黒針、天を穿つⅥ-Ⅲ
左右に立っていた二体のゴブリンが、ほとんど同時に地面を蹴った。右の一体は真正面から、もう一体は彼方から見て左へ大きく膨らみ、側面へ回り込もうとしている。三層で遭遇した個体よりは多少まともな動きをするらしいが、二体の間には僅かなずれがあった。
「挟むなら、もう少し歩調合わせないと――」
正面のゴブリンが甲高い声を上げ、右腕を振り上げる。
「ほら、早い」
振り下ろされた拳を肩一つ分だけずらして外し、すれ違うように懐へ入る。彼方が木刀を振ろうとしたところで、左から回り込んでいたもう一体が飛び込んでくるのが視界に入った。
「っと」
攻撃を途中で止め、目の前にいるゴブリンの右肩を左手で掴む。そのまま身体を押し出しながら自分は半歩位置を変え、二体を一直線上に重ねた直後、横から飛び込んできたゴブリンの拳が仲間の背中を掠めた。
「ギャッ!?」
「はい、渋滞」
二体の動きが止まったのは一瞬。それだけで彼方には十分だった。手前の一体の脇腹へ木刀を叩き込み、身体が横へ流れたところで手首を返す。下から跳ね上げた木刀がもう一体の顎を捉え、その頭を大きく仰け反らせた。彼方はすぐに半歩詰め、今度は頭部へ木刀を振り下ろす。
「一人」
一体が大理石の床へ崩れ、黒と白の光に包まれて粒子へ変わっていく。彼方はその最後まで見届けず、すでに残った一体へ視線を移していた。
「さっきの見て学習してくれてると嬉しいんだけどな」
脇腹を押さえるようにして立ち上がったゴブリンは、甲高い声を上げながら走り出した。数歩の助走をつけると、今度は両腕を広げて真正面から飛びかかってくる。
「……期待した俺が悪かった」
彼方は木刀を構えなかった。ゴブリンの両足が床から離れた時点で軌道は決まっている。身体を沈めて頭上を通過させ、そのまま左足を軸に振り返る。着地するよりも早く横薙ぎの木刀が胴を捉え、乾いた音とともにゴブリンの身体が横へ弾き飛ばされた。
「飛ぶなら、着地点まで考えた方がいいぞ。まあ、次があればだけど」
大理石の床を転がったゴブリンは、それでも身体を起こそうとする。彼方は慌てることなく歩み寄り、その頭部へ木刀を一度だけ振り下ろした。ほどなく二体目も黒と白の粒子へ変わり、広い部屋に再び静寂が戻る。
「二人っと」
彼方は木刀を肩へ担ぎ、ようやく部屋の奥へ目を向けた。
巨大な椅子には、まだ緑色の巨体が座っている。二体のゴブリンが戦っている間、助けに入ることは一度もなかった。右手に小さな木斧を握ったまま、まるで自分の出番ではないとでも言うように彼方たちの戦いを眺め続けていた。
最後のゴブリンを形作っていた光が完全に消える。
そこで初めて、ホブゴブリンが動いた。
「グゥ……」
肘掛けへ手を置き、重そうに腰を持ち上げる。立ち上がれば成人男性とほとんど変わらない身長があり、通常のゴブリンとは比べものにならないほど身体が大きい。ただし鍛え上げられた筋肉質な体格ではなく、腹は大きく前へ突き出していた。身につけているものも腰へ巻いた布一枚だけで、その右手には体格に比べれば小さく見える木製の斧が握られている。
彼方はようやく立ち上がった相手を見て、呆れたように木刀を肩から下ろした。
「やっとボスの出番かよ……おっそいなぁ」
ホブゴブリンは返事の代わりに低く唸り、一歩前へ出る。その巨体を受け止めた白い大理石から、ずしりと重い足音が返ってきた。
「せっかくなら三体まとめて来てくれた方が楽しそうだったんだけどな」
「グオォォッ!」
「……怒った?」
