19話
砂面を船底が擦る。鈍い振動が床板を伝い、両足へと響いてくる。
砂の匂い、乾いた木の匂い、錆びついた鉄のような匂い。それらが入り混じり、鼻腔を通り抜けていった。
眼前にそびえ立つのは、巨大な壁。
左右へ果てしなく延びる石造りの城壁は、船の甲板からでも大きく見上げなければ、その頂を捉えることができない。
これほどのものを人類が造り上げたと聞かされても、にわかには信じ難い光景だった。
「でっか……」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。
まだ砂海の遠くから眺めていた頃には、壁の両端も目にすることができた。
しかし、こうして足元まで来てみれば、どこに終わりがあるのかなど、到底確かめようもない。
砂の海を隔てるように。
あるいは、その向こうにあるものを守るように。
果てしなく続く城壁が、僕たちの前に立ちはだかっていた。
「どうだ、驚いたか?」
隣では、リエリエッタが少しいたずらっぽく笑っていた。
よほど僕の顔が面白かったのだろうか。
その反応を見ていると、なんだか顔が熱くなってきた。
「あれがアヌトゥスを囲む城壁だ。ま、初めて見る奴は大体同じ反応をするよ。ほら」
そう言って、リエリエッタは少し離れたところを指差す。
その先にはザックスとマーム、それから何人かの冒険者たちがいた。
皆一様に口をぽかんと開け、驚きを隠せない様子で城壁を見上げている。
彼らは、このエーズ地方がある大陸とは別の大陸から、海を渡ってきたという話だった。
他所の国でも、これほどの建造物は珍しいのだろうか。
「ねぇ、やっぱりこれって珍しいの?」
ザックスとマームのもとへ歩み寄り、声を掛ける。
ナナシに気づいた二人は頷きながら、再び城壁へ目を向けた。
「ここまでのは、さすがにないな」
「うん。城塞都市ならいくつか知ってるけど……どうだろうね。これと同じくらい大きなものって、他にもあるのかな?」
「これって、本当に人が造ったのかな」
「いやぁ、そうなんだろうけどよ。信じられないよな」
そんな話をしていると、後ろからリエリエッタが割って入ってきた。
「これは正真正銘、人類の手で造り上げたものさ。私が保証しよう」
そう言って、得意げに胸を張る。
「それに、本当に面白いのは、この壁の向こうにある!」
その言葉に、胸の奥がほのかに高鳴った。
そうだ。
あの壁の向こうには、街がある。
数え切れないほどの人々が暮らし、僕の知らない営みが続いている。
想像することしかできなかった世界が、もうすぐ目の前に現れる。
「船長! 間もなく船着場です!」
「よし! 左舷を寄せろ! 荷降ろしの準備も始めてくれ!」
船員からの報告に、リエリエッタの表情が切り替わる。
「荷札と帳簿の照合を忘れんなよ! 勝手に荷を運び出すんじゃないぞ! 街へ入る連中も、各自準備を済ませておけ!」
矢継ぎ早に指示が飛ばされる。
こうしてヤクモ商会の会長として振る舞うリエリエッタは、普段とはまた違った凛々しさが前面に出ていた。
その指示に応える船員たちの声が、あちらこちらから上がる。
先ほどまで比較的静かだった甲板が、にわかに慌ただしくなっていった。
いよいよだ。
視線は、城壁の外側に広がる船着場へと向く。
何隻もの砂上船が停泊し、その間を人々が忙しなく行き交っている。
荷を満載した荷車。
それを引く人々。
怒鳴るように指示を飛ばす男がいるかと思えば、負けじと言い返す商人らしき声も聞こえてくる。
あちらこちらで荷が積まれ、あるいは降ろされ、休む間もなく人と物が動き続けていた。
まだ街の中にすら入っていないというのに、ここにはこれほど多くの人がいる。
「……すごい」
再び、そんな言葉が口から漏れた。
これまで砂ばかりだった世界が、今は人の営みで溢れ返っている。
ここが、アヌトゥス。
僕が初めて訪れる、砂の街だった。
◇ ◇ ◇
城壁を越えて、いざアヌトゥスへ。
……とは、いかなかった。
アヌトゥスへ入るには、どうやら衛兵の詰め所を経由しなければならないらしい。
しかも、街へ入ろうとする人は随分と多いようで、門の前には長蛇の列ができていた。
ヤクモ商会の面々も、例に漏れずその列へ並ぶことになった。
