汲みに出られるこの時代を、俺は歓迎すべきなのだろう。魔物の代わりに不審者に付きまとわれることになったとしても、だ。
アドヴェンは結局俺の家までついてきたが、幸い家の中まであがりこまない程度の常識は持っているようだった。あるいは、それすらも村の誰かに教え込まれたのか。
他の村人はさぞ優しかっただろうさ。でも、世の中には俺みたいなどうしようもない人間もいるんだ。
明確な拒絶を体現するため、俺は思い切り音を立てて玄関扉を閉めた。閉じ切る直前、こちらを見ているアドヴェンの顔が目に入った。室内の灯りに照らされたその表情は、困惑だ。
……困惑するのは、俺の立ち場だと思うんだけどな。
ルデウカ区域。あんな危険なだけの何もない場所に、いったい何の用があるっていうんだ。
頼み事があるんだと言うアドヴェンの真剣な顔が思い起こされ、……俺は緩やかに頭を振って余計な考え事の全てを追い出した。良くないな、酔いが足りない。真剣に受け止めてしまってはいけない。
あんなに邪険にしてやったんだ。アドヴェンは二度と俺に頼み事なんてしないだろう。
ルデウカだろうがなんだろうが、何処へなりとも好きに行けばいいさ。とうに俺とは関係の無い話だ。