次の瞬間、ホブゴブリンが床を蹴った。大きな腹を揺らしながら一気に走ってくる姿は、その体格から受ける印象ほど遅くない。だが彼方が警戒したのは速度よりも、右手に握られた木斧だった。
走りながら頭上へ持ち上げ、肩だけでなく腰まで大きく捻る。そこから体重ごと叩きつけようとしているのが、嫌でも分かるほどの大振りだった。
「分かりやすっ」
ホブゴブリンの腕が動く。木斧が振り下ろされる瞬間まで彼方は動かず、軌道が確定してから半歩だけ左へ身体をずらした。ブォンッ、と風を切る音が狐面のすぐ横を抜け、白い大理石の床へ鈍い音が響く。
彼方はすぐに懐へ踏み込んだ。
「せーーー……ッの!!」
斧を持ち上げ直すまでの隙を狙い、右手首へ木刀を打ち込む。
「グッ!」
「まず武器を落としてくれると助かるんだけど――」
だが、ホブゴブリンは木斧を手放さなかった。それどころか痛みに苛立ったように唸ると、斧を引き抜きながら身体ごと大きく回転し、その勢いのまま横薙ぎに振り回してくる。
「――って、そう簡単じゃないよな!」
彼方は素早く一歩下がった。木斧が目の前を通過し、ホブゴブリンは自分で生み出した勢いを止め切れずに身体まで半回転する。
「お前、それ武器に振り回されてない?」
「グオォ!」
「聞いてないか」
体勢を戻したホブゴブリンは、懲りることなく木斧を両手で持ち上げた。今度も頭上まで大きく振りかぶり、全体重を乗せるように踏み込んでくる。
「またそれ?」
振り下ろされた木斧を一歩外へ出て避け、床を叩いた直後の隙へ踏み込む。肩へ一撃を入れ、そのまま手首を返して脇腹へもう一撃。肉を打つ重い感触はある。それでもホブゴブリンは僅かによろめいただけで、倒れる気配を見せなかった。
「……硬いっていうより、重いな」
彼方は深追いせず間合いを取り直す。ホブゴブリンは斧を床から引き上げると、またしても大きく振りかぶった。
何度見ても攻撃は単純だった。振り下ろす前には肩が大きく上がり、横へ振る時には腰まで捻る。重い木斧を力任せに扱っているせいで、一度振り始めれば途中で止めることもできず、攻撃の終わりには必ず身体が流れる。技術だけなら脅威ではない。
問題は、その一撃だった。
ホブゴブリンが斧を振り下ろすたび、大理石の床から重い音が返ってくる。木製とはいえ、あの体重と腕力を乗せた一撃をまともに受ければ、今までのモンスターと同じようには済まないだろう。
「一発事故だけは勘弁だな」
再び走ってきたホブゴブリンが、今度は木斧を右後方へ大きく引いた。
「次は横か」
直後、斧が大きな弧を描く。彼方はその場で身体を沈め、頭上を通過させた。勢いを止められないホブゴブリンの身体が半回転し、無防備な背中が目の前に晒される。
「背中がお留守」
立ち上がる勢いをそのまま木刀へ乗せ、肩甲骨の辺りへ一撃。ホブゴブリンが前へよろめけば、そのまま距離を詰めて太腿へ二撃目を入れる。
「グォッ!」
「お、効くじゃん」
片膝が僅かに沈む。だが、倒れない。ホブゴブリンは強引に身体を起こし、また斧を構えようとしていた。
「……タフだなぁ」
彼方は木刀を肩へ担ぎ直し、相手を観察する。
「技量差でどうにでもなる相手だけど、今のままじゃ体力ゲージが妙に長いやつかぁ」
「グオォォッ!」
「元気だな!」
ホブゴブリンが斧を振り上げる。彼方は落ちてくる軌道から半歩外れ、空いた脇腹へ木刀を叩き込んだ。次は横薙ぎ。身体を沈めて外し、勢いに振られて晒された腕へ一撃を入れる。また振り下ろし。今度は後ろへ下がって避け、斧が床へ落ちたところで腹を打つ。
