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大地の詩(うた)

作者: 山本司
掲載日:2026/05/26

 ・・・詩がきこえる。

 唯瑠ゆいるは、やわらかな干し草から、ゆっくりとおきあがった。

 耳をすます。

 たしかにきこえる。小屋の外から。

 ──高くすきとおった、女の子の歌声。

 窓にかけよる。古びたすだれのはしから、外をのぞきみた。

 昼間なら、見慣れた広場がみえるはずだ。けれど、いまは夜。月も群雲にかくされ、唯

瑠の視界は漆黒に染められた。

 歌はまだきこえている。広場の闇のなかから。

 ひかれるように小屋をでる。

 目が闇に慣れ、広場の地面がうっすらとみえてくる。素足にかんじる、かわいた土の感触。

 唯瑠は、じっと目と耳をこらした。

 人の姿はみえない。

 しかし、歌い手はすぐ近くにいるようだ。歌詞がはっきりと耳にふれ──唯瑠は詩の内容をさとった。

 ──戦で傷つき、死にゆく王が、つき従う妃にあたえた、別離の詩。

 有名すぎる詩だ。唯瑠も、何度もきいたことがある。

 けれど。

 唯瑠はその場にたちつくしていた。

 詩を詠ずる少女の歌声──その音色の豊かさは、唯瑠がはじめて耳にするものだった。

 旋律をあやつる、たおやかなその響き。かぎりなく澄みきった、透明な調べ。

 奇跡のような、歌い手だった。

 動けなかった。

 指一本でも動かしたなら、この声はきえてしまうかもしれない──そんな気がして。

 と、不意に天空から、淡い光が訪れた。雲間から、月光がさしたのだ。その幻のような光条が、広場をそっとてらしだす。

 浮かびあがった人影は、意外にも二つあった。

 一人は、少女。長い黒髪が、唯瑠の目をとらえた。その唇から紡がれる、清廉な歌声。

 彼女こそ、くだんの歌い手だった。胸の前で 両の手をにぎり、一心に歌いつづけている。

 そして少女のすぐ横に一人の少年がいた。

 少年は、舞を踊っていた。少女の歌にあわせて。

 長く伸びた足が、強く地を蹴りつける。少年の体は、重力を忘れたように宙へと舞いあ

がる。その腕が優美な弧を描くと、長い服の袖が一陣の風を生んだ。

 はげしく、情熱的な舞い手だった。まるで、舞踏の神が降臨したかのように。

 少女の歌と、少年の舞。

 二つの才は、たがいに調和し、また競いあい、鮮烈な光をはなっている。

 唯瑠は時間も忘れて、その芸にみいった。

 やがて、少女の声が、ひときわ強く、そしてせつなく、あたりの空気をふるわせた。

 静寂が広場をつつみこむ。歌が終わったのだ。

 少年も、ぴたりと舞をやめ、ゆっくりと地に伏した。舞の、最後の形だった。

 唯瑠はなかば放心し、拍手することもできずにいた。

 そんな唯瑠に、少女の方が気づく。

「だあれ? そこにいるのは」

 少年も顔をあげた。唯瑠と目があう。

「あれ? なんだ人がいたのか」  

 少年はたちあがり、こちらに歩きだした。

 少女が、あとにつづく。

距離がちぢまり、二人の容姿がはっきりしてきた。

年は十ぐらい。唯瑠と同年代だ。ともに、整った顔だちをしている。

「あの、だまってみてて、ごめん。その、みとれてしまって」

唯瑠はあわてていった。

「おれたちこそ。こんな大きな広場にでたからさ。つい、踊りたくなっちまったんだ」

少年は、にっこりわらった。

「ごめんなさい。わたしの歌で、おこしちゃったのね」

少女がかるく頭をさげる。

「ううん、いいんだ」

唯瑠は本当にそう思っていた。おかげで、二人のすばらしい芸に出会えたのだから。

「さわがせついでに悪いんだけど、ちょっと道をきいていいか」

「なんだい?」

「このあたりに、栄仙って人の、修芸館はないか? さがしてるんだ」

唯瑠は、思わずほおをゆるめた。

「ああ。それならここだよ」

少年と少女がきょとんと顔をみあわせる。

「なぁんだ、もう、ついてたのか」

「よかった。くらくなっちゃったし、みつからなかったらどうしようかと……」

「きみたち、入門しにきたの?」

 二人は強くうなずいた。

「ああ。おれの夢は、都の大伎芸大会で優勝することなんだ」

 少年が決意を口にする。

「ここの広場が練習場なんだ。ほら、むこうにみえるのが、栄仙先生のお館」

唯瑠が指さす先には高い壁の建物がある。

「先生はいま、都に行っていて、お留守なんだ。館もしまってるし、明日、あかるくなってからきてみなよ」

「そうか・・・。でもなー」

 少年は、秀麗な眉を難しそうによせた。

「どうしたの?」

「宿に泊まる金がないんだ。前にいた村から、ここにくるまでにつかっちまった。おれは野宿でもいいんだけど、こいつが・・・」

 少年は、いたわりの目で少女をみた。唯瑠も少女をみつめる。かわいい。けれど、とても華奢だ。夜風のつめたさは、彼女にはすこしつらすぎる。

「僕の小屋にきなよ。先生が、見習弟子の僕にたててくれたんだ。せまいけど、干し草がきもちいいよ」

唯瑠はさそった。

「いいのか」

「僕も詩作を学ぶために、入門させてもらったばかりなんだ。仲間ができてうれしいよ」

 唯瑠は、そっと右手をさしだした。

 その上に、少年と少女の手が重ねられる。

「おれ、桂覇けいは。よろしくな」

「わたし、恋華れんか

 二人の名が、唯瑠の心に刻まれる。

 桂覇、恋華。僕の、あたらしい仲間。

 唯瑠も、二人に名を告げた。

「僕の名は、唯瑠」


「いたい、いたい、いたい!」

「がまんしろよ、唯瑠。しっかし、おまえ、ほんとに体かたいなぁ」

「でも桂覇。ちょっと力いれすぎだと思う」

「いいんだよ、恋華。自分も舞の稽古をしたいって言いだしたのは、こいつなんだから」

 そよぐ風が心地よい、四月の昼さがり。

 栄仙修芸館の広場に、三人の子供がいた。

 少年二人に、少女一人。

 地面に腰をおろした、やさしい顔だちの少年の背を、やや鋭い印象の少年がおしている。柔軟体操をしているのだ。

 二人のかたわらには、春の花を思わせる容姿の少女がよりそう。

 あたたかな日ざしのもと、彼らのまわりだけが、ひときわまばゆく感じられる。

 そして、広場に面した館の窓から、痩身の青年が、三人を見守っていた。

 歳は三十路にかかるころあいだろうか。ただ窓辺にたたずんでいるだけだが、そのものごしにはやんごとなき気品がただよう。

「これはこれは帝。わざわざお越しくださるとは」

 青年のいる部屋に、この館の主人が入ってくる。見事な白髪の、老輩といえる人物だ。

「今日はおしのびでまいったのです。ここでは、師と弟子の関係でいましょう」

 帝と呼ばれた青年は、冬の木もれ日のようなやわらかい微笑をみせた。

「彼らが、あたらしくとられた弟子ですか」

 窓の外を、青年はしめした。

「ええ」

「いかがです?」

「まだみがきはじめたばかりですが──なかなか、よい輝きを秘めておるようです」

「ほう。めったにほめ言葉をつかわれぬ老が、そこまで言われるとは」

 あらためて、青年は窓の外をみた。

「あの子らに、家族は?」

「おりませぬ。一人は、赤子の頃、わが屋敷の前に捨てられておりました。あとの二人はともに両親に死に別れ、ここを尋ねて参りました。親の一人が、私の弟子だったのです」

「不憫な・・・」

「しかし、かえってよいのかもしれませぬ。家族がいない方が、帰る場所がない方が、修業にうちこめましょう」

「そう、ですね」

 自嘲めいた笑みを青年は浮かべた。自分には、帰る場所、いや、帰らなければならない場所があったのだ。

「彼らには、芸しかない・・・」

「ええ。それだけに必死です。一人など、今から都の大伎芸大会で首席をねらっている」

「それは豪気な。しかし、老の弟子とはいえ甘い評価はいたしませぬぞ」

「もちろんです」

「まあ、私の一存だけで決まるわけではありませぬが。・・・ぐっ!」

 青年は急にせきこんだ。苦しそうに上体を折り、口もとをおさえる。

「帝!」

 青年の指の間から赤い液体があふれでる。

 青年は取り乱すこともなく、手巾で口もとをぬぐった。

 ひとつ、荒い息をつく。

「・・・胸をすこしやられているのです。残念だが、彼らの晴れの舞台に立ち会うのは、私の息子かもしれない」

「帝・・・」

まつりごとと舞芸。私には、いささか荷が重すぎた」

 深く息をはく。

「しかし、後悔はしておりませぬ。おさなき日、都を抜けだし、ここの門をたたいたことを。だから帝位についてからも、老を都に呼び、教えをこうたのです」

 青年の表情は澄んでいた。不吉なほどに。

「だが、私は結局、まことの芸を掴めなかった」

 青年は、いま一度、窓の外を見た。その視線は遠い。

「彼らがうらやましい。まだ、こたえのでていない彼らが」

 もう、老もなにも言えず、二人はただ、広場の三人を見守りつづけた。



──そして、きびしい修練の四季が、五度めぐる──



「つかれたぁ!」

 唯瑠の視線の先で、一人の少年が草の上にねころがる。

「ごくろうさま桂覇。はい」

 少年の横に、一人の少女がひざまずく。その手には、水を満たしたひしゃくがある。

「すまない、恋華」

 桂覇は一息にひしゃくの水をのみほした。

「ふう」

 生きかえった、という表情で恋華をみる。

「唯瑠ものむ?」

 恋華がおだやかにきいてくる。

「ああ」

 唯瑠はうなずいた。

「ちょっとまっていて」

 井戸に駆けてゆく恋華。

 ──こうして三人、稽古のあと、つかの間の休息をとる。

 何度、繰りかえされた光景だろう?

