第1話 プロローグ:凍てつく思い
————2x45年 アイスランド レイキャビク————
「勇、どこいったのー?」
あれ……母さんの声がする。
僕は……何を……
ハッと気がつくとふかふかのソファに腰かけている僕。目の前には可愛らしい丸テーブル、後ろには大きめのダブルベッド、全体的にウッド調で落ち着きのある部屋。
間違いない、僕は今ホテルの一室にいる。窓の外には、ミニチュアのようなカラフルで小洒落た建物が、何軒も連なっているのが見える。
——ガチャ
「あら、ここにいたのね」
質素なドレスに身を包んだ母さんが扉を開けて部屋に入ってくる。その手には僕に着せるためだろうか、子供用のスーツとベストそしてネクタイが握られている。
「ホテルの人に言ったらネクタイ借してくれたの。ほんとうっかりしてたわ。ていうかロビーで待っててって言ったのにー。まあいいわ、着替えるわよ」
母さんは屈んで、僕の服を脱がせようとする。よく見ると、僕はパジャマを着ているではないか。
さっきまで寝てたんだっけ?
「自分でできるよ」
「はいはい。お父さん、もう準備できてるかしら?」
「父さん?」
「そうよ〜、忘れたの? 今日はお父さんの大事なチェスの対局日じゃない」
そうだった、なんで忘れてたんだろう。
今日は、2年毎に開催される、チェスの世界一を決めるための大会「世界チェス選手権」の初日。チェスプレイヤーなら誰もが憧れる最高峰の舞台だ。今年の開催地はアイスランドの首都「レイキャビク」。僕の父さんはあらゆる大会で優勝を収め、この大会への参加資格を勝ち取った。
「お父さん勝てると思う?」
「当たり前だよ、めっちゃ強いんだからさ!」
微笑む母さん。
僕たち家族3人は父さんの対局のため世界中を飛び回ることが多い。そのたびに数々の凄腕のチェスプレイヤーとお目にかかる。もちろん父さんはそんな強者をバッタバッタと倒してきた。
父さんは本当にかっこいい!それにお茶目な一面もあって、自慢の父親だ。
「それにしても、今朝から顔を見ないわね〜。また部屋に閉じこもってチェスの研究でもしてるのかしら?」
「父さんらしいや」
「ふふふ、そうね。でももう会場に行かなくちゃ……勇、悪いけど見に行ってくれる?」
「うん!」
「こら、廊下を走らない!」
「ごめんなさーい」
と言いつつも、駆け足気味に父さんの部屋に向かう。父さんは対局があると、いつも僕や母さんと別の部屋で過ごす。閉じこもって、ずーっと朝から晩まで棋譜と睨めっこしているらしい。
うわ!曲がり角でおじさんとぶつかりかけちゃった。
「ごめんなさーい」
「……」
怖そうなおじさんだ。深く被った帽子から覗き込んでくる青い目に、危うく引き込まれそうになる。何も言わないまま、そのまま踵を返して去ってしまった。やっぱり歩かなきゃ危ないよね。
早歩きで一番端の父さんの部屋に着く。
えーっと、まずはノックと……コンココン、コンココン。
父さんの部屋に入る時はいつもこのリズムでノックする。僕が来たとすぐわかるから嬉しいんだと。
あれ?おかしいな、何の返事もない。
「父さーん、そろそろ時間らしいよ」
ドアのノブに手をかけ、ガチャガチャと動かしてみる。手応えが全然ない。てか開いているじゃないか。鍵もかけてないなんて、珍しく不用心だなー。
おそるおそる扉を開ける。父さんは急に扉を開けると、いつも飛び上がって驚くからね、驚かさないように慎重にっと。
『待て』
寝てるのかな? ひさしぶりに落書きでもしちゃおうかな? へへへ。
『ちがう、ダメだ、待ってくれ』
ゆっくりと扉を開けて、目の前を見る——
『あぁ、まずい、それ以上は、やめてくれ、やめろ、やめろ!』
そこにいたのは……首にタオルを巻きつけ、直立したままゆらゆらと吊り下がっている変わり果てた父さんだった。
「……え?」
父さんの目から光は完全に消えていた。
思考が止まり、鼓動は高鳴る。
全身から血の気がサッーと引いていくのを感じる。
「勇、お父さん。何してた?」
勇に近づき部屋の中を覗き込む母さん、と同時に後ろに大きくのけ反る。
「う、うそよ、そ、ん、な、い、い、いやーー!!」
母さんの叫び声がホテル中に響き渡る。何事かと客室から顔を覗く人々。
「そ、んな、あ、ああああな、あなた、ああ、あ、ううう…」
悲痛な顔をしてへたり込み、子供のように泣き叫んでいる母さんとは対照的に、僕は目の前の抜け殻を、ただジッーと見つめ続けることしかできなかった。
母の声も、廊下に集まる人々の騒音も、僕の耳にはもう届かなかった。世界から全ての音が消え、視界の輪郭が徐々に凍りついていく。アイスランドの氷河よりも冷たく暗い氷が、僕の心を、世界の全てを閉ざしていく——
『もういい……消えろ……消えろ! 消えろよ!!』
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