「一、二……三!」
肩、脇腹、太腿。三度続けて打ち込まれたホブゴブリンの身体が大きく揺れる。それでも怒声を上げながら斧を持ち上げ、まだ彼方へ向かってくる。
「ちゃんとボスしてるじゃん」
彼方の声に焦りはない。むしろ、狐面の奥では僅かに口元が上がっていた。
「でもそろそろ、このまま殴り続けるのも面倒だな」
◇
突然現れた巨大なホログラムの周囲では、すでに多くの人間が足を止めていた。何の前触れもなく空中へ現れた映像には、どこか分からない場所で繰り広げられている同じ戦闘が映し出されている。
「また避けた!」
「いや、あの緑のやつ攻撃大振りすぎだろ」
「でも当たったらヤバそうじゃない?」
「狐面の方、ずっと殴ってるのに全然倒れねえな」
最初こそ突然現れたホログラムそのものに騒いでいた人々も、今では映像の中で繰り広げられる戦いへ夢中になっていた。スマートフォンを頭上へ向けて撮影する者も多く、SNSにはすでに各地から大量の動画が投稿され始めている。
狐面の人物が圧倒的に優勢なのは、戦闘経験のない人間にも分かった。緑色の怪物が斧を振れば避け、攻撃が終われば必ず木刀を打ち込む。一方的と言ってもいいほどなのに、それでも相手は倒れない。
「これ……どうやって倒すんだ?」
誰かが漏らした言葉に答えられる者はいなかった。
◇
「普通に殴ってても倒せるだろうけど……時間かかるな」
彼方は木刀を軽く振りながら、自分の身体へ意識を向けた。
今の身体では攻撃力が足りない。
なら、足りる自分を持ってくればいい。
現在の場所、目の前の相手、そして今ここにいる自分。必要な条件を頭の中で組み上げ、数ある可能性の中から今必要な経験へ手を伸ばす。
――《立体交差並行世界論》。
瞬間。
懐かしい感覚が、戻ってきた。
「……ああ」
彼方の口から、小さな声が漏れる。
心臓の奥から全身へ。血の流れへ重なるように、これまで意識していなかった何かが巡っている。
初めて感じたはずなのに、初めてではない。
どう動かすのか。どこへ集めるのか。身体へどう作用させるのか。そんなことを一つ一つ考える必要すらなかった。長い間使っていなかった道具を手にした時のように、意識を向ければ身体が自然と扱い方を思い出していく。
「この感覚……久しぶりだな」
ホブゴブリンが木斧を大きく振り上げる。
彼方は僅かに腰を落とした。
「じゃあ――ちょっと付き合ってくれ」
心臓から両脚へ流れを作り集める。
ホブゴブリンが床を蹴る。
彼方も同時に踏み込んだ。
次の瞬間、視界が流れた。
「――っ!」
自分で想定していた以上に身体が前へ出る。さっきまで数歩必要だった距離が一瞬で縮まり、ホブゴブリンの斧が落ちてくる頃には、その正面から完全に消えていた。
「思ったより出るな!」
ホブゴブリンの右側へ抜け、その勢いを殺さず身体を回す。今度は心臓から腕へ。そして、手の中に握った木刀へ。意識しただけで流れは滑らかに移動し、腕と木刀の輪郭をごく薄い白が一瞬だけなぞった。
ほんの一瞬。
注意して見ていなければ、見間違いで済ませてしまうほどの白。
周囲に風が吹き荒れるわけでも、大理石が砕けるわけでもない。
ただ、彼方だけが変わった。
「木刀が耐えられるなら――遠慮はいらないな!」
床を強く踏む。脚から生まれた力を腰へ繋ぎ、その回転を肩、腕、そして木刀へ乗せる。これまで何度も叩いてきた脇腹へ、同じように木刀を振るった。
だが。
結果だけが、まるで違った。
ドンッ――!