 けれど、それはすこしだけ、昨日とはちがう情景なのだ。

 昔は、稽古のあと、三人とも口もきけないほどに疲れはてていた。しかし、いまでは心地よい疲労感につつまれて、額の汗をぬぐうことができる。

 それだけ、強くなれたのだ。

 あの夜の出会いから、もう、五星霜──。

 桂覇の肩幅は、ぐっと広くなった。よく日に灼けた端正な顔だちにも、歳にみあった精悍さがみえる。かつては敏捷さが彼の舞の一番の特色だったけれど、最近ではそれに力強さがくわわった。

 そして、なにより──。

「はい、おまたせ」

 さしだされる水のむこうに、唯瑠は恋華をみつめた。

 しなやかに流れる黒髪。白磁のようななめらかな肌。深い光をたたえた、漆黒の瞳。昔日の幼さがきえ、呼吸も忘れたくなるような美しさの少女が、少年の前にいる。

 その姿はまさしく一篇の詩だった。美しすぎて、その詩を完全には作りえない自分が口おしい。

「いよいよ十日後か」

 口もとにあふれた水を手の甲でぬぐい、桂覇がつぶやく。

 その言葉が、唯瑠の意識を忘我の縁からひきもどす。

「そうね」

 恋華の澄んだ声。

 唯瑠もうなずいた。

 十日後。それは三人にとって、未来が決まる特別な日だ。

 数年に一度、都で開かれる伎芸の大会。

 全土から芸の道を志す者が数多集い、その才を競いあう。

 種目は多岐にわたるが、唯瑠たちがめざしているのは「歌舞かぶ」の部だった。

 唯瑠が作った詩を、恋華が歌い、桂覇が舞う。

 数ある出場者のなかで、栄誉はただ一組だけに贈られる。そして、その優勝者には、莫大な賞金と興行のうしろだてがつき、都や大きな街での公演がゆるされるのだ。

 小さな街や村での興行なら、誰にでもできる。けれど、名も金もない状態では、都の大広場で思う存分、才を発揮することなど、かなうはずもない。

 伎芸大会で首席をとること。

 それだけが、この世界で大きな成功をつかむ、唯一の術なのだ。

「よっ」

 桂覇が、両手をばねにしてはねおきる。

「勝ってやるさ。おれはかならず己の才で、富と名を手にしてみせる!」

 覇気にあふれたそのまなざし。その決意の強さは、唯瑠とはじめて出会ったあの夜と、すこしも変わっていないようだ。

「僕は・・・ただ、一人でもおおくの人に僕の詩をしってもらえれば、それでいいよ」

「わたしも」

 唯瑠と恋華が応じる。

「甘い、甘すぎる」

 桂覇がきびしく断じる。

「この国に、おれたちみたいなやつらが何人いると思う? そこから抜きんでるためには、強く高みを望むべきだ」

「そうかな」

「そうさ。都には、芸人をくいものにするあくどいやからもいるときくし。特に恋華、おまえなんか簡単にえじきにされてしまうぞ」

 恋華の瞳に軽いおびえがうかぶ。

 その様子をみてとると、桂覇は恋華を強くだきよせた。

「おれがかならずまもってやるけどな」

 恋華の腰をだき、くちびるがふれあうほどの距離でささやく。

 唯瑠の胸が、ちくりと痛んだ。

 桂覇の強引な態度。しかし、自分が女だったなら、やはり心うごかされるだろう、情熱の発露だった。

 自分もこうできれば──。唯瑠はかすかにそう思う。同時にわかってもいる。自分には絶対にまねのできないことだと。

「もう、桂覇ったら」

 恋華は笑いながら桂覇の腕をふりほどく。

 そんな二人から、唯瑠は目をそむけた。

「食事にしましょう。すぐ支度をするから」

 恋華が炊事場にむかう。

「てつだうよ」

 唯瑠がいま、恋華に告げられるのは、そんなたあいない申し出だけだ。

「唯瑠、おれはもうすこしだけ舞っていく。できたらよんでくれ」

「わかった」

 恋華の背を追いながら、唯瑠は一度だけ、桂覇をふりかえった。

 夕日をうけ、堂々と舞うその姿は、雄々しくも美しい。あの夜の舞踏の神は、いまもこの少年の中にいる。

 そして、前をみれば、類まれな歌姫が。

 五年前のあの夜。自分の人生は大きくうごいた。そう、唯瑠は感じている。もう、桂覇と恋華のいない日々など考えられない。

 このままの季節が続けばいい。そうも思う。

 けれど。

 時は過ぎる。自分たちは、いつまでも幼い子供ではない。

 なにかがかわっていく予感が、唯瑠にはある。しかし、それがいいことなのか悪いことなのか、彼にはわからなかった。


 十日後、唯瑠たちは都にいた。

「すごい人の数だ。これが都──」

 桂覇の感嘆はもっともだ。都の南北を貫く大道をはじめ、すべての辻々に人があふれている。大会のせいもあるのだろうが、国中の人間がこの都に集ったようなありさまだ。

 伎芸大会は数日間行われ、最終日の本選の前に、まず予選がある。

 唯瑠たちは二日目の予選に出場した。

 国内最大を誇る帝都の大広場ではなく、都の郊外にある中規模の広場が会場だったこともあり、唯瑠たちは、さして緊張することもなく、予選を突破することができた。

 三人が喜びあいながら会場をあとにしようとすると、一人の少年が駆けよってきた。

 年は十ぐらい。その身なりはかなり上流の装いだ。全力で走ってきたのか、息が早い。

「僕たちに、なにか?」

 唯瑠がたずねる。

「あの、今日の出場者の中で、あなたたちの芸が、一番すごかった。それをいいたくて」

 少年の頬が紅潮している。

 唯瑠たちは顔を見あわせた。

 三人の表情に、共通の喜びがはじける。

 いままでも、地元の町で、さまざまな人から声援を受けてきた。

 しかし、いかにも都の住人、という印象の少年にほめられたことで、自分たちがこの都に認められたような自信を感じていた。

「わざわざありがとう。君の名前は?」

紫苑しおんといいます」

「よかったら、本選も見に来てくださいね」

 恋華が言うと、紫苑は強くうなずいた。

「はい、必ず!」


 そして、本選前夜。唯瑠たちは場末の安宿に居をさだめていた。

 せまい寝台の上で、唯瑠は何度もねがえりをうっていた。隣の寝台では、桂覇が豪快ないびきをたてている。

 胸がざわめき、眠れない。

 小さな頃から何度もあったことだけれど、今夜の気持ちは特別だった。

 いよいよ明日が運命の日。

 物心ついてから、詩芸にすべてをかけてきた。詩以外に、頼れるものなどなにもない。

 いわば、自分の半身ともいうべきものを、明日、世に問うのだ。

 胸の中に、おさえがたい高揚と不安が、同時にわきあがってくる。

 たまらず、唯瑠は寝台からぬけだした。

 宿の裏庭にでる。

 おちつかない心をかかえ、薄汚れた長椅子に腰をおろす。

 不安でたまらなかった。自分には詩しかない。その思いが唯瑠にはある。

 ──まだ言葉も話せないころ、師の館の前に捨てられていた自分。師、栄仙は歌や舞を

教えてくれたが、唯瑠の成長はおそかった。

 『いずれは修芸館を出すことになろう』 

 そんな師のつぶやきを立ち聞きした晩、唯瑠は一人、夜具の中で泣いた。

 ほおをぬらしながら、唯瑠は歌った。習った詩を、次から次へと。いやだった。そして、こわかった。また、捨てられることが。

 気持ちが高ぶり、歌は次第に支離滅裂なものになっていった。自分の感情がまざり、詩の内容が変わっていく。自分の言葉が、おりこめられていく。

 いつしか、それは一篇の詩になっていた。

 唯瑠が作った、はじめての詩に。

 ──ふと気づくと、枕もとに栄仙がいた。

 真っ赤な目をした唯瑠に、師は告げた。

「おまえには、詩作の才があるやもしれん」

 それは名を与えられた以上の、唯瑠には忘れられない一語だった。

(あの言葉があったから、いま、自分はここにいるのだ)

 詩があったから、自分は生きてこられた。

裏を返せば、詩をなくしたら、自分にはなにも残らない。

 だから、明日のことが気にかかる。

 じっと座っていると、夜風がほてる体をひやすように吹きすぎてゆく。

「唯瑠」

 不意にかけられた声に唯瑠はふりむいた。

 宿の裏口から、長い黒髪の少女が顔をのぞかせている。

「恋華」

 少女がこちらに歩いてくる。月光が、その細い体をてらしだす。今この瞬間、月の光は彼女を映すためだけにあると思えるほど、その姿は美しい。

「となり、すわってもいい?」

「ああ」

 しばらく、二人は無言でいた。

 唯瑠の鼻孔を、かすかに甘い香りがくすぐる。これは、庭に咲く名もなき花のものだろうか。それとも、いまここにある恋という華の、せつなさをふくんだ芳香なのだろうか。

 恋華がすぐ手のとどく距離にいる現実が、唯瑠は戸惑いを感じつつもうれしかった。彼女も眠れなかったのだ。自分と同じように。

「唯瑠」

「うん?」

「とても不安で・・・眠れないんだけれど、私、大丈夫だと思う。唯瑠の書いてくれた詩、とても素敵だもの」

 君のために作ったからだよ。唯瑠は言葉をのみこんだ。

「ありがとう。でも、恋華たちがいなければ、僕の詩なんて」

「ちがうわ。唯瑠の詩がなかったら、私、歌えない。『言葉』は、大切よ」

 たしかに。伝えたい言葉、伝えられない言葉の、なんと多いことだろう。

「世の中では、詩人の評価はあまり高くないけれど・・・」

 残念そうに、恋華がいう。

「しかたないさ。詩は、舞や歌のように華やかではないから」

「でも、時をこえることができる」

 恋華が顔をよせてくる。すいこまれそうな深い瞳が、唯瑠を見つめる。

「・・・死んだ父さんが言ってたの。父さんも詩作をする人だった。私もいま、そう思う」

 恋華が続ける。

「舞や歌は、見た人、聞いた人にしか伝わらない。そのすばらしさを語り継ぐことはできても、それ自体を残すことはできない。けれど、詩はちがうわ」

 その強い言葉が、唯瑠の胸にしみわたる。

「そうだね」

 唯瑠は恋華の瞳を見つめかえした。

「いつか、きっと創るよ。時をこえる詩を」

 恋華はほほえんだ。

 唯瑠も、笑みをみせる。

「君は強いな。いつも励まされてばかりだ」

 本当に、この華奢な体のどこに、こんな強い意志が秘められているのだろう?

