二
しゃしゃり出た辰蔵に、玄七郎は一瞬、言葉を失くしていた。
それでも、何とか立ち直って、辰蔵を問い詰める。
「お前なら、この異常を何とかできるのか? どうなんだ?」
辰蔵は「へへん!」と顎を上げる。
「おいらには、何にもできやしないさ! 誰が、そんなこと、言ったっけ?」
「こいつ……っ!」
玄七郎は苛々が込み上げた。この急場に、こいつは何を戯けた法螺を吹くのか?
冬吉が「まあまあ」と割り込む。
「辰蔵殿には、何か、考えがあるので御座ろう。辰蔵殿、お教え願いたい」
辰蔵は、冬吉が下手に出たので、一瞬で機嫌を直した。
「まあ、見てな!」
叫ぶと、ピョイっと、冬吉の懐から飛び出す。玄七郎は思わず「あっ」と叫んでいた。
何と、辰蔵は、そのまま地面に垂直に立ったのである。玄七郎と、冬吉が、今にも真っ逆様に墜落しそうになっているのに、辰蔵といえば、まるっきり普通に、地面に立って、二人をせせら笑っている。
「さっきから、あんたら、本当に馬鹿みたいだぜ! 何で、こんな平らな地面から落ちると思っているんだろうな?」
玄七郎の頭の中は、混乱と、疑惑と、不審でごちゃ混ぜになっている。
自分は確かに、坂に攀じ登り、必死にしがみついている。一瞬でも、指先から力が抜ければ、ずるずると後方に引っ張られる力を感じている。隣で歯を食い縛っている、冬吉も同じはずだ。
なのに、なぜ、辰蔵は平気なんだ?
「どうなってるんだ!」
玄七郎は、心の底から叫んでいた。
くいっ、と辰蔵が、玄七郎を見て、小首を傾げた。
「おいらには、この道が、ごく普通にしか思えないけどなあ……。でも、あんたら二人は急な坂だと、思ってるんだな?」
冬吉は、顔を真っ赤にさせたまま、小刻みに頷いていた。
辰蔵は、腕を組んだ。
「そうか、それじゃ、おいらには、考えが一つしか浮かばないな」
「お前の考え?」
玄七郎が思わず答えると、ぴょこぴょこと歩いてきて、立ち止まった。
「おいらは、見ての通り、ただの縫いぐるみさ! 将軍様のお力で、喋れるし、深雪が合言葉を言ってくれれば、竜に変身することだって、できる。でも、本当の正体は、さっきも言った通り、縫いぐるみなんだ。生きているように動けるけど、生きてはいない。判るかな、おいらの言っている意味が?」
「全然、判らんぞ!」
かっとなって玄七郎が呻くと、辰蔵は「いやいや」と首を振った。
「おいらには〝意識〟ってのが、ないんだ。もっと砕いた言い方なら、〝魂〟ってやつかもしれない」
呆然となって、玄七郎と冬吉は顔を見合わせた。
「おいらには何ともないけど、あんたらには影響している。おいらには〝魂〟はないけど、あんたらには、ある。どうだい、この意味、判るかい?」
徐々に、辰蔵の言葉が、玄七郎の胸に沁み込んできた。辰蔵の告白は、玄七郎にある結論を導かせていた。
「俺の、思い込み、と言いたいのか? 俺たちが、ここは普通の街道だ、坂道なんかじゃ断固ありえない! そう思えば、この異常はなくなると言うのか?」
「おいら、妙だと思ってたんだ。あんたは、黒須五十八の罠だと言うが、あいつは、あんたを、東照宮へ誘い込みたがっていたんだろう? なのに、なんで、こんなところで、わざわざ罠を仕掛ける必要がある?」
辰蔵の指摘は、玄七郎に、さらなる思考を要求させた。
そうだ、あいつは俺に「東照宮へ来い!」と強く主張していた。
「よく思い出してみな! あんた、この場所に来る前、五十八が何か仕出かすんじゃないかと、疑っていなかったかい?」
玄七郎は、深く、自分の胸に尋ねてみた。
自分の中に、今まで存在すら感じられなかったあるものを見つけ、玄七郎は凝然となっていた。
それは「恐れ」だった!
玄七郎は静かに目を閉じた。
この道は、ただの街道だ……。罠などあるはずもない……! 深く沈降した玄七郎の思考は、周囲を我が物としていた。思考の指先が、周囲に蜘蛛の巣のように広がってゆくのを、玄七郎は自覚していた。
「わ、わ、わ、わ!」
冬吉が悲鳴を上げる。
「げ、玄七郎殿っ!」
はっ、と目を開けると、冬吉の身体が、宙に浮かび上がっている。自分の身体も、ふわふわと、浮かび上がっているのを、認めた。
「うひゃあぁっ! す、凄えや!」
辰蔵が歓声を上げた。
見ると、辰蔵さえも、空中に漂い始めている。辰蔵は、宙に浮かびながら、玄七郎に声を掛けた。
「あんた、何て凄い力を持っているんだ! 冬吉さんだけじゃなく、おいらまで、巻き込むなんて、普通じゃねえよ!」
その瞬間、三人は、すとんと地面に落下していた。
ぜえぜえ、はあはあと、玄七郎の息が弾んでいる。信じられない出来事に、全身がびっしょりと汗で濡れていた。地面にぺたりと座り込み、辰蔵に叫ぶ。
「お、俺は、何をしたんだ? 今のは、俺のやったことなのか?」
「あったりまえさあ! あんたは、自分の〝想う力〟で、世界を捻じ曲げたんだ! 深雪が将軍から受け取った力と同じさ!」
「深雪がっ?」
「そうさ、深雪のお役目は、この世界を正常に戻すこと。そのために、世界の法則を、ほんの少し、捻じ曲げる力を与えられている。でも、あんたは、誰にも与えられていないのに、〝想う力〟だけで、それができた。おっそろしい、力だなあ!」
俺の力? 重力すら無視する、自分の力!
江戸仮想現実の異常が、自分に思いも掛けない恐るべき能力を付与している!
これから先、どのような異変が待ち受けているのだろう……。その異変は、玄七郎自身を、思ってもいない方向へ導いているのだ!
ふと、冬吉の視線が気になった。
視線を合わせると、冬吉は慌てて目を逸らした。冬吉の目の奥には、理解不可能なものを見た、恐れがあった。
当たり前だ! 俺だって、自分が恐ろしい……。
玄七郎は立ち上がった。
もう、普通に歩ける。
すたすたと歩き出す玄七郎に、冬吉が慌てて声を掛ける。
「玄七郎殿、いずこへ?」
「決まってるだろう?」
玄七郎は仏頂面で答える。
「東照宮に、決まってる!」
行く手には、例幣使街道の、杉並木が立ち並んでいる。何の変哲もない景色が、今の玄七郎には、禍々しい意志を感じ取っていた。