「各人、身分を証明できるものを用意しておいてくださーい!」
遥か前方から、呼び掛けるような声が聞こえてくる。
「身分の証明……?」
ふむ。
困った。
一体どういうものを用意すればいいのだろうか。
「ザックス、どんなもので証明するの?」
後ろに並んでいたザックスへ問い掛ける。
「ん? そりゃあ、俺らはこいつさ」
ザックスはそう言いながら、胸元から一枚のタグを引っ張り出した。
銅色をした小さな板。
その表面には、いくつかの文字が刻まれている。
名前と、それから……地名だろうか。
見慣れない文字列だった。
「それ、何?」
「組合の証明タグだよ。街へ入るときは、これ一枚で大抵なんとかなる!」
「へぇ、便利だね。どこで貰えるの?」
「そりゃあ組合だな。冒険者組合とか、商人組合、魔法士組合なんかで登録して作ってもらうんだよ」
「その組合って、この城壁の周りにあったりしないかな?」
「残念ながら、全部街の中だな」
「だよねー……」
身分証のないナナシにとって、一縷の望みもあえなく潰えた。
予想はしていたが、つまり今のナナシに打てる手はないということになる。
ここまで来て、身分証がないのでアヌトゥスには入れません、なんてことになれば笑い話にもならない。
そ、そうだ。
ボスなら、きっとなんとかしてくれるはず。
「ボ、ボス……?」
隣にいたリエリエッタは、ナナシの顔を見るなり、その考えを全て悟っているかのように微笑んだ。
「そんな顔をするな。大丈夫、私に任せておきな」
そう言って、宥めるようにナナシの頭へぽん、と手を乗せる。
しばらくして、ゆっくりと進んでいた列は、ようやく最前列までやってきた。
「はい、じゃあ身分証を出して」
衛兵の声ははきはきとしていたが、どこか芝居めいた調子にも聞こえた。
それもそのはず、この衛兵は一日に何百人、下手をすれば何千人もの身分証を確認することになる。
それが何日、何節、何年と続くのであれば、精神的な負担も計り知れない。
こうして事務的な対応になるのも、ある意味では必然なのだろう。
しかし、そんなことより目下の問題は全く別にあった。
「あの……すみません。身分証、ありません」
「はい、じゃあ確認し……え?」
当然のように差し出されると思っていたものが出てこず、衛兵は言葉に詰まった。
エーズ地方の砂海は、死の土地だ。
五つの巨大な湖を中心に築かれた都市。その外側で、人が暮らし続けることは極めて難しい。
まして、赤子や幼い子供を連れて街から街へと移動するなど、無謀極まりない行為とされている。
他の大陸では珍しくない事情も、ここエーズ地方では同じようには通用しない。
故に、身分を証明できるものを一つも持たずに街へ入ろうとする者など、まずいない。
正規の身分証を使えば足がつく海賊でさえ、偽造した身分証をあらかじめ用意しているほどだ。
そのため、衛兵の反応も無理からぬことだった。
彼が身分証を持たない旅人への対応を求められたのは、これが初めてだったのだから。
衛兵の表情には、困惑と驚愕が入り混じっていた。
どうしたものかと考え込む彼を見かねて、リエリエッタが助け舟を出した。
「この子、記憶喪失なんだ。砂海のど真ん中で倒れていたところを、私らが助けた。そのときに身分証もなくしてしまったのかもしれない。何か、捜索願いや行方不明者の記録に載っていたりはしないか?」
その言葉に、衛兵ははっと我に返ると、慌てて手元の紙の束を捲り始めた。
「そうですね……黒髪に黒い瞳の少年……名前や年齢は?」
「その辺も含めて、自分のことを全部忘れちまってるんだ」
「なるほど……十歳前後でしょうか」
衛兵は話しながら書類に目を走らせる。
一枚捲り、また目を走らせる。
その動作を何度か繰り返した後、やがて手を止めた。
返ってくる言葉は、衛兵の表情を見れば明らかだった。
「……特徴が一致するものはありませんね。残念ですが、一つも」
「そうか……」
リエリエッタは少し残念そうな表情を浮かべたが、すぐに気持ちを切り替えたらしい。
「それなら、私がこの子の保証人になろう。これなら問題ないだろう?」
そう言いながら、胸元から一枚のタグを取り出して差し出した。
リエリエッタの髪のように白く輝く、小さな板。