「あなたは優しい。優しすぎるぐらい・・・」

 その語尾は風にまぎれ、唯瑠には届かなかった。

「えっ?」

「なんでもない。もう、ねましょう」

 たちあがり、恋華は宿の中に消えていく。

 唯瑠はしばし、たたずんだ。


 衣ずれの音に桂覇は目覚めた。見ると、唯瑠が部屋を出ていくところだった。

(眠れないのか)

 思わず、桂覇は苦笑した。唯瑠を笑ったのではない。覚醒してしまった自分がおかしかったのだ。いつもなら、人の動く気配ぐらいでは起きないほど、熟睡できるのに。

「緊張してるのか、このおれが」

 薄闇の中、腕を頭のうしろでくみ、桂覇は一人、つぶやいた。

 常に自信という仮面をつけている彼にさえ、明日は重い一日なのだろうか。

 失敗を、おそれてなどいない。

 人一倍の努力をしてきたし、才に恵まれているという自負もある。

 それでも不安が消えないのは、この伎芸大会で勝とうと決めた動機が、暗く悲しいものだからだ。

 桂覇の意識は、深く過去へとさかのぼる。

 ──桂覇と恋華の両親は、旅の芸一座の一員だった。総勢で三十名余り。小さな、そして名もなき一団だった。一つの町では食えず、国中を巡業しなければならないような。

 桂覇と恋華は同じ年に一座に生まれ、一座の中で育った。

 桂覇の両親は二人とも舞い手で、息子に一から舞を仕込んだ。

 恋華の父は詩作者で、一座の長だった。母は歌姫だった。自分によく似た娘が言葉をつむぎだすと、なによりもまず、歌を教えた。

 貧しいけれども、笑顔の絶えない毎日だった。──あの日までは。

 その日、一行は、辺境の村から村へ渡る旅の途中だった。

 けわしい山の峠道をすすんでいたとき──『奴ら』は現れた。

 一行の荷を狙う、野盗の一団だった。

 一座の男たちは女子供を逃がしつつ抵抗したが、相手は経験を積んだ戦いの熟練者。たちまち数がうちへらされていく。

 先に逃げた母と、恋華ら母子を追おうとした桂覇は、父たちの窮地にふみとどまった。

「父さん、俺も戦う!」

「いいから逃げろ! 逃げるんだ!」

 賊の剣を剣舞用の刀で受け、父は叫んだ。

「でも!」

 桂覇は動けない。

 そんな彼に、父は言った。

「行け! そして、芸に生きろ!」

 そして、恋華の父は言った。

「恋華を頼む!」

 二人の言葉に背をおされ、桂覇は走りだす。脳裏に、戦う二人の父の、姿と言葉を焼きつけながら。

 恋華たちに追いつき、山中の逃避行がはじまった。

 しかし、女子供の足ではとても逃げきれない、と悟ると、母たちは疲れた子らを励まし、自分たちはその場にとどまった。

「ここからは二人で逃げなさい。私たちはここに残ります」

 強い意思をこめて、桂覇の母が告げる。

「母さん!」

「あなたたちだけなら、逃げのびれます」

 恋華の母も言う。

「いや! お母さんと別れるなんて!」

 恋華の悲痛な声にも、母たちの決意はゆるがない。

「桂覇君、恋華をお願いね」

 桂覇は、うなずくしかなかった。

 父と母たちは、自分に託したのだ。

 芸と、恋華とを。

 ──芸に生き、恋華を守る。

 いまこの瞬間から、それが桂覇のすべてになった。

 嫌がる恋華の手を引き、桂覇は駆けた。自分の涙を、懸命にこらえながら。

 母たちの献身は報われた。賊は子供ではなく、彼女たちを追っていたのだ。

 体中、傷だらけになりながらも、桂覇と恋華は麓の村に無事たどりつくことができた。

 父と母をなくし、二人だけになってしまった自分たち。弱い子供の身にあるのは、両親がくれた芸だけだった。

 大道芸で日銭を稼ぎながら、桂覇たちは旅をはじめた。かつて恋華の母が師事した、栄仙という人の修芸館をめざして──。

 ──そして。

 桂覇はいま、ここにいる。

 勝たなければならなかった。もう二度と、あんな思いはしたくない。

 芸で成功できなかったために、貧しかったがゆえに、父たちは辺境で賊にあったのだ。

 大会に勝ち、都で成功すれば、あんな悲劇を繰り返すことはない。

 富と名を得る。どんなことをしても。

 恋華を、守るために。

「おれはやるよ。父さん、母さん」

 つぶやいた桂覇は、窓外から流れてきた声に、つらい追憶をうちきられた。

 たちあがり、窓辺にあゆむ。

 眼下の庭で唯瑠と恋華が肩を並べていた。

 守るべき人と、一番の親友。

 月光にてらされた二人を桂覇は見つめる。

「勝とうな、唯瑠。だが──」

 桂覇は、強く口もとをひきしめた。

「恋華はわたさない」

 低い声が、夜気をふるわせる。

 恋華が屋内にもどるのを見とどけると、桂覇は寝台にもどった。

 明日の戦いのために。


 空砲が、重なりあって天を撃つ。

 満員の大広場に、群衆の歓声が渦を巻く。

 帝都の大伎芸大会。

 今日はその本選である。

 「歌舞」の部、予選通過者は僅かに五組。

 出場者の演技は順当に進み、次が最後の組である、唯瑠たちの番だった。

 帝都の大広場は、舞台を中心に周囲がぐるりと観客席になっている。ひしめく観衆の数は万に近い。

「続いて、栄仙修芸館の三名!」

 司会の文官が叫ぶ。

 いよいよだ。

 実際に演技をする桂覇と恋華だけが、舞台にあがる。

 圧倒的な視線が、舞台一点に集中する。心の中まで見すかされそうな、強烈な圧迫感。

 恋華の体が、おさえようもなくふるえた。

 やはり、ここは特別なのだ。

 ひざに力が入らない。だめだ。のどが締めつけられる。

 それでも、恋華は歌わなければならなかった。

 自分が歌わなければ桂覇は舞を踊れない。

 意を決し、恋華は歌いはじめた。

 長い訓練の賜物で、その声量は豊かだったけれど、本来の美しさに欠けていた。旋律をあやつる技にも、いつもの冴えがない。

 桂覇は自分の実力を出しきっているが、恋華の異常に、舞にあせりがまじりだす。

 どうしよう、このままでは・・・。

 不安と焦燥が、恋華の心をまだらに染めあげる。

 少女の視線がさまよった。

 たくさんの観客。御簾のはられた貴賓席が視界をかすめる。帝が照覧されているのだ。

 恋華の視線はなおもさまよう。

 この混乱からの、救いをさがして。

 そして──。

 その少年を、少女は見つけた。

 彼女の正面、客席の最上段に立ち、桂覇と同じ舞を舞う少年がいる。

 唯瑠だった。

 舞台の恋華をはげますように、彼が舞ってくれている。力強く。そして、あたたかく。

「──!」

 恋華の心に、すずやかな風が吹いた。高鳴っていた胸が、穏やかにないでいく。

 いま、ここには唯瑠と桂覇しかいない。

 恋華は、そんな気持ちになっていた。

 ここは、いつもの広場。なつかしい、私たちの稽古場。

 いつもどおり、私の歌を歌えばいい。

 舞ってくれるのは、桂覇。

 そして、聞いてくれるのは──唯瑠。

 恋華の声が、のびやかに安定した。

 聞く人が聞けば、彼女がまるで生まれ変わったかのように感じる変わりようだった。

 今、恋華はただ唯瑠のために歌っている。

 けれど、そのまっすぐさは、かえって観衆の胸に直接響く強さになっていた。

 桂覇も、安心して自分の舞を舞う。

 そして、二人は演技を終えた。

 満場の拍手が、二人をつつみこむ。

 聴域をこえそうな大歓声。

 後半のできは、完璧だった。

 問題は、前半の迷いがどれだけ評価に影響するか、だ。

 でも、とりあえずやりおえた。

 自分にできる、せいいっぱいを。

 恋華は満足だった。

 客席後方の唯瑠をみる。

 遠すぎて、その表情はわからない。

 けれど、笑ってくれているように感じた。

 恋華たちは舞台を降りた。

 観衆にこたえながら、控えの間にもどる。

 ほどなく、唯瑠が走ってくる。

「よかったよ、二人とも」

「ありがとう、唯瑠」

 深い感謝の視線をむける恋華に、

「ぼくも、おどりたかったんだ」

優しくこたえる唯瑠。

「ゆこう。そろそろ審査が終わる」

 桂覇が言い、三人は控えの間を出、客席の中の出場者席についた。

 貴賓席の周囲では、あわただしく人が動いている。講評をまとめているのだ。

 人々は固唾をのんでその光景を見守った。

 そして、一人の文官が、書面を手に立ちあがる。

 会場が沈黙する。

「本年度、歌舞の部、優勝者を発表する!」

 胸が痛い。恋華は思った。心臓が激しく動き、まるで自分とは別の生き物のようだ。

 文官が、書面に視線を落とす。

孟亮もうりょう修芸館、蒼陽、円竜、緋令!」

 わきあがる歓声。

 恋華の視界が暗転した。

 負けた。

 私のせいだ、私の──。強い自責の念が、暗雲のようにわきおこる。

 すぐ横で、桂覇が肩をふるわせている。骨が白く浮かぶほど、拳をかたく握りしめて。

 唯瑠もうなだれ、じっと目を閉じている。

 くやしいとか、悲しいとか、そんな言葉では、到底思いをつくせない。なにもかもなくしてしまったような、はてしない虚脱感。

 今日までの日々が、すべて否定されたようで、本当にやるせなかった。まるで地面が溶けだしたかのように、足もとがあやうい。

 舞台では、優勝した三人が歓呼の声にこたえている。これ以上はない、喜びの表情で。

 そこにいるのは自分達のはずだったのに。

 しかし、現実は恋華たちをつめたくせめたてる。

 ──おまえたちは、負けたのだと。

「・・・帰ろう。おれたちの町へ」

 自失から一早くたちなおり、桂覇が言う。

 唯瑠がうなずき、恋華もうつむきに近い形で首をたてにふった。

 帰るしかなかった。

 もう、この都に自分たちの居場所はない。

 ひきずるような足どりで、三人はまだにぎやかな観客席を後にした。

 次の大会には、まだ幾年かある。──またこの舞台に立てるのは、いったいいつのことになるのだろうか。

 広場の外に出ると、どうしようもないさびしさが、恋華の胸にひろがった。

 歌いたかったのに。

 もっと、この都で。

 どうにも立ち去りがたく、三人はその場に立ちつくした。

「唯瑠さん、桂覇さん、恋華さん!」