「グォッ!?」
成人男性ほどもあるホブゴブリンの両足が、白い大理石から完全に離れた。
その巨体が三メートルほど後方へ吹き飛ぶ。
床へ叩きつけられ、そのまま勢いを殺せず二度、三度と転がった。
◇
「…………は?」
ホログラムを見上げていた誰かが、間の抜けた声を漏らした。
つい数秒前まで、何度木刀で殴られても倒れなかった怪物だった。それが今、たった一撃で宙を飛んだ。
「今の何?」
「いやいやいや、木刀だよな?」
「飛んだぞ!?」
「三メートルくらい飛んでなかった!?」
同じ映像が流れている各地で、似たような驚きの声が次々と上がった。突然ホログラムが現れた時とは違う。今、人々が驚いているのは映像そのものではなく、その中で起きた明らかな異常だった。
◇
彼方は振り抜いた姿勢からゆっくり身体を戻し、手の中の木刀へ視線を落とした。
「いいね……久しく楽しくなってきた」
木刀に破損はない。腕にも違和感はなかった。
なら、まだいける。
ホブゴブリンが床へ手をつき、怒声を上げながら身体を起こす。先ほどまで何度打たれても平然としていた巨体が、今度は明らかにふらついていた。
「効いてる効いてる」
彼方は木刀を肩へ置き、立ち上がるのを待つ。
「じゃあ次、どこまで付いてこれる?」
再び心臓から両脚へ流れを集める。踏み込む。今度は先ほどの速度を知っている。身体が前へ出すぎないように加減しながら、それでも一気に間合いを消した。
「グォッ!?」
「遅い!」
ホブゴブリンが木斧を振り上げる。しかし、元から大振りだった動作が、今の彼方にはあまりにも遅い。斧が頭上へ到達するより先に懐へ入り込み、今度は右脚へ流れを集めた。
左足で大理石を強く踏み、腰を捻る。
「そらっ!」
振り抜いた右足がホブゴブリンの腹へ直撃し、大きく突き出した腹が沈んだ。巨体が再び後方へ弾かれるが、今度はどうにか踏ん張って転倒を免れる。
「耐えるか!」
彼方はすぐに追った。ホブゴブリンは足を踏ん張りながら、懲りずに木斧を頭上へ持ち上げようとしている。
「遅ぇんだよ!」
振り上げる途中の右手首へ木刀が叩き込まれた。
今度は耐えられない。
木斧が手から離れ、空中で回転しながら大理石の床へ落ちた。そのまま乾いた音を立てて遠くまで滑っていく。
「はい、武器没収!」
「グオォォォッ!」
「素手になっても大振りなのかよ!」
ホブゴブリンは両腕を大きく振り回してくるが、斧を失ったところで戦い方が変わるわけではなかった。彼方は笑いながら半歩外へ出て腕を避け、すれ違いざまに肩へ一撃。そのまま身体を反転させて脇腹へ二撃目を入れ、さらに踏み込んで太腿へ木刀を叩き込む。
「さっきより――遅い!」
連続した打撃に、ホブゴブリンの身体が大きく揺れた。それでも倒れない。
「……ほんとタフだな」
彼方は一度だけ距離を取った。ホブゴブリンは荒く息を吐いている。立っているのも辛そうなのに、それでも彼方へ向かってくる。足取りは遅くなり、両腕を持ち上げる動作にも最初の勢いはない。
彼方は木刀を両手で握った。
「でも、もういいか」
両脚へ。腕へ。そして、木刀へ。
必要な場所へ、必要なだけ。
心臓から巡る流れを集める。
ホブゴブリンが最後の力を振り絞るように両腕を大きく広げた。
彼方は真正面から走った。
一歩目で外へ。
二歩目で懐へ。
巨大な腕が背後を通過する。
彼方の木刀は、すでに頭上へ振り上げられていた。
「さっさと死ね、デブ達磨!」
振り下ろす。
木刀が頭部へ直撃した。
重い音が、広いボス部屋に響いた。
ホブゴブリンの膝が崩れる。
巨体が前へ傾き、そのまま白い大理石の床へ倒れ込んだ。
彼方は追撃しなかった。木刀を構えたまま数秒待ち、相手が動かないことを確認する。
「……よし」
構えを解いた直後、ホブゴブリンの緑色の身体へ黒と白の光が走った。大きな輪郭が細かな粒子へ変わり、床から舞い上がるように消えていく。
そして、最後の光が消えた。
◇
ホログラムを見上げていた人々から、一瞬だけ声が消えた。
勝った。
