一
宿場町を出外れた街道で、二郎三郎は立ち止まり、口を開いた。
「済まねえが、ここでお別れだ」
「えっ!」と玄七郎と、冬吉がくるりと回れ右をして、まじまじと二郎三郎を見る。二郎三郎は、ちょっと肩を竦め、ニッと笑った。
「時間切れなんだ。玄七郎を待つため、ずーっと鹿沼の宿に居続けしたんでね。もう、帰還しないと〝ロスト〟しちまう」
仮想現実で、三日間以上を過ごすと、本体の健康のために、強制的に接続が断たれる。玄七郎の経験した〝ロスト〟は、遊客の最も怖れる悪夢である。
「そうか、判った!」
玄七郎は頷いて見せた。二郎三郎は、行く手に顎をしゃくる。
「それに、ここから先は、東照宮の異常が広がっている。恐らく、俺たち遊客が、仮想現実接続装置を使って出現するのは、不可能になっているはずだ。つまり、日光に入っちまうと、俺も帰還できなくなる。後は、お前さんがたが、頼りだ」
「拙者、一命を賭し、大樹公の思し召しに従い申す!」
冬吉は頬を紅潮させ、声高く誓って見せた。二郎三郎は、冬吉に向かって、頷いた。
「頼むぜ!」
玄七郎は無言で頷き返し、くるりと踵を返す。冬吉も背を向け、歩き出す。
少しばかり歩いた所で、玄七郎は背後を振り返った。
街道には、すでに二郎三郎の姿はなかった。冬吉が前を向いたので、早くも現実世界へ帰還したのだろう。
遊客は、江戸NPCが見ている場面では、仮想現実から現実へ帰還できない。やたらNPCの見ている前で、ぱっと消え去ったりすると、大騒ぎになるからだ。
「なんだ、あいつ、帰っちまったのか?」
冬吉の懐から、縫いぐるみの蜥蜴がぴょこりと、顔を出して呟いた。玄七郎は舌打ちして、辰蔵を、冬吉の懐に押し戻した。
「引っ込んでな! それに、やたら喋るんじゃない!」
「何だよう……いいじゃ、ねえか!」
それでも辰蔵は、玄七郎がギロリと睨むと、大慌てで冬吉の懐に引っ込んだ。
いったん、玄七郎の前で、自分が喋れるという事実を披露した辰蔵は、今や遠慮会釈なく、軽口を叩くようになっていた。
今は、冬吉の懐が、大のお気に入りである。冬吉は、辰蔵が将軍特性のNPCであるので、謙った応対をするからだ。
しかし玄七郎に対しては、苦手な様子を隠さない。玄七郎も、辰蔵を甘やかすつもりなど、毛頭あるはずもない。
鹿沼を出てからは、文挟宿、板橋宿、今市宿と連なる。行程は二十キロ。江戸仮想現実らしく表現すると、五里の道のりである。のんびり歩いても、日暮れには到着するが、二人は飛ぶように、街道を急いでいた。
二人が全力で進むと、足下に砂埃が巻き起こった。冬吉は隠密特有の速歩で、玄七郎は遊客の底なしの体力に任せ、大股に歩く。
歩きながら、ちらりと玄七郎は空を見上げた。
「妙な空の色だな……」
隣で、冬吉も目を上げ、同意した。
「全く、それがしも、このような空は、見た覚えが御座らん! やはり、東照宮の異常で御座ろうか?」
空の色は、奇妙な変調を来たしていた。真っ青にあるべき空は、今や濃い緑色に変色し、雲はどんよりとした灰色に変わっている。日差しも、黄ばみ、ねっとりとした光が辺りに満ちている。
「深雪は、この異常を正せるのか?」
「おいらに聞いているのかい?」
玄七郎が思わず呟くと「待ってました」とばかりに、辰蔵が冬吉の懐から顔を出す。
じろっと玄七郎が睨むと、慌てて引っ込んだ。だが、玄七郎が何も言わないのを見て、また、顔を出した。
「何か言いたいのか?」
玄七郎が尋ねると、辰蔵は得意そうに頷いた。
「へへーんだ! あいつら、深雪を攫って、何かやらかすつもりなんだろうが、そうはいくかよ! おいらがいないと、深雪だって、何もできないんだ!」
「何っ!」
初めて聞く辰蔵の自慢に、玄七郎は緊張した。冬吉もまた、真剣な表情になっている。
「辰蔵殿、詳しく話して下さらんか?」
辰蔵の自慢話が始まった。
「深雪とおいらは、二人で一組だ。東照宮に深雪だけが到着したって、おいらがいないと、深雪は力を存分には揮えない! 深雪を引っ攫って、何をする気か知らないが、お生憎様って、寸法さ!」
「なるほど、そうか……!」
玄七郎は、辰蔵の言葉に頷いていた。深雪がなぜ、蜥蜴の縫いぐるみを肌身離さす、抱えていたか、ようやく判った。
辰蔵は、自分が重要だと二人が納得したのを確認して、上機嫌である。
日光に急がねば!