 不意に、背後で声がした。三人が振りむくと、声の主がこちらに駆けてくる。

 先日予選の時に会った少年、紫苑だった。

「よかった、追いついて。・・・残念です。絶対に、あなたたちが勝つと思ったのに」

 紫苑の声が熱い。

「そう言ってくれてうれしいよ」

 唯瑠がこたえ、恋華も、すこし救われた気持ちになれた。

 自分たちは勝てなかった。けれど、こうして認めてくれる人に出会えたのだ。

「これから、どうなさるのですか?」

「自分たちの町にもどるさ」

 桂覇が告げる。

 紫苑は悲しげに眉をよせる。

「そんな。あなたたちには、都で演じるに足る実力があるのに」

 恋華たちもそう思いたかった。しかし、いまの自分たちには、都で興行する術がない。

「しかたないんだ。ここからは遠くなるが、よかったら見にきてくれ」

 桂覇が言うと紫苑は秀美な笑みを見せた。

「ええ、また拝見いたします。ただし都で」

 おかしなことを、彼はいう。

「ちょっとまってくれ。僕達は都には・・・」

 唯瑠の指摘に、紫苑は首を横にふる。

「いえ、みなさんは、都にとどまることになるでしょう。桂覇さん、実は、私も舞を学んでいるんです。家族からは反対されているのですが。ぜひ、稽古をつけてください!」

 紫苑は、楽しそうにまくしたてる。

 謎は深まるばかりだった。

「いったいなにが言いたいんだ、紫苑。おまえの言葉は、まったく要領をえない」

 桂覇がいらだたしげに聞く。

「すいません、もったいをつけて。──実は、あなたたちの芸に感服し、後援者になりたい、という人がいるのです」

「後援者?」

「ええ。かなり名門の貴族の方です」

 光明がみえた。

 有力なうしろだてがあれば、この都で興業をうてる。実戦で、声望を得られるのだ。

「会っていただけますか?」

 三人に否やはなかった。


 その男は、広場はずれの長椅子にこしかけて、三人を待っていた。

 体格はやや細く、怜悧な刃物を思わせる。

「よく来てくれた。私の名は斉綺さいき

 歳は三十前後か。切れ長の目もとがすずしい、端正な顔だちだ。

「こんな結果になったのは、残念でならぬ。審査官は、本当の芸を解さぬとしか思えぬ」

 斉綺は、桂覇に視線をむける。

「桂覇殿の舞。勇壮にして華麗。大胆にして繊細。私が知る者の中でも五指に入る才だ」

「光栄です」

 しかとみつめられたうえでの熱い言葉に、桂覇は顔を紅潮させた。

 続いて斉綺は恋華をみる。

「恋華嬢の歌も。前半、ややかたさがみられたが、後半の声の美しさ、卓絶した技巧は、奇跡をみる思いだった」

 斉綺の声に、力がこもる。

「ありがとうございます」

 斉綺の賞賛に、恋華は深く頭をさげる。

「さて、すでに紫苑殿から聞いたことと思うが、私はぜひそなたらを庇護したい。どうだろうか。私の申し出を受けてくれるか?」

「願ってもないこと。お願い申しあげます」

 桂覇は即答した。この好機を、逃してはならない。

 唯瑠と恋華も、強くうなずく。

「そうか。では、早速だが、わが屋敷へまいられよ。今後のことを語ろう」

「斉綺殿、契約を急ぎたいお気持ちはわかりますが、しばし唯瑠さんたちをお貸し願えませんか。私からの気持ちとして、祝いの席をもうけてあるのです」

 紫苑が横から申し出る。斉綺は鷹揚にうなずいた。

「いいでしょう。彼らを見いだしたのは、あなたですから。場所はいつもの酒楼ですか」

「はい」

「ならばこうしよう。せっかくの宴だ、存分に楽しまれよ。その後、いずれか一名、代表としてわが屋敷へ。酒楼に迎えをやるゆえ」

「では、私が」

 唯瑠を制して、桂覇は前に出た。

 普通、歌舞で組をなしたとき、代表格になるのは詩人だ。

 しかし、今日は契約の話。一番問題になるのは興行収益の配分についてで、その交渉は商いの駆け引きに近い。そういった仕事は、自分の方が得意のように思えた。

 桂覇の意図を察し唯瑠は言った。

「たのむ、桂覇」

 恋華もおだやかな信頼の表情で、桂覇を支持してくれた。

「それでは桂覇殿。のちほどな」

 話は決まった。


 酒楼で、三人は大いに食べ、飲んだ。

 紫苑のなじみのその店は、味も品もよく、今日の演技で消耗した活力を、十分に回復させてくれるものだった。

 唯瑠は隣にすわった紫苑に問われるまま、三人のなれそめや修練のことを語った。

 その合間に、桂覇と恋華が紫苑に都のことをたずねる。年齢のわりに、こたえはしっかりとしており、紫苑がかなり質の高い教育をうけていることをうかがわせた。

 宴たけなわ、紫苑がいう。

「桂覇さん、さきほど申しあげたとおり、私に稽古をつけていただけませんか」

「おれもまだ、一人前になったわけじゃないが、おまえのおかげで斉綺殿に会えたしな。その礼として、ひきうけよう」

「ありがとうございます!」

 思いがけないほど早くに弟子を得て桂覇は気をよくしたようだ。杯を一息にのみほす。

「しかし、どうもおまえは、かなり上流の出のようだが、なぜまた舞を?」

 桂覇がたずねると、

「たしかに、私には家があり、その生業もあります。そのための勉強もしています。

 しかし、舞を舞うときが、私は一番たのしい。生きている、という気がするのです」

紫苑は熱く語り、瞳を輝かせた。唯瑠は思った。ああ、僕たちと同じ目をしている、と。

 ──芸にみせられた目だ、と。


 数刻後。

 夜のとばりのおりた都の大路を、桂覇は案内の者に従い、斉綺の屋敷にたどりついた。

 思っていた以上に広大な邸宅だった。貴種に詳しくはないが、かなりの名門とみえる。

 一見して高価そうだが華美すぎない調度の一室に、桂覇はとおされた。

 音もたてぬ優美な所作で、斉綺が現れる。

「宴のさなか、すまぬな」

「いえ、こちらこそお待たせしました」

 頭をさげる桂覇に、斉綺は椅子をすすめ、二人はむかいあって腰をおろした。

「さて。そなたらの興業、私の目に狂いがなければ、かなりの盛況となろう」

 やはり金の話か。しかし、単刀直入な。

「ご期待にこたえましょう」

 桂覇は強気に応じた。

「小気味よいな。が、私は金には興味がない。配分は、私が一、そちらが九でどうだ」

 都合がよすぎた。桂覇の胸に不安がひろがる。

「ただし、条件がある」

 やはりな。桂覇は、みがまえた。

「・・・うかがいましょう」

 そして、斉綺がささやいた言葉は、桂覇の理解をこえていた。

「恋華をだと!?」

 声が、怒りにはじける。

「そうだ。美しい花は手折られるが、摘み主はその美がはえるよう、心をくばる。私も、私の力のすべてをつくすことを誓おう」

 話にならない。桂覇は席をたちかけた。

「断るか。──そなた、あの歌姫を好いているのだな」

 殺意をもこめて、桂覇は斉綺をにらんだ。

 そのほおが、強い怒りと羞恥にほてる。

「わからいでか。そなたの舞の熱情、きりさくような熱いまなざしは、常にあの娘にむけられていた」

 返す言葉がない。

「しかたない、私も譲歩しよう」

 斉綺はたちあがり、桂覇の背後に回った。

「私はたおやかな少女が好きだ。が──」

 背中からの抱擁が、桂覇をとらえる。

「勇ましく、秀麗な少年も好きだよ」

 斉綺の細い指が、桂覇の頬をなでる。

「熱いな。これはあの娘への想いゆえか?」

 嫌悪に、体が震えた。しかし、桂覇は言葉をふりしぼる。

「──おれがうなずけば、恋華をあきらめてくれるか?」

「約束しよう。私は花を手折らぬと」

「絶対に?」

「くどい。もしたがえたなら、剣舞をもってわが命、奪うがいい」

 こたえは決まっていた。

 ──恋華を守る。

 桂覇はうなずき、かたく瞳を閉じた。


 夜半、宿にもどった桂覇を、唯瑠と恋華が出迎えた。

「おそかったね?」 

「・・・ああ、酒がすすんでな」

 そう答える足どりは、たしかにあやうい。

「どうだったの、桂覇?」

 桂覇は、笑みをみせて。

「大丈夫だ。話はついた。おれたちは、都で戦える」

 なにも心配はいらない。桂覇は心の中で告げた。すべては、おれが背負うから。

 ──恋華、おまえのために。



 この夜から七日の後、唯瑠たちの最初の興業が開かれた。

 そして、三人の活躍が始まる──。



 ──一瞬、時がとまった。

 その時の空白は、いま、静かに舞を終えた青年がつくりだしたもの。

 数瞬の間をおいて、大気がゆらぐような大歓声が、会場を支配する。

「桂覇! 桂覇! 桂覇!」

 拳を天につきあげ、誰もがその名を叫ぶ。

 青年──桂覇の舞は、すべての観客の心を魅了したのだ。

 桂覇は、自信に満ちた笑顔をみせた。

 あの大伎芸大会から、二年あまり。

 その間、桂覇たちの公演は、評判が評判を呼び、回を重ねるごとに規模を大きくしていった。

 今日などは、『歌』の恋華がいない、はじめての『舞』単独の公演だった。それでも会場は満員で、歓呼の声がなりやまない。

 深く一礼すると、桂覇は舞台をおりた。

 裏方たちでごったがえす楽屋では、長身の青年が一人、彼を出迎えた。

「きてくれていたのか」

 穏やかな物腰のその青年は、名を唯瑠といい、気鋭の詩人にして、桂覇の朋友だった。

「おつかれさま。すばらしかったよ」

 さしだされた手巾で桂覇は額の汗を拭う。

「恋華は?」

甘宗かんそう老公の宴に招かれた。ずっと袖にしていたから、ことわりきれずにね」

「じじいめ、孫の嫁にする腹づもりだな」

 桂覇は軽く舌打ちした。成功は彼らの欲するところだが、名が売れるにつれ、不本意なつきあいも多くなる。

「なんなら行ってみるかい」

「いいさ。あんなばか貴族になびく恋華でもあるまい。今日はつかれた。すこし休む」

 めずらしく、弱音をはく。それだけ、入神の演技だったのだ。

「僕も、これから栄仙先生のところにいってくるつもりだ。よかったら、夜にでも飲みにいかないか。きみの公演の成功を祝して」

 唯瑠が杯をかかげるしぐさをする。

 桂覇は無言でうなずいた。


 衣服を着替え、桂覇は休息のため、ひとまず家路についた。

