第1話 プロローグ:凍てつく想い
2x45年
世界のテクノロジー技術は目覚ましい発展を遂げ、人類文明は食糧飢饉やエネルギー不足、医療問題などのかつての社会問題を劇的に改善し、それらを過去のものとした。
それに伴い、暇を持て余した人類は娯楽と熱狂を求め、いつしか「チェス」が世界のあらゆる国や地域で取り組まれるようになり、各地で莫大な賞金や名誉をかけた大会が開かれているのであった。
この文書はそんな世界に生まれた一人の若者「王城 勇」の数奇な運命を綴った物語である。
――――アイスランド レイキャビク――――
「勇、どこいったのー?」
あれ……母さんの声がする。
僕は……何を……
ハッと気がつくと、何やら見知らぬ部屋の一角。全体的にウッド調で落ち着きがある。
お尻には柔らかい感触、どうやらふかふかのソファに腰かけているようだ。目の前には可愛らしい丸テーブル、向こうには大きめのダブルベッド。
どこかのホテルみたいだな。窓の外を見ると、ミニチュアのようなカラフルで小洒落た建物が、何軒にも渡って連なっている。
――ガチャ
「あら、ここにいたのね」
質素なドレスに身を包んだ母さんが扉を開けて部屋に入ってきた。その手には子供用のスーツとベスト、そしてネクタイが握られている。おそらく僕に着せるためだろう。
「ホテルの人に言ったらネクタイ借してくれたのよ。ほーんとうっかりしてたわ。ていうかロビーで待っててって言ったじゃない。まあいいわ、ちゃっちゃと着替えるわよ」
そう言うと母さんは屈んで、僕の服を脱がせようとする。そういえば僕はパジャマを着ているじゃないか。
あれ? さっきまで寝てたんだっけ?
「もう、自分でできるよ」
「はいはい。お父さんもう準備できてるかしら?」
「父さん?」
「そうよ~、忘れたの? 今日はお父さんの大事なチェスの対局日じゃない」
あぁそうだ思い出した
今日は、2年毎に開催される、チェスの頂点を決めるための大会「キングトーナメント」の初日。これは世界で名をはせる怪物級のチェスプレイヤーだけが招待される大会。ここで優勝したプレイヤーだけが現世界チャンピオンと戦う挑戦権を得られ、それに勝利したプレイヤーこそが世界最強の称号を手にする。
チェスプレイヤーなら誰もが憧れる最高峰の舞台。今年の開催地はアイスランドの首都『レイキャビク』。僕の父さんはあちこちの大会で優勝を収め、今年、初めてこの大会へ招待されたのだ。
「お父さん勝てると思う?」
「当たり前だよ、めっちゃ強いんだからさ!」
微笑む母さん。
僕たち家族3人は父さんの対局のためよく世界を飛び回っている。そのたびに数々の凄腕のチェスプレイヤーとお目にかかることができる。もちろん父さんはそんな強者をバッタバッタと倒してきた。
父さんは本当にかっこいい! それに優しくて人格者で、お茶目な一面もあって、僕のかけがえのない自慢の父親だ。
「それにしても、今朝から顔を見ないわね~。また部屋に閉じこもってチェスの研究でもしてるのかしら?」
「父さんらしいや」
「ふふふ、そうね。でももう会場に行かなくちゃ……勇、悪いけど見に行ってくれる?」
「うん!」
「こら、廊下を走らない!」
「ごめんなさーい」
と言いつつも、駆け足気味に父さんの部屋に向かう。
父さんは対局があると、いつも僕や母さんと別の部屋で過ごすのだ。閉じこもって、朝から晩までずっーと棋譜と睨めっこしているらしい。
うわ! 曲がり角でおじさんとぶつかりかけちゃった
「ご、ごめんなさい……」
「……」
怖そうなおじさんだ。深く被った帽子から覗き込んでくる鋭い青い目に、危うく引き込まれそうになる。恐ろしいがなぜだか美しく感じる。
僕が黙っていると、彼は何も言わないまま、踵を返して去って行ってしまった。やっぱり歩かなきゃ危ないよね。
早歩きで一番端の父さんの部屋に着く。
えーっと、まずはノックと……コンココン、コンココン。
父さんの部屋に入る時はいつもこのリズムでノックする。僕が来たとすぐわかるから嬉しいんだと。
あれ? おかしいな、何の返事もない。いつもなら返事くらいくれるのに
「父さーん、そろそろ時間らしいよ」
ドアのノブに手をかけ、ガチャガチャと動かしてみる。手応えが全然ない。というか開いているじゃないか。鍵もかけてないなんて珍しく不用心だなー
おそるおそる扉を開ける。父さんは急に扉を開けると、いつも飛び上がって驚くからね、驚かさないように慎重にっと
『待て』
寝てるのかな? ひさしぶりに落書きでもしちゃおうかな? へへへ
『違う、ダメだ。待ってくれ』
ゆっくりと扉を開けて、目の前を見る――
『あぁ、まずい、それ以上は、やめてくれ、やめろ、やめろ!』
そこにいたのは……首にタオルを巻きつけ、直立したままゆらゆらと吊り下がっている変わり果てた父さんの姿だった。
「……え?」
父さんの目から光は完全に消えていた。
思考が止まり、鼓動は高鳴る。
全身から血の気がサッーと引いていくのを感じる。
「勇ー、お父さん何してた?」
勇に近づき部屋の中を覗き込む母さん。この光景を見るや否や、まるで大砲にでも撃たれたかのように後ろに大きくのけ反る。
「う……うそよ、そん、な、い、い、いやーー!!」
今まででに聞いたこともない母さんの悲鳴と絶叫がホテル中に響き渡る。
何事かと慌てふためきながら部屋から顔を覗かせる宿泊客たち。
「あ、ああああな、あなた!! ああ、あ、ううう……」
悲痛な顔をしてへたり込み、子供のように泣き叫んでいる母さんとは対照的に、僕の目は目の前の抜け殻を、ただジッーと捉え続けていた……というより……それしかできなかった。
母さんの声も、続々と集まってきた人々の喧騒も、僕の耳にはもう届かなかった。
世界から全ての音が消え、視界の輪郭が徐々に凍りついていく。アイスランドの氷河よりも冷たく暗い氷が、僕の心を、世界の全てを、閉ざしてゆく――
『もういい……消えろ……消えろ! 消えろよ!!』