が、玄七郎の思いを挫くように、街道は急激に敵意を剥き出しにしつつあった。
「玄七郎殿、これは、何としたことで御座ろう……?」
冬吉が、驚きに歯を食い縛る。玄七郎は唸り声で、応えた。
道が不意に、坂道に変貌していた。
身体が前のめりになり、ただの平坦な街道が、二人には胸衝くほどの急坂になっていた。
確かに道は真っ直ぐで、坂道には見えない。しかし、前へ進もうとすると、足が重く、踵が滑ってしまうほど、後ろに引かれる。
上下の感覚が、狂っていた。視線は確かに、地面と平行のはずなのだが、身体は坂を上っていると主張している。
とうとう、二人は、地面に這い蹲っていた。
がりがりと、地面に指を立て、必死に齧りついていないと、まっ逆さまに転落する恐怖が込み上げる。
まさか!
玄七郎は、手近の小石を、指先で掘り起こしてみた。掘り出された小石は、目の前でコロコロコロと音を立て、転がってゆく。見る間に、加速がついて、びゅーんっと視界から消えていった。
前へ進めば、進むほど、地面の傾斜はきつくなるようだった。顔を挙げ、街道の先を見上げる。ごく見慣れた景色が、今や、恐ろしく遠い。
冬吉が呻いた。
「い、いかぬっ! もう、ぶら下がっていられませぬっ!」
冬吉は地面を、ずるずると後方へ下がっていった。まるで、坂道から転落していく有様そのままだった。
転々と、冬吉の身体は転がったが、やがて動きが止まる。すると、何事もなく、冬吉は立ち上がった。
ポカンとして「訳が判らない」といった表情を浮かべている。
しかし玄七郎を見て、決意を固めたらしく、全身に力を込め、前傾姿勢になって全速力で走り出す。
見ていると、冬吉の身体は玄七郎に近づくにつれ、前屈みがきつくなる。とうとう、玄七郎の留まっている手前あたりで、完全に地面と平行になってしまった。
ぐわっ、と冬吉の両爪が、地面を掴んだ。
一歩、一歩、いや、一寸刻みで、冬吉は懸命に登攀して、玄七郎と肩を並べる。
「どうなって御座る。まるで、坂を上っている……いや、それより、垂直の壁を登っている心持ちで御座る」
玄七郎は、強く頷く。
「お前の言うとおりだ。多分、これも五十八の罠なのかもしれねえ……。これじゃ、五十八が攻撃してきても、俺たちは、何も反撃できない。俺たちは、壁に止まった蝿と同じだよ」
「糞っ!」と冬吉が毒づいた。
「あのさあ」と、辰蔵が顔を出す。
「何で、おいらに助けを頼まないかなあ?」