 都の中心からややはずれたところに、桂覇の居宅はある。さして大きくはないが、調度に意がこらされており、まずふつうの生業の者ではまかなえない。

 この都で名をなした桂覇だからこそ、手にいれられたのだ。いまでは唯瑠と恋華も、それぞれおなじような住居をもっている。

 たそがれに紅く染まった石畳の路地を、桂覇はすすむ。

 ふと、路上にいる子供らが目にとまった。

 二人の男の子。よく見ると、たがいに舞を踊っているようだ。拙いが、真剣な表情で。

 と。

「うわ!」

 一人が、くるりと旋回したせつな、石に足をとられ、転んでしまう。

 力が入りすぎて、柔軟さに欠けたのだ。

 もう一人も舞をやめ、倒れた仲間の手を引き、助けおこす。

「なんだよ、なさけないな。そんなんじゃ、桂覇のようになれないぜ」

「うるさいな。つまずいただけだい」

 男の子の口にのぼった名に、桂覇は思わず苦笑した。

 子供の目標にされているとは、自分もえらくなったものだ。

 桂覇は、子供らにあゆみよった。

 転んだ男の子の頭に、ぽんと手をおく。

「熱心なのはいいが、けがをするなよ」

 いぶかしげに見あげた男の子は、そこに見知った顔をみつけ、目を大きくした。

「け、桂覇だ!」

「ほ、本物だ!」

「じゃあな」

 いこうとした桂覇に、

「待って、ね、どうしたら、桂覇みたいになれる?」

無邪気に聞いてくる。

 しばらく沈思した桂覇は、静かに告げた。

「強くなることだ。そして──」

「そして?」

「──守るべきものを、みつけることだ」

「守るべきもの?」

「わからないか? ──おれにはあった。おまえたちぐらいのときにはな」

 言いおいて、桂覇は立ち去った。


 家の戸をあけようとしたとき、不意に伸びてきた手が、桂覇の袖をにぎった。

「おかえり」

 かけられた声は、若い女のものだった。

「またおまえか」

 最近、なにかと桂覇につきまとう、瑶朋ようほうという名の踊り子だ。

「楽屋で聞いたらもう帰ったっていうから」

 余計なことを教えるやつがいるものだ。うとましげに瑤朋をみると、やけに胸元を強調した装いをしている。どんな方法で聞きだしたか、おおよそ見当がつく。

「おれにかまうな」

 家に入ろうとすると、瑤朋もついてくる。

「ね、今日こそいれてよ」

「だめだ」

 彼女に向きなおり、桂覇は言いはなつ。

「言っておくが、おれはおまえになんの興味もない」

 瑤朋は、客観的にみれば美しい。踊り子としての才にも秀で、その官能的な激しさは見る者をひきつける。

 しかし、そのすこし媚のはいった美しさを、桂覇は好まない。

 彼が魅せられるのは、凛とした美しさ、例えて言えば白い花だ。瑤朋は赤い花だった。

「つめたいね。でも、そこがいい」

 悪びれず瑤朋は言い、すっと身をひいた。

「今日は帰るよ。つかれてるみたいだし」

 でも、と踊り子は口もとにあでやかな笑みをうかべる。

「あたしはあきらめない」

 きっぱりと告げ、軽やかに去っていく。

 そのあざやかさは、すこしだけ桂覇の気にいった。


「最近、つきまとう女がいてこまる」

 すでに宵、唯瑠とおちあった酒場で、桂覇はつい愚痴た。

「ふーん」

 唯瑠は、目前の料理に夢中になっている。

「なんだ気のない返事だな。おまえだって、良家の深窓の娘たちから、恋文をもらってい

るだろう」

「あれは単にあこがれで書いているだけだ。それも、僕に対するものじゃない。『詩人』という肩書きに、さ」

「その謙虚さが女にはたまらないのかもな」

「桂覇のつれなさもね」

「ぬかせ」

 桂覇はぐい、と杯をのみほした。

 口もとをぬぐい、やや声をひそめる。

「ところで、栄仙老の具合はどうだった?」

「おもわしくない。お顔の色が、以前よりすぐれなかった」

「そうか」

 桂覇たちが都で名をなしてほどなく、三人の師である栄仙は病床に伏した。栄仙は修芸館をたたみ、良医の多い都に屋敷を移した。

 一番恩義のある唯瑠がひんぱんに見舞っているが、日に日に容態は悪化するばかりだ。

 ここ二年、自分たちはこの都で、多くのものを手に入れてきた。となれば、なくしていくものもまた、多くなるのだろうか。

 桂覇は考えに沈んだ。

 と。

「桂覇」

 唯瑠が肩をたたく。

「なんだ?」

 唯瑠は無言で、窓の外をさししめした。

 桂覇は外をながめやる。

 店の前の路上で、一人の老人が、複数の男にとりかこまれている。みすぼらしいなりをした、一目で物ごいとわかる老人だ。

 男たちは、官憲の類か。

 注視した桂覇は、その男たちの異様な風体に息をのんだ。

 みな、黒い面布に顔をつつみ、目だけをつめたくのぞかせている。

「仮面兵」

 桂覇はうなった。

 最近、皇帝が新設した兵種だ。噂だけで、見るのははじめてだが、国内の風紀取り締まりの任をおびているという。

 その、顔の見えない不気味さと、酷薄なまでの仕事ぶりが、人々を不安にさせている。

 老人は、仮面兵たちに追い立てられ、いずこかへと連れ去られていった。

「帝も、最近、やることがよくわからなくなってきた」

 思わず、桂覇はつぶやいた。

「いまのところ、芸事には好意的でいらっしゃるがな」

 唯瑠が応じる。

 歴代の皇帝たちは、こと伎芸に対して、立場が二つにわかれている。

 ──積極擁護か、弾圧か。

 前者は、伎芸は民の平安に役立つとし、後者は堕落をまねくと考えた。

 ここ何代かは、擁護派の帝が続いている。

「先帝の急死によって誕生された、若い帝らしいからな」

 心変わりもありうるか。桂覇の脳裏に、黒い仮面がよみがえる。

「いい時代は、長くは続かないな」

 唯瑠が、桂覇の杯に酒をそそぐ。

 そうかもしれない。桂覇は思う。

 ならば、そろそろ決着をつけるべきなのだろうか。

 ここにはいない、一人の女性のことを、桂覇は考えた。


 唯瑠と別れ、酒のせいですこし軽くなった気がする足で、桂覇は自宅にたどりついた。

 と、その門前に、誰かが立っている。

 瑤朋だろうか。

「おそかったな」

 かけられた声は、男性のものだった。

「なんだ、あんたか」

 桂覇が近づくと、男は身をかわして桂覇に入口をゆずった。

「話があってきた」

「ふん。まあ、あがれよ」

 扉をあけ、二人は中に入った。

 桂覇が、壁ぎわの燭台に火をともす。

 室内にやわらかい光がうまれ、来客の顔を照らしだした。

 男は、斉綺だった。

 切れ長の目、通った鼻、うすい唇。都人らしい洗練された容貌だが、やや頬がやせてみえるのは、明かりのせいだろうか。

「で、なんのようだ?」

 籐の椅子に腰をおろし、桂覇は問うた。

「桂覇、なぜ、私をさける」

 単刀直入に、斉綺は切りだした。

「最近、まったく私の屋敷によりつかぬではないか」

「さけてなどいないさ。ただ──」

 ゆっくりと足をくむ。

「おれたちは成功した。あんたの助けがいらないほどに」

 桂覇は不敵に笑う。

「いままでのようにはいかないだろう?」

 しばらく、斉綺は無言だった。

 重い口を開く。

「思えば、おまえはいつも私を受けいれてはいなかった。その瞳は、けっして私を見ぬ」

 斉綺の秀麗な顔が、苦悶にゆがんだ。

「そんな人間はおまえだけだ。性別をこえ、これほど私が心ひかれた者はいない」

 いきなり、斉綺は桂覇の足もとにひざまずいた。

「たのむ。おまえの想いを私に!」

 嘆願とともにさしのべられた手を、桂覇は強くはらいのけた。

「この身はけがれていても、きさまにふれさせる心はもたぬ!」

 つめたく言いはなつ。

 斉綺の表情に、絶望がひろがった。

「やはりおまえの心はあの女のものなのか」

 ゆらり、と立ちあがる。

「あの女さえいなければ・・・」

 斉綺が思わずつぶやいた言葉を、桂覇は聞き逃さなかった。

「害するというのか」

 たちのぼった桂覇の怒気に、斉綺は一瞬ひるんだが、すぐに狡猾な笑みを浮かべた。

「──おまえが、わが意をくまねば」

 桂覇は表情をかたくした。

「おれとの約束をたがえるのか?」

 一層の苦悶が斉綺を襲う。彼は頭をかかえた。

「そうなってもやむをえん! 狂いそうだ。たのむ、私をうけいれろ! 私にこんな脅しをいわせないでくれ!」

 ほとばしる叫びが、桂覇の耳を打つ。

 桂覇は静かにたちあがった。

 斉綺をみつめ、桂覇は告げた。

「──わかった」

 目を輝かせる斉綺に桂覇は両腕を広げる。

 ためらわず、斉綺は身をまかせる。

 桂覇は初めて自分から斉綺を抱きとめた。

 唇が、あやしく言葉をつむぐ。

「その口、永久にとざしてくれる」

 絶叫は、あがらなかった。

 斉綺の背に、短剣が深くつきたっている。

 桂覇は、身をはなした。

「桂、覇・・・」

 自分の名を呼び、くずれゆく斉綺を、桂覇はじっと見守った。

 胸に、強い痛みが走る。

 その痛みに、桂覇は耐えた。

 ──恋華を守るためなら、この身を汚すことも、人をあやめることも、いとわない。

 床に倒れた斉綺は、二度と動こうとはしなかった。

 しばしたたずんだ桂覇は、戸口に人の気配を感じ、ふりむいた。

 紫苑だった。

 静かな瞳で、彼は桂覇を見つめている。

 斉綺の変わり果てた姿にも、とりみだす様子はない。

 十二歳の子供とは思えないおちつきぶりだった。

「ご相談があって参ったのですが、斉綺殿とはいられるのをみて」

 外で、まっていたのか。

 ならば、犯行はみられている。

「おれをどうする?」

 桂覇は聞いた。

「別にどうも。これは、あなたと斉綺殿との問題。私は、部外の者」

 紫苑の返答に、桂覇はうすく笑った。

 籐椅子にこしかける。

「確かにな。で、相談とは何だ? この状況で入ってきたんだ。火急の用なのだろう?」

「ええ、決断をせまられています」

「舞芸のことか?」

 紫苑はうなずいた。

 出会ってからの、この二年間、桂覇は紫苑に舞の手ほどきをしてきた。その交流の中で知ったことだが、紫苑もかなりの貴種の跡とりらしかった。紫苑の舞について、一族の者は猛反対しているという。

