第1主 アイラ
「其方の心はなにを潜む?」
「私は未来ノ種を潜めているよ」
彼女は相手の目を真っすぐ見てそう答えました。
神のような存在の彼の前に、普通の人にしか見えない彼女が立っていた。
大きな帝国を治めていた彼の前に、庶民並みの彼女が立っていた。
百万人を超える軍勢を自由に動かせる彼の前に、何の技でさえ分からない彼女が立っていた。
数知れない本を書いた彼の前に、文字の読み方ですら習わなかった彼女が立っていました。
「其方の心はなにを潜む?」
「私は未来ノ種を潜めているよ」
***
アイラはずっと一人でいました。親も、兄弟も、姉妹も、友達も、敵も持ってはいなかった。命をくれた母はとっくに死んで、父はどこにいるのか、誰も知らなかった、と言うより、知るはずの者はいなかったようだ。
誰が自分を育てたのか、アイラには分からなかった。
そして彼女はまるで仙人のように、谷と森の境にある家にずっと一人で暮らしていた。彼女を名前で呼ぶ者はいなければ、その名前でさえを知る者もいなかった。
でもアイラは生まれてから人の言葉が分かっていた。旅人が彼女の家に辿り着いたら、彼女はこの人と話をしていた。道を彷徨う者がアイラに訪れて宿りを求めたら、彼女がちゃんと相手をしていた。
でも彼女は一度も自分の名前を教えなかった。なので、訪ねた者はみんな自らで適当の名を付けて、その名で彼女を呼んだ。
誰一人も本当の名前を当たらなかった。
そして誰一人もその家を出て、二度と帰ることはなかった。
それでも彼女は誰も忘れなかった。
アイラは自分で食べ物を植えて、服を縫って、繕って、そうやっていろんな家事を自分一人でやっていた。誰も彼女にその全てを教えたわけではなかった。彼女はもののやり方を不思議と始めからちゃんと知っていた。
ある日、また一人の旅人がアイラの家に訪れた。歳で灰色に染められかけた髪を持った、初老の男性であった。彼はいつも通り、自分の名を彼女に教えなかった。
だが彼はアイラに名を付けることもしなかった。
丁度日が暮れる頃に来た彼を、アイラはもちろん、自分の家に泊まらせた。朝になって、その旅人か自分の旅を続ける前にアイラにそう告げた。
「我は君の名を訊かない、我の名もここで言うまい。君に感謝をし、幸運を祈ろう。ある日、君がよく知っている人が君のもとにまた来るであろう」
そう言った彼は、そのまま去って行った。
アイラはあれまでのように、そのままの暮らしぶりを続けていた。子供や老人たち、男達や女達、様々な人々が彼女のところに来て、ほんの少しだけ泊まって、そして去っていた。相変わらず、二度と帰らないために。
でもある日、もう一人の旅人が訪れました。初老の旅人が知り合いの訪問を予言してからはもう、一年が経っていたころ。アイラは新しい客を迎えるために家を出た。
「よ」
小門の前に立っていた若い女性が挨拶した。そしてアイラは彼女のことすぐ覚えた。
だって、三年前に、この若い女性がアイラの家を訪れたことがあったから。
「こんばんは。お久しぶりです」
アイラの挨拶をきいて、若い女性がニヤニヤして頷いた。
「前にここに来たことはあったもんな。ね、名前、教えて」
その質問にアイラは眉をひそめた。
「君は前に私に名前を付けましたでしょう」
「ん、それは君に似合わないと思うよ。あの時、ハズレだった、でしょう?」
「はい、そうです。では、新しい名を付けてはどうでしょうか? 私はかまいません。数多くの名前が付けられた身ですから」
「なら、今度は君をアイラと呼ぶね」
家の主の笑顔をみて、旅人の女性が安堵しました。
「今回はアタリ、ですか?」
アイラは小門を開けました。
「はい。お帰りなさい、アニーリ」