第1話 泥水スープの絶望とゴミ山からの覚醒
灰色の空からは、いつも油まじりの冷たい雨が降っていた。
肺の奥までこびりつくような、鉄錆と腐敗の臭い。
敗戦国ジュラスの最底辺に位置するスラム――通称『ゴミの国』。
戦勝国や、壁の向こうに住むこの国の富裕層たちが吐き出した「贅沢なハイテク魔導具の残骸」が、巨大な山となってそびえ立つ場所。
「……っ、痛ぁ……」
鋭利な鉄くずで指先を切り裂きながら、5歳のセコットはゴミの山を這いつくばっていた。
ガリガリに痩せ細った小さな体には、ボロ布のような服がへばりついている。
セコットは捨て子だった。
親の顔は知らない。
このスラムで生き残る方法はただ一つ。
ゴミ山の中から、まだ魔力がわずかに残っている部品や、稀に混ざっている希少金属・マナメタルの欠片を拾い集め、大人たちに売ることだ。
対価は、壁の向こうから回ってくる残飯生ごみの配給。
(今日も、これっぽっちだ……)
泥まみれの手の中にあるのは、小指の先ほどの濁った金属片だけ。
これでは、今日の分のパンの耳すら貰えないかもしれない。
空腹で視界がチカチカと点滅する。
限界だった。
フラフラと立ち上がろうとした、その時だ。
ギシッ……という、嫌な音が頭上から響いた。
見上げると、バランスを崩した巨大な魔導エンジンの残骸が、セコットの小さな体に向かって落下してくるのが見えた。
(あ、死ぬ)
逃げる体力すら残っていなかった。
凄まじい衝撃と激痛が全身を貫き、セコットの意識は深い闇へと沈んでいった。
◆
――温かいお湯が張られた、清潔な白いバスタブ。
――炊飯器から立ち上る、甘くふっくらとした白米の香り。
――ふかふかの羽毛布団と、雑菌一つない清潔な衣服。
(……なんだ、これは?)
闇の中で、セコットの脳髄に『あり得ない光景』が濁流のように流れ込んできた。
魔法など存在しない世界。代わりに「科学」という論理が全てを解決し、蛇口をひねれば透明な水が出て、誰もが飢えることなく眠りにつける狂ったような楽園。
『日本』という国で生きていた、大人の男としての記憶。
「セコット! セコット、目を開けて!」
頬をバシバシと叩かれる痛みで、セコットはパチリと目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、煤と泥にまみれた見慣れたスラムの光景。そして、泣きそうな顔で自分を覗き込む、同じ孤児の少女の顔だった。
「よかった……! ゴミが崩れて下敷きになったって聞いて、もうダメかと思った……!」
ズキズキと痛む頭を押さえながら、セコットはゆっくりと身を起こした。
奇跡的に、落ちてきた残骸の隙間に体がすっぽりと収まっていたらしい。打撲と擦り傷はあるが、骨は折れていなかった。
「……心配かけて、ごめん」
自分の口から出た言葉に、セコット自身が一番驚いた。
5歳の子供の発音だが、頭の中は完全に『前世の大人』の思考に切り替わっている。
「無事でほんっとうに良かった!ほら、これ食べな! 少しだけど、今日の配給の分け前だよ。温め直したから!」
少女がホッとしたような笑顔を見せ、欠けた木の椀をセコットに差し出した。
そこに入っていたものを見て、セコットは息を呑んだ。
濁った灰色の液体。
得体の知れない野菜のクズ。色が変わった謎の肉片。
それらがグチャグチャに煮込まれ、酸いような、腐りかけのような強烈な異臭を放っている。
富裕層が食べ残し、ゴミ箱に捨てたものをかき集めて煮込んだ、スラムの孤児たちにとっての『命のスープ』だ。
昨日までのセコットなら、これを涎を垂らして奪い合うように食べていた。
しかし――。
(……ウッ……!)
日本の清潔な食文化、食品衛生、そして『本物の美味い飯』の記憶を思い出した今のセコットにとって、それは完全に「生理的限界を超える生ゴミ」でしかなかった。
胃液がせり上がり、本能が全力で摂取を拒絶している。
「どうしたの? 早く食べないと、他の奴らに取られちゃうよ?」
「……いらない」
「えっ?」
「ごめん。今は、食えない……」
椀を押し返し、セコットは自分の両手を見つめた。
泥と血にまみれた、小さくて非力な5歳の子供の手。
この国には「魔法」があるが、セコットが持つ魔力など、ロウソクの火を灯せる程度のちっぽけなものでしかない。
(だけど⋯もう絶対に嫌だ)
こんな泥水をすすって、ゴミに埋もれて凍え死ぬだけの人生なんて、絶対に御免だ。
とりあえず安全で清潔な家ら絶対に欲しい。
腹を下さない綺麗な水が飲みたい。
まともな肉を焼いて食いたい。
セコットの瞳に、これまでの怯えた捨て子のものではない、大人の暗い炎が宿った。
(ここには、前世にはなかった『魔法で動く機械の残骸』が山ほど捨てられている。なら……)
大人の知識と、この世界のガラクタを組み合わせれば、何かができるはずだ。
必ずこの地獄から這い上がり、生き残ってやる。