「あなたの率直な意見をきかせてください。私は、すべてを捨てて舞に生きるべきでしょうか?」

 紫苑のまっすぐな視線が、桂覇を射る。

 桂覇は考えた。

 教え手からみて、紫苑の素質はいい。舞を続けるべきだとは思う。しかし、すべてを捨てて、となると、話は別だ。

 どこの誰なのか、はっきりと追求したことはないが、紫苑なら舞で成功しなくとも、十分に富裕な暮らしができるはずだ。

 そこが、桂覇とは決定的に違う。

 足もとの斉綺をみる。

 自分は才に恵まれているつもりだった。それでも、成功のきっかけのために、他人の力が必要だった。自分の身を売り、その果てに人をあやめることにもなった。

 あるいは、自分のやり方が間違っていたのかもしれない。しかし、身一つで成功するためには、綺麗ごとだけではすまないだろう。

 そんな世界に、紫苑のような人間が足を踏み入れても、よいものだろうか。

 桂覇の中で、答は「否」だった。

「ほかに、なさねばならないことがあるのなら──」

 桂覇がつぶやくと、紫苑は瞳を閉じた。桂覇の言葉を、かみしめている様子で。

「わかりました」

 紫苑は深々と頭をさげた。それは、舞の師としての桂覇への、別れの礼なのだろう。

 あげた顔には、あらたな自分の人生への覇気が、すでに生まれていた。

「斉綺殿の骸は、私の手の者で葬りましょう。あなたに嫌疑がかからぬように」

 その申し出に、桂覇は息をのんだ。

 師への恩返しが、罪の隠蔽とは。紫苑の一族は、それほどの力を持っているのか。

 そらおそろしくはあった。

 しかし、いま獄に捕らわれる気はない。

「頼む」

 罪悪感がないといえば嘘になる。

 しかし、斉綺は、約束をたがえたのだ。

「では、失礼いたします」

 紫苑は去り、ほどなく数人の男が来て、斉綺を連れていった。

 やっと一人になり、桂覇は燭台の明かりを吹き消した。

 窓辺に立ち、同じ都にいる女性を思う。

 ──すべては終わった。

 明日、恋華に告げよう。

 おれの想いを。


 朝、やわらかな陽ざしにてらされて、恋華は目覚めた。

 昨日、招かれた宴で、なれない酒を勧められたせいか、すこし気分は重い。

 けれど、太陽のあたたかさがそれをやわらげてくれた。

 寝台から起き、服を着替え、庭に出る。井戸の水で、顔を洗う。

 昨日は本当に不本意な一日だった。桂覇のはじめての単独公演なのに、気の進まない宴に出席しなければならなかった。

 主催者の甘宗老公は、悪い人物ではないが恋華を孫の嫁に、と思い定めているらしく、しつこく見合いを勧めてくるのだった。

 恋華の歳からいえば、縁談はたしかに早くはない。

 けれど、結婚、というものに対して、恋華にはまだあまり実感がなかった。

 今まで、歌が一番大切なものだったから。

 父様と母様がくれた、自分の歌声。ただ歌っているだけで、恋華は幸せだった。

 すこし、歌おうと思った。

 昨日のことは、もう忘れて。

 軽く手を組み、恋華はその声を解放した。

 朝の空気が、喜びにふるえる。

 それは、二年前、この都の大伎芸大会で、はじめて演じた曲だった。

 唯瑠がつくった詩を、恋華が歌う。──そのとき、歌は、言葉以上の言葉になる。

 読むだけでも、詩を感じることはできるだろう。けれど、それはどこか頭だけでわかっている気がする。

 詩は、歌われたときにはじめて、まっすぐ人の心に伝わるのではないだろうか。

 不遜かもしれない。けれど、そう感じる。

 だから、恋華は歌う。

 一心に。

 やがて歌い終え、ふっ、と我に帰った、その瞬間。

 門の方から、あたたかい拍手がきこえた。

 一人の青年が、そこにいた。

「唯瑠」

 恋華が、青年の名を呼ぶ。

「おはよう。早起きしたかいがあったな。恋華の歌を、一人で聞けるなんて」

 唯瑠が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

 なぜだろう。唯瑠の姿を見た瞬間、自分でも驚くほど、気分が晴れやかになっていた。

「今日は報告したいことがあってきたんだ」

「報告?」

「ああ。まずは、桂覇の公演のこと」

「どうだった?」

「大成功だ。拍手は終わらないし、失神してしまう女性はでるし、珠玉のできだったよ」

「よかった」

 やっぱり、桂覇はすごい。自分だったら、一人で公演なんて、できるだろうか。

「それから、栄仙先生を見舞ってきた。お加減はお悪そうだった」

 恋華の胸が痛んだ。芸のことではとても厳しいけれど、親をなくした自分を、実の孫のように慈しんでくれた栄仙。

 歌を休み、そばで介抱をしたいとも思う。

 けれど、栄仙はそれを望みはしないだろう。

 見舞いに来ると恋華が中々帰ろうとしないので、最近では唯瑠としか会おうとしない。

 恋華は考える。

 私たちは、芸で結ばれた、師弟の関係。

 芸でしか、恩返しができないのだろうか。

「僕らの近況を報告したら、先生は、恋華、君のことを、ひどく心配されていた」

「私のことを?」

「ああ。先生は言うなとおっしゃていたけれど、僕は聞いておいた方がいいと思う。先生の言葉を、そのまま伝えるよ」

 唯瑠は瞳をとじ、告げた。

「恋華の歌には、わずかに心がかけておる。歌っているとき、無意識に、心を殺す瞬間がある。あの子には秀でた歌唱の才があるが、歌は心の鏡。感情を、抑えすぎては曇る」

 唯瑠は瞳をあける。

「以上だ。僕も先生のいうとおりだと思う」

 唯瑠は恋華をみつめる。

「僕は今まで、ずっと君の歌をきいてきた。そして気づいた。ただ一つの、君の弱点に。

 夢中になって歌っているとき、君は高まっていく情感が爆発しそうになる寸前、いつも技巧に逃げてしまう。それはそれですばらしいから、観客は魅了されてくれる。けれど、君はそこで限界をつくってしまってるんだ」

 唯瑠の言葉は、ひどくまっすぐで、純粋な響きをもっていた。

「自分をさらけだすのは、つらいことだ。けれど──」

 唯瑠は恋華の手をとる。

「君ならできる。君には、それだけの強さがある。僕が、保障するよ」

 ずっと君に励まされてきた僕が、と小さく添え、唯瑠はわらった。

 彼の言葉は、かなり重い進言だった。けれど、恋華はうれしかった。ああ、この人は、自分を認めてくれている、と。

「ごめん。偉そうなことをいって」

「ううん。ありがとう。私、がんばる」

恋華は自分を信じたかった。唯瑠の言葉を信じたかった。

「私、今度、一人で公演してみようと思う」

「一人で?」

 恋華はうなずく。歌だけの公演。観客の意識も集中する。自然と評価は厳しくなる。今まで以上の表現が求められるだろう。

 そしてそれは恋華の独り立ちを意味する。

 恋華の決意が、唯瑠にも伝わったようだ。

「わかった。僕は君に、新しい詩を贈るよ」

 ──優しいだけでなく、強い詩を。

 そう約束して、唯瑠は去っていった。

 見送って、恋華も家の中にもどる。

 そして。

 一人になってほどなく、庭から窓をたたかれた。 

 窓の外には、よく見知った青年がいた。

「桂覇!」

 恋華は駆けより、窓をあけた。

「おはよう。しばらくの間、そこからおれをみていてくれ」

 そう告げて、桂覇は庭の中央に屹立した。

「おれは言葉をしらない。だから──」

 そう言って。

 桂覇は、静かに舞いはじめた。

 その姿に、恋華の意識はひきつけられる。

 やはり、桂覇はすごい。その一挙手一投足に、心を奪われずにはいられない。

 そして。

 その舞の意味を悟り、恋華は狼狽した。

(求婚の舞!)