その表面は、陽光を受けてきらりと光を返していた。
衛兵は差し出されたタグを見ると、再び驚いたように目を丸くする。
「それは……失礼します」
タグを受け取り、そこに刻まれた文字をまじまじと見つめた。
リエリエッタの顔とタグを、何度か交互に見比べる。
そして。
「……分かりました。これなら問題ありません。どうぞ、お通りください」
「ああ、ありがとう。それから商会の分の書類も渡しておく。こっちも頼んだよ」
「はい、承知しました」
リエリエッタは紙の束を衛兵へ渡す。
それを受け取った衛兵は書類に目を通すと、手で合図するようにして僕たちを門の方へ促した。
どうやら、本当に入ってもいいらしい。
ほっと胸を撫で下ろす。
それにしても。
さっきザックスが持っていたタグと、形はよく似ている。
でも、色が違う。
ザックスのものは銅色だったのに、リエリエッタのものは白く輝いていた。
あれは一体、何なのだろう。
「ボス、それ、どこの証明タグなの?」
「ん? これはだな……」
求められた答えは、至って単純なものだったはずだ。
にもかかわらず、リエリエッタは視線を上へ向け、少し考えてから口を開いた。
「私が私である。その証明かな」
「なにそれ。意味分かんない」
「分かる奴が分かればいいんだよ」
リエリエッタは時折、適当なことを言って誤魔化す癖があるように思う。
でも、これはなんだろう。
適当なことを言っているようで、どこか真剣だった。
そんな気がした。
◇ ◇ ◇
城門を潜る。
分厚い城壁を貫く通路は、思っていた以上に長かった。
薄暗く、ひんやりとした石造りの壁に囲まれたその先から、眩しい陽光が差し込んでいる。
一歩、また一歩と進むにつれ、向こう側から聞こえてくる人々の声が大きくなっていく。
そして。
ようやく、城壁を抜けた。
その先の世界は、広かった。
煉瓦造りの建物が、互いに肩を寄せ合うように所狭しと立ち並んでいる。
建物の高さはまちまちで、二階建ての隣に三階建て、その向こうにはさらに背の高い建物が覗く。
赤褐色や黄土色の煉瓦が重なり、不揃いな屋根の輪郭が、奥へ奥へと続いていた。
そして、その足元。
通りには、これでもかというほどの屋台がひしめいている。
色とりどりの天幕。
軒先に吊るされた品々。
あちらこちらで揺れる鮮やかな布。
まるで子どもがキャンバスへ向かって、好き勝手に絵の具を振り散らしたかのようだった。
「おぉ……」
行き交う人々の数は、城壁の外とは比べものにならない。
足早に右へ左へと流れていく人の波。
一度呑み込まれてしまえば、無事に抜け出すのも一苦労ではないだろうか。
「ここは門の前だからな。ほかの区画より人が多いかもしれないが、中央区はもっと栄えてるぞ」
目の前の光景に圧倒されるナナシを見て、リエリエッタはさらに期待を煽るように笑った。
ここよりも、まだ賑やかな場所があるのか。
まだ見ぬ光景に胸が高鳴る。
好奇心に突き動かされるように、視線があちらこちらへと散っていく。
何もかもが珍しい。
見るもの全てが気になる。
そして、その中でもひときわ目を引く、一頭の生き物を見つけた。
荷車を引いている、ダチョウのような生き物。
全身を羽毛で覆われているが、鳥というにはあまりにも筋肉質な身体つきをしていた。
太く逞しい脚。
知性を感じさせる瞳に、鋭い嘴。
そして頭頂には、雄々しくそり立つ鶏冠。
それらが合わさって、どこか凛々しい印象を与えている。
嘴の付け根には手綱が繋がれ、背中には鞍が据えられていた。
今は誰も乗っていないが、きっと騎乗することもできるのだろう。
もっとも、今はその逞しい身体を生かして、荷を満載した車を力強く引いている。
「ボス、ボス! あれは何?」
興奮気味にナナシが指差した先へ、リエリエッタも視線を向ける。
そして、その反応にも納得したように頷いた。
「あぁ、あれは地竜だよ。走る速さは馬に劣るが、いざってときには魔物と戦うこともできるのさ」
竜。
竜だ。
翼もなければ、火を吹くこともできなさそうだが、竜なのだ。
先ほどまでは鳥にしか見えなかったのに、そう言われてみると、なんだか竜にも見えてくる。
不思議なものだ。
目を輝かせるナナシを、リエリエッタは可笑しそうに笑いながら眺めていた。