誰の目にも、それは明らかだった。
それまで何度攻撃されても立ち続けていた緑色の巨体が倒れ、黒と白の粒子へ変わって消えていく。その中心に、狐面をつけた人物だけが木刀を手に立っていた。
「……勝った?」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
「勝った!」
「マジかよ!」
「やった!」
歓声が上がった。
それは一か所だけではない。同じ映像が映し出されていた各地で、ほとんど同じ反応が巻き起こっていた。隣にいる見ず知らずの人間と顔を見合わせる者、スマートフォンを握ったまま声を上げる者、何が起きたのか理解できずに呆然と映像を見上げる者。それぞれ反応は違っていても、誰もが今しがた目の前で起きた戦いに意識を奪われていた。
だが、その直後。
巨大な映像へ白いノイズが走った。
「あ……」
狐面の人物が消える。
ボス部屋が消える。
最後には巨大な白い長方形だけが空中へ残り、それも数秒と経たず光の粒子へ変わっていった。
そして、何もなかった空へ戻る。
「終わった?」
「録画した!?」
「したした!」
「これどこのダンジョンなんだよ!」
「てか狐面誰!?」
ホログラムが消えたことで、むしろ騒ぎは大きくなった。SNSには各地で撮影された映像が次々と投稿され、同じ戦闘を別の場所から撮影した動画が凄まじい速度で拡散されていく。
狐面。
木刀。
ゴブリン。
緑色の大型個体。
そして突然現れ、戦闘終了とともに消えた謎のホログラム。
答えのない映像だけが、世界中へ広がり始めていた。
◇
「……終わったか」
彼方はホブゴブリンが消えた場所へ歩いていった。当然ながら、外でそんな騒ぎが起きていることなど知る由もない。
彼方が気にしていたのは、ホブゴブリンが完全に消えたあと、何もなかった床へ現れた物体だった。
「ちゃんと出るか」
最初に目についたのは、これまでのモンスターから得たものより明らかに大きな魔石だった。
そして、その少し離れた場所。
一本の剣が横たわっていた。
「剣か」
彼方はしゃがみ込み、それを手に取った。鉄製の両刃剣だった。華美な装飾はなく、鍔も柄も簡素な造りをしている。刀身にも特別な模様はなく、見たところ何らかの特殊能力が備わっているようにも思えない。
彼方は立ち上がり、軽く振って重心を確かめた。
「うーん……」
期待していたものとは少し違う。
「ダンジョンっても、浅い階層じゃこの程度のレアリティか……」
とはいえ、持って帰らない理由はなかった。この世界では、ダンジョンから完成した武器そのものが出現するという事実だけでも十分に異常だ。
彼方は持ち帰るものをまとめていたところで、ふと自分の右手へ視線を落とした。握って、開く。先ほど身体の中を巡っていた感覚は、まだ鮮明に残っている。
「……懐かしい、か」
自分で口にしてから、彼方は僅かに首を傾げた。どうしてそう感じたのか、答えは出ない。だが、今ここで考え続ける理由もなかった。
「まあ、帰ってからでいいか」
ドローンを確認する。撮影は問題なく続いており、戦闘も最初から最後まで記録されているはずだ。
「これだけ撮れてれば十分だろ」
録画を止め、ドロップ品をまとめる。彼方は最後にボス部屋を一度振り返ってから、来た道を戻り始めた。
◇
その頃、水城凛は自室でスマートフォンを握ったまま、無言で画面を見つめていた。
再生されているのは、SNSへ投稿されたばかりの動画だった。狐面をつけた人物が二体のゴブリンを倒し、その後に緑色の大型個体と戦っている。何度見ても現実離れした光景で、最初に見た時は凛も純粋に映像そのものへ目を奪われていた。
だが、二度目。
動画を見返していた凛の指が止まった。
「……待って」
数秒戻し、再生して、止める。
画面を拡大する。
見ているのは狐面ではない。
その後ろ。
映像の端を飛んでいる小型のドローンだった。
「…………」