 恋愛歌や、華燭の典でよくつかわれる、それは告白の舞だった。

 恋華が見守る中、桂覇は舞を終えた。

 すべての想いを、舞踏にこめて。

 恋華は立ち竦み一言も口をきけなかった。

 桂覇は熱く、強い目で、恋華を見つめる。

「一緒になろう、恋華」

 思わずうなずきそうになるほど、意志的な口調だ。

──桂覇と一緒になる。

 それが自然なことなのだろうか。

 これまでも、ずっと一緒に生きてきた。

 桂覇のことは、もちろん好きだ。結婚なんて、まだ、考えていなかったけれど。近すぎて、強く意識はしていなかったけれど。

 もし生きていたなら、二人の両親たちも、二人の結婚を望んだことだろう。

 受けるべきなのか。

 思いが、激しくゆれる。

 そのとき。

 答を急いて、桂覇が口をひらいた。

「一緒になろう。おれが、守ってやる」

 恋華の中で、言葉がはじけた。

 君ならできる──と、唯瑠はいった。

 守ってやる──と、桂覇はいった。

 私は──。

 恋華は思う。

 私は、歌うことに誇りをもっている。

 いままで、歌うことで唯瑠や桂覇とつながってきたのだ。

 ──歌いたい、これからも。

 それが、恋華の結論。

 唯瑠や桂覇と、対等の立場で。

 ゆっくりと、恋華は頭をさげた。

「ごめんなさい」

 告げる。桂覇の顔はみれなかった。

「いまは、桂覇にこたえられない。歌のことしか考えられないの。本当にごめん」

 桂覇なら、きっと自分を幸せにしてくれるだろう。けれど、その『与えられる幸せ』を、恋華はいま、望んでいないのだ。

 恋華が顔をあげると、桂覇は意外にも笑っていた。

「わかった、まつよ」

 おだやかにいい、去ろうとする。

「まって、桂覇」

 もうしわけないような気持ちがわいてきて、恋華は彼をひきとめる。

「公演、おめでとう。大成功だったって」

 桂覇は、勢いよくふりむいた。

「誰に聞いた?」

 すこし固い声。

「さっき、唯瑠が来て」

 桂覇の表情がこわばる。

 なにかを、悟った様子だ。

「歌のことしか考えられない。そう、おまえは言ったな。唯瑠に、何か言われたのか?」

 恋華は答えなかったが、その表情で桂覇は察したようだ。

 無言で、桂覇は立ち去った。

 けわしい横顔を、恋華の瞳にやきつけて。


 家の書斎で机にむかっていた唯瑠は、戸口に気配を感じ、ふりむいた。

 そこに、桂覇がいた。

 見たことのない形相をして。

「聞きたい事がある。恋華に何をいった?」

 ただならぬ様子に、唯瑠が警戒すると、

「こたえろ!」

桂覇は怒鳴った。

 すべてを、唯瑠は語った。

「何故そんなことを!」

 言葉とともに、拳がきた。

 唯瑠は椅子から投げ出された。口の中に、血の味がひろがる。赤い唾液を勢いよく床に

吐き、唯瑠はしっかりと立ち上がった。

「彼女のために、必要だと思ったからだ」

 もう一度、桂覇は拳をふるった。

 すこしよろめいたが、唯瑠は倒れない。

「おまえの言った恋華の欠点など、おれだって百も承知だ。仕方ないじゃないか。親をなくし苦しんできた恋華が、心を閉ざして何が悪い! おまえ、恋華をつぶすつもりか?」

 唯瑠は、キッ、と桂覇をにらむ。

「君は間違っている! 言わないのは、優しさなんかじゃない!」

「おまえに何がわかる!」

「彼女の強さだ。恋華は、強い。なんだって克服できるさ!」

 唯瑠は、きっぱりと告げる。

「恋華は、守られるだけの女性なんかじゃない。一人の、立派な歌い手なんだ」

 桂覇と対峙する。これだけは譲れない。

「彼女はもう、弱い幼子じゃない。桂覇。──七年前とは、ちがうんだ」

 唯瑠の言葉が、桂覇の心をえぐった。その表情が物語る。彼が、どこかで恋華を一個の人格として認めていなかったことを。

 その事を気づかされ桂覇は言葉を失った。

 唯瑠も、もう口をひらかない。

 しばらく二人はにらみあい、やがて桂覇はきびすをかえした。

 と。

 入れ違いに、一人の男が走りこんできた。

 見た顔だ。たしか、栄仙先生の家の下男。

「先生のことか!?」

「容態が急変されました!」

 駆けだしながら、唯瑠は思っていた。

 なにかが、壊れはじめている、と──。


 恋華と合流し、共に行こうかとも思った。

 しかし、遠回りになり、間にあわなくなるかもしれない。彼女への連絡は下男にまかせ、唯瑠は栄仙の屋敷に直行した。

 息をはずませた唯瑠は、まっすぐに寝室にとおされた。

 栄仙に子はなく、妻にも先だたれ、屋敷には数人の使用人しかいない。家族にあたるのは、晩年育てられた三人の弟子だけだ。中でも唯瑠は、実の子も同然である。

 看取るのは自分以外にない。唯瑠は常々、そう思っていた。

 それが、こんなに早く訪れてしまうのか。

 栄仙はかろうじて意識のある状態だった。

 立ちつくす唯瑠を認めると目で彼を呼んだ。

 唯瑠が寝台に近づくと、つきそっていた医師が入れ替わりに離れた。すれ違いざま、最後のお別れを、と告げられる。

 胃を鷲づかみにされたような痛みが走る。

「先生」

「唯瑠、か」

「先生」

 なんと言っていいか、わからなかった。自分は詩人だというのに、言葉が出てこない。

 涙を流しながら、唯瑠は幼子のように栄仙の名を繰り返し呼んだ。

 そんな彼を、栄仙はあたたかく見つめる。

「泣くな、唯瑠。おまえは、優しすぎる」

 師として、彼は弟子をさとす。

「正直、おまえは伎芸には向かぬと思っていた。この世界は、結局、競争なのだから。

 しかし、詩芸は、静かに心を熟すもの。これならば、おまえにも、と思うた。

 しかし、優しいだけでは──。

 生きるために、強くならねばならぬときもある。優しさは美徳だが、臆病や、ためらい

にも通じる。唯瑠、ときには勇気を出せ。言葉を尽くし、しっかりと手を伸ばせ」

 唯瑠は、愕然とした。

 栄仙は、唯瑠の、恋華への想いを心配している。

 見つめるだけで口にできなかった想いを。

「先生──」

 それは、師というより、息子の行く末を案じる、父親の言葉だった。

 唯瑠の胸が、暖かいもので満たされた。

 わかりました、とつぶやき、栄仙の手をとる。

「ふ、慣れぬことを言うて、ちと疲れたぞ。すこしやすむ・・・」

 かすかに笑って、栄仙は目を閉じた。

 途端、唯瑠が握る栄仙の手が、力を失う。

「先生?」

 突然重くなった師の手。

 なにかが、失われた重みだった。

「先生、先生!」

 唯瑠は必死によびかける。

 栄仙は、眠っていた。ただ、眠っていた。


「先生!」

 寝室にふみこんだとき、恋華は部屋の沈んだ空気で、訃報をさとった。

 栄仙の枕もとには、唯瑠が立っている。

「恋華、先生が、逝かれたよ・・・」

 抑揚を欠いた声が、悲哀の深さを物語る。

 今朝、あんなに明るい時をすごしたのに。

 栄仙にちかづく。

 眠っているのかと思った。やわらかい、微笑をたたえて。その顔を見ていると、涙が、あとからあとからあふれてきた。

「桂覇は?」

「家には、いなかったそうだ」

 気分が重くなる。桂覇は、すぐには姿をあらわさないかもしれない。

「僕らだけでも、先生を送ろう」

 恋華はうなずいた。やっと、栄仙のそばにいてあげられる。

 もう、怒られることはないのだ。

 もう、二度と。


 栄仙の葬儀の後、唯瑠と恋華はそれぞれの家にこもり、七日間の喪に服した。

 その間、貴族の斉綺が、物盗りの類に刺殺された、という風聞が、都を騒がせた。

 桂覇の行方は要として知れなかった。


 夜半、戸口を叩く音に、恋華は椅子から立ちあがり、応答に出た。

 そこには、すこしやつれた、けれど優しいまなざしの青年がたたずんでいた。

「唯瑠・・・」

「お邪魔して、いいかな」

 恋華は無言でうなずいた。

 今日は外出しなかったけれど、栄仙の喪は明けている。誰かと会ってはならないという法はない。

 むしろ今、一番会いたい人の訪問だった。

「いま、お茶をいれるから」

 台所の方に歩を向ける。

「いや、いい。ただ、僕の言葉を聞いてくれないか」

 青年の口調は、ややかたい。

 恋華は、唯瑠に向きなおった。

「先生が亡くなって──僕は、大切なものが手からすべり落ちる気持ちを味わった。なくしてはじめて、その大きさに気づいた」

 じっと両の手を見る。

「そして思った。僕にはもっと大切なものがある、と」

 唯瑠は、まっすぐな瞳で恋華を見た。

「君に言葉を伝えたい」

 恋華も、唯瑠の視線を受けとめる。

「──君が、好きだ」

 唯瑠がその言葉をくれた瞬間。

 恋華の中で、記憶がはじけた。

 初めて、修芸館の広場で出会った夜の事。

 長い、鍛錬の日々。

 伎芸大会の前夜、二人、肩をならべて語りあった事。

 本選のとき、自分をはげますように踊ってくれた唯瑠。

 一週間前、『君ならできる』と、言ってくれた唯瑠。

 たくさんの唯瑠が、恋華の中にあった。そして、目の前の唯瑠が、いま、やっとくれたのだ。『好きだ』という一言を。

 思えば、ずっとその言葉を待っていた気がする。

 なんと答えていいか、恋華にはわからなかった。だから、唯瑠の胸に飛びこむことで、自分の気持ちを表現した。

「恋華」

 唯瑠の暖かい腕が、恋華を強くいだいた。


 おなじ頃。

 桂覇は、自分の家の前に立っていた。

 風の噂に、栄仙老の死は知っていた。

 しかし、桂覇は姿を現す気になれなかった。唯瑠たちに、会いたくなかったのだ。

 ──恋華のことで言い負かされた。そんな敗北感が、彼の胸に黒い渦を巻いていた。

 だから今まで、都の外に宿をとっていた。

 だが、七日間の喪もあけた。いつまでも逃げ回るのは、桂覇の性にあうことではない。

 それで自分の屋敷に戻ってきたのである。

 戸口に近づいて、桂覇は先客がいたことに驚き、立ち止まった。

「そこにいるのは誰だ?」

 問うと、先客は桂覇の前に姿を現した。

「紫苑・・・」

「お久しぶりです。桂覇さん。そろそろ、お戻りになるんじゃないかと思っていました」

 相変わらずの、落ち着いた口調。

「お知らせしたい事があって、参りました」

 紫苑は声をひそめる。

「一体なんだ?」

「今上帝が、伎芸を弾圧することを決断されました。明日、都では、仮面兵が伎芸に関わる者を一斉に検挙します」

「なんだと!?」

「逃げるのならば、今夜の内に。唯瑠さんたちにも、知らせてあげてください」

 その語尾に、遠雷の音が重なった。

「雷──一雨来るか」

 紫苑は一人ごちて、

「では。どうかご無事で」

素早く夜の闇に姿を消していった。

 立ちつくしていた桂覇も、走りはじめる。

 帝による弾圧。そんな日が来るとは。

 桂覇は、全力で駆けた。

 恋華の家へ。

──恋華を守ること。

 それが、すべてにおいて最優先なのだ。

 雷は雨をひきつれ、桂覇の全身を叩く。

 ひるまず、桂覇は一息に駆けた。

 恋華の家の軒先にたどりつく。

 息を整えつつ、戸口に近寄る。

 と、中で人の声がする。

 不審に思った桂覇は、屋根の軒下を窓へと移動した。

 そっと中をうかがう。

 瞬間。

 桂覇は、立ちつくした。

 そして、身を引きはがすように窓辺から離れる。

 雨の中に駆けだし、恋華の家からかなり離れたところで、桂覇は絶叫した。

「嘘だぁー!!」

 しかし、いま見たばかりの情景が、桂覇の心を粉々に打ち砕く。

 ──遠雷に浮かんだ二つの人影は、一つに重なっていた。


 朝。──その朝は唯瑠にとって、この上なく幸せな朝だった。

 この腕の中に、一番大切な存在がある。

「おはよう、恋華」

「唯瑠」

 二人は見つめあい、唇を重ねた。

 身支度をして、二人で朝食を調理する。

 幸せだった。

 ──不意の闖入者が扉を乱打するまでは。

「ここをあけろ!」

 ただならぬ声に、警戒しながら唯瑠は戸口から外をのぞき見た。

 視界に不気味な仮面兵の黒い面布が映る。

「詩人・唯瑠、舞姫・恋華。本日発令された伎芸禁止令により、そなたらを逮捕する!」

 唯瑠は機敏に動いた。

「恋華、逃げるぞ!」

 扉を閉めつつ、恋華のもとに走る。

 しかし、裏口からもすでに仮面兵が侵入してきていた。表の戸口も蹴り破られ、挟み撃ちのかたちになる。

「無理に生かす必要はない! はむかうようなら斬り捨てろ!」

 長らしき者の命が飛ぶ。

 それにこたえて、恋華の近くにいた兵が、剣を振りあげた。     

「やめろ!」

 かばうように身を躍らせる唯瑠を、横なぎの剣が襲う。

「ぐぁっ!」

 斬撃は唯瑠の両目を傷つけていた。鮮血が、彼の顔を真紅に染めあげる。

「唯瑠!」

 助け起こそうとする恋華を、別の兵士が抱き捕らえる。

「よし、男は手傷を負った。女と別々に、連行しろ」

 兵長の無情な命令がくだされる。

「恋華、恋華!」

 必死で、見えない恋人の名を呼ぶ唯瑠。

「唯瑠! 唯瑠ぅ!」

 恋華もこたえるが、二人の距離は、すこしずつ引き離されていく。

「恋華ぁ!」

 唯瑠の血の絶叫が、あたりの空気をいつまでも強く震わせていた。


 ──その男は、膝まずいて、目の前の御簾があがるのを待っていた。

 男は、密告の功績により、官職を賜ることになっていた。そして、思いがけないことだが、今上帝に直接目通りがかなう、という。

 複数の衣ずれの音が近づいてきて、正面で止まった。

「・・・そなたが、伎芸の者の居所を知らせてきた忠民か」

 声が、御簾ごしにおりてくる。

「御意」

 答えながら男は妙な違和感を覚えていた。

 はて、この声? ──いや、まさか。

「桂覇。・・・そなたは、このような形で、予の忠告をいかしたのだな」

 謎めいた言葉。

 まさか──。

 ゆっくりと、御簾があがる。

「面をあげよ」

 視線をあげた男はそこに旧知の顔を見た。

(紫苑!)

 思わず、愕然とする。

「桂覇、そなたに官職をくだすが、その前に、いま一度、その忠心を試させてもらう」

 紫苑──帝が右手をあげると、女が一人、仮面兵によって召し出されてきた。

 その女も、男には、既知の者だった。

「瑤朋・・・」

 踊り子の瑤朋だった。

「・・・桂覇、桂覇だよね、助けて!」

 瑤朋が、男の名を呼ぶ。

 ああ、悪夢を見ているようだ。

「その女、舞踏は自分の誇りだとのたもうた。わが禁止令に背く罪業。桂覇、そなたの手で、この者を討ち取れ」

 帝の命が響く。

 桂覇の手に、剣が渡された。

「やめてよ、冗談でしょ! 桂覇、あたしだよ、瑤朋だよ!」

 女が叫ぶ。叫ぶことしか、女にはできなかった。

 そして桂覇は。

 自分は恋華を裏切った。守るべきものを。

 これ以上、どんな罪があるというのか。

「!」

 剣光一閃、桂覇は、赤い花を手折った。

 足もとに、赤い血溜まりが広がっていく。

 立ちつくす桂覇に、帝が声をかける。

「・・・予は、父上の命を縮めた伎芸が許せなくなったのだ。だが──もう、見ることもあるまいが、桂覇、そなたの舞は完璧だった」

 桂覇の手から、剣がすべり落ちる。  

「行くがよい、桂覇! そなたがえらんだ、修羅の道へ!」

 帝の命が、遠く桂覇の耳を打った。


 ──彼方で、鳥が鳴いている。

 唯瑠は、穏やかな気持ちで聞きいった。

 あの襲撃で視力を失った唯瑠は、都を追放され、放浪の末に山麓の村にたどり着いた。

 山は実り豊かで、唯瑠は嗅覚と聴覚を頼りに、山菜や茸を取った。また、村の心ある人は、めしいた唯瑠をあわれんで、魚や米をわけてくれた。かなりおんぼろではあったが、住まう小屋も提供してくれたのである。

 鳥の声を愛で、風の音を聞き、緑の香に包まれる中で、唯瑠は密かに作詩をしていた。

 もはや筆は持てない。

 竹を割った裏面に、尖った石で文字を刻み、指でなぞって推敲した。

 それはかつて、恋華に約束した詩だった。

 少しずつ言葉を重ねていく中で唯瑠はこれが自分の最後の詩になる、と予感していた。

 完治はしていないのだろう、傷跡がひどく痛むときがある。眠れぬ夜を過ごす度に、唯瑠は自分の死期を意識せざるを得なかった。

 だから命を削る思いで唯瑠は詩作を続けた。


 ある晩。

 唯瑠は、名を呼ばれたような気がして、身じろぎした。視力を失って以来、聴覚はとぎ澄まされている。

 間違いない。誰かが、自分を呼んだ。

 小屋の戸口に、唯瑠は立った。

 声は、次第に大きくなる。

 近づいてきている。

 そして。

 それは唯瑠のよく聞き知った声音だった。

「恋華!」

 叫ぶ唯瑠。

「唯瑠!」

 叫び声が近くでして、あたたかく、やわらかい存在が、唯瑠の腕に飛びこんできた。

 髪から漂う、なつかしい、甘い香りが、唯瑠の鼻孔をくすぐる。

「恋華、どうしてここが?」

「目の見えない青年の噂をたどったの」

「あのあと、いったい?」

「捕らわれて、農作業をさせられたけど、半年程で釈放に。二度と歌を歌わない約束で」

「そうか、そうか」

 恋華の無事が、唯瑠には嬉しかった。そして、自分を尋ねてきてくれたことが。

 しばらく二人は強く抱きしめあっていた。


 すこし気持ちもおちついて、唯瑠は小屋の中で、恋華に竹に刻んだ詩を披露していた。

「これを、私のために」

 恋華の声が、感動で震える。

「僕のためでもある。──やはり、詩は僕にとって、かかせないものだったよ」

「唯瑠、私、あなたの目になれないかな」

「え?」

「あなたが詩を諳んじて、私が書き取るの。竹に刻むより、早くできると思う」

 恋華の申し出は、本当にありがたかった。

「やっぱり、君は強いな」

「唯瑠が、強くしてくれたんだよ」

 恋華の協力で詩作の勢いは増した。

 歌い手の立場で、恋華が実際に口ずさんでみることで、詩の完成度も高まっていく。

 いま、二人の呼吸がぴたりとあって、たった一つのものが生みだされようとしていた。

 しかし。

 夜半、小屋からもれる歌声を聞きつけた村人が、役場に届け出ようとは、二人には夢にも思わぬことだった。


 けたたましく戸を叩く音に、恋華は戸口に出た。

 あけて、息をのむ。

 そこに、黒い面布で顔を覆った、仮面兵が立っていた。

「ここで、歌を歌った者がいると通報があった。同行願おう」

 兵は冷たく告げる。

 一瞬、唯瑠が動きかけたが、恋華は駆けよって止めた。

 外にも人の気配がある。

 もう、あんな惨劇を繰り返したくはなかった。

 しかし、このまま連れていかれたらどうなるだろう。すぐ釈放されるとは限らない。

 あとすこし、もうすこしで、詩が完成するというのに。

 恋華は考えた。そして、いちかばちか、訴えていた。

「お願いです、一刻、猶予をください!」

「猶予?」

「今、私達は、一篇の詩を作っています。もう少しで、完成するんです。詩が出来たら、お沙汰に従います。どうか、一刻の猶予を!」

 恋華は、仮面兵の目を真剣に見つめた。

 仮面兵は何やら思案している様子だった。

 見つめ続けているうち、恋華は、奇妙な懐かしさを覚えていた。

 この人の目、どこかで──。

 そこまで恋華が考えたとき、

「一刻だけだ」

仮面兵は告げて、外に出ていった。

 奇跡をみる思いだった。

 恋華は唯瑠の手を取る。

「作りましょう。あと一刻で。私達の詩を」


 出てきた男に仲間の仮面兵が寄ってくる。

「どうした、中はどうなっている?」

「・・・あと一刻、何人もこの小屋には入れぬ」

「なにを言っている? ええい、どけ!」

 無理に押しいろうとした兵に、男は強烈な峰打ちをたたきこんだ。

 ざわめく仮面兵たち。

 その数、三十余名。

「ここは通さぬ。さあ、かかってこい!」 

 男は叫んだ。

「乱心したか!」

 斬り込んでくる太刀筋を寸前で見切って、男は飛びかかってきた仮面兵の腹部に峰打ちをいれる。地に伏す仮面兵。

「この人数、峰打ちで止めるつもりか!」

 叫んで、斬撃をくりだす仮面兵。かろうじてかわしたが、切っ先が面布を切り裂く。

 素顔をさらして、男は不敵に笑った。

「おお! 一世一代の剣舞、見せてやる!」

 口上とともに剣を左右に繰りだし、瞬時に二人を昏倒させる。

 その鮮やかさはまさしく舞のようだった。

 男──桂覇は、内心、叫んでいた。

(帝よ、やはり、俺は舞うぞ。名や富のためではない。自分が、舞いたいがゆえに!)

 桂覇の剣が瞬速の弧を描き、また二名の仮面兵が土に膝をつく。

 桂覇の剣舞は、苛烈を極めた。


 外で剣撃の音がする。

 気にはなったけれど、唯瑠と恋華には、果たさなければならないことがあった。

 唯瑠が言葉をつむぎ、恋華が書き取る。時に口ずさみ、推敲する。

 極限状態の中で、二人の五感はとぎ澄まされていった。

 そして。

 最後の一節を口にして、唯瑠が意識を失った。精も根もつきかけた、あるいは、死出の旅につく刻限になったのかもしれなかった。

「できた、できたのね」

 完成した詩を両手にかかえて、恋華は歓喜した。頬に、涙がつたう。

 歌わなければ、と、恋華は思った。

 唯瑠が、自分のために作ってくれた詩。歌ってこその詩ではないか。

 ゆっくりと立ちあがる。唯瑠を肩に負う。

 外に、出ようと思った。なぜか、剣撃の音はやみ、あたりは静かだった。

 戸口を出ると、一人の男が、血まみれで倒れていた。顔も血に汚れていたが、恋華には、すぐにそれが誰かわかった。

「桂覇!」

 恋華は跪き、桂覇の頭をやさしく抱えた。

 桂覇は、かすかに生きていた。

「できたのか・・・」

「ええ」

 恋華が告げると、桂覇は、満足そうな笑みを浮かべ、静かに瞳を閉じた。

 あたりには二十名ほどの仮面兵が倒れている。死んではいないようだ。

 さらにそのまわりに、十名ほどの仮面兵が控えている。

 桂覇の勇猛ぶりに圧倒されて、遠巻きに囲んでいる様子だ。

 静かだった。

 恋華の心も。

 深く息を吸い。

 恋華は、歌いはじめた。

 やさしく膝に抱えた、桂覇に聞かせるように。

 地に倒れ伏す、仮面兵に伝わるように。

 遠巻きにたたずむ、仮面兵に訴えるように。

 あたりの自然に、どこまでも広がるように。

 その詩は。

 故郷を歌い、

 家族を歌い、

 恋を歌い、

 自然を歌い、

 命を歌って、

やわらかく、のびやかに、すべてをつつみこんでいった。


「地より涌きいづる命──」


 そんな一節で、詩は終わった。

 と──倒れていた兵士たちが、ゆっくりと立ちあがった。

 恋華が見守る中で。

 兵たちは、自分の仮面を脱ぎ捨てた。

 その目には、涙があふれている。

 腰の剣を抜き、大地に突き立てる。

 まるで、戦いと、決別するかのように。

 そして、周りにいた仮面兵たちも。

 面布をとり、剣を大地に突きさした。

 彼らは、恋華が歌った詩を口ずさみながら、その場を離れていった。

 どこへいこうというのだろう。

 おそらくは、それぞれの故郷へ。家族の待つ、ふるさとへと。

 残された恋華は、右手に唯瑠、左手に桂覇を抱えながら、いつまでも歌い続けていた。

 

 その詩──『大地の詩』を。



 『大地の詩』は、口づてに、まるで波のように、全土に広まった。

 誰もが、歌うこと、生きることの喜びを感じずにはいられない──そんな詩だった。

 当初、かたくなに弾圧を命じた帝も、一度その詩を耳にした途端、言葉を失い、禁止令を解くにいたったという。



 それから幾星霜──。

 唯瑠、桂覇、恋華の名を知る者は、もう、世にいない。

 ただ、『大地の詩』とよばれる詩が、巷間にひろく知られるのみである──。

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