ローターの位置、カメラの配置、フレームの形状。そして飛行中の微妙な姿勢制御。昨日まで自分の手で組み立て、今朝最後の調整を終えた機体を見間違えるはずがない。
「……私のじゃん」
そして今日、その機体を渡した相手は一人しかいない。
凛は動画を最初まで戻した。
今度は狐面の人物を見る。
木刀の握り方。
構え。
足運び。
身体の回し方。
午前中、自分が何度も竹刀を交えた相手の動きだった。
特に最後の一本。
それまでとはまるで違った。
竹刀を構えただけなのに、目の前にいる人間が彼方ではなくなったのではないかと錯覚するほどの冷たい気配。動けば斬られる。ほんの一歩先が断崖絶壁になったような、今まで経験したことのない感覚。
あれを忘れるはずがない。
凛の指が止まった。
「…………彼方」
スマートフォンを下ろし、立ち上がる。
電話は掛けなかった。
直接問い詰めればいい。
◇
日が傾き始めた頃、彼方は境井家へ戻ってきた。ダンジョンを出たところでドローンも回収してある。木刀も無事。鉄製の両刃剣をはじめ、いくつかのドロップ品も持ち帰ることができた。
「ただいまー」
玄関を開ける。
返事はない。
靴を脱いで廊下へ上がったところで、彼方の足が止まった。
見覚えのある靴がある。
凛の運動靴だ。
「…………なんでいるんだ?」
嫌な予感しかしない。
彼方は自分の手元へ視線を落とした。木刀、ドローン、鉄製の両刃剣、そしてダンジョンから持ち帰った品々。
「……これどう見てもアウトだな」
今から玄関を出るか。一瞬だけ考えたが、さすがに自分の家から逃げ出すのもおかしい。
「まあ、なんとかなるか」
諦めて居間へ向かう。
廊下を歩き、襖の前まで来たところで彼方は足を止めた。
妙な圧を感じる。
五層のボス部屋へ入った時にはなかった。
何かがいる。
いや、誰がいるかは分かっている。
彼方は恐る恐る襖を開いた。
凛が正座していた。
膝の上にはスマートフォン。
こちらを見ている。
笑っている。
口元だけは。
その背後に鬼でも立っているのではないかと思うほどの気圧が、部屋の中を満たしていた。
「…………」
「…………」
彼方は何も見なかったことにして、静かに襖を閉め始めた。
「開けろ」
「……人違いじゃないですかね」
「彼方」
「はい!!」
即座に襖を全開にする。
ホブゴブリンの斧より反応は速かった。
「何か言いたいことある?」
「特にありません!」
「そこ座って」
「失礼します!!」
彼方は即座に正座した。姿勢まで完璧だった。
凛が無言でスマートフォンを持ち上げる。画面には白い狐面をつけ、木刀を手にホブゴブリンと戦っている人物が映っていた。
「これ誰?」
「…………」
「彼方」
「……似てる人?」
「後ろのドローンも?」
「世の中、似たもの多いし……」
「私が昨日まで部屋で組んでた機体と同じだけど?」
「…………」
「今日の昼に彼方へ渡したやつと同じだけど?」
「…………」
「で?」
彼方は画面を見る。
凛を見る。
もう一度、画面を見る。
狐面で顔は隠れている。
だが、その後ろには凛が作ったドローンが堂々と飛んでいる。
逃げ道はなかった。
「……俺ですね」
「うん」
凛が笑った。
今度は、目も笑っていない。
「じゃあ説明してもらおうか?」
「…………どこから?」
「最初から全部」
「長くなるぞ?」
「いいよ。今日は時間あるから」
「…………」
彼方は正座したまま視線を逸らした。
「ちなみに、途中で帰るという選択肢は?」
「ここ彼方の家でしょ」
「そうだった」
逃げる場所すらなかった。
今日一日の出来事が頭をよぎる。スライム、ゴブリン、ネズミ、コウモリ、ストーンリザード、キラービートル。そして最後に戦ったホブゴブリン。
どれも、どうにかなった。
だが。
目の前の幼馴染だけは、どうにもならない気がした。
「彼方?」
「はい!!」
「説明」
「……はい」
どうやら今日一番厄介な戦いは、もう終わったと思っていた。
それは大きな勘違いだったらしい。
彼方は凛の正面で正座したまま、今日一番長くなりそうな時間の始まりを悟った。




