6話「レモン」
――前に乗船したときも、こんなだったかしら。
マルタは人気のない蒸気船の甲板に出て、手すりに摑まりながらゆっくりと歩いていた。
蒸気機関の振動と騒音にはもう慣れていたが、先ほどまでいた室内のサロンの喧騒には辟易していた。
旅客たちは身なりこそ人並だが、他人の存在などまるで意に介さないように、仲間同士で思い思いに声を張り上げ騒いでいるのだった。近頃こういう騒ぎ方が流行っているとは耳にしたことはあったが、実際に目にするとやるせない気持ちになった。
修道院帰りのマルタにとって、静寂はある種の徳である。
それに、自分は慈悲を理解している――そうも思っていたが、彼らへの苛立ちに気づいたとき、それはただ与えられた環境に慣れきっていただけではないか、という疑念が頭をもたげ、軽い失意を覚えた。
――結局、人はそんな簡単に変わらないのだ。
潮風が強く吹いて、黒煙と煤が蚊柱のように襲ってきた。マルタは髪を覆っているスカーフを咄嗟に引き下ろし、顔を隠す。それに加えて相変わらずの断続的な振動が響いてきたが、
「こっちの方がマシだわ」
と呟いた。
マルタが乗船して今日で二日目だった。三年前、修道院に入るため、この船に乗ったころにはなかった汽車の線路も、今では通じている。だから陸路での帰郷もできたのだが、迷いなく船を選んだのだった。マルタの心のうちに、あのとき胸を占めていた煩悶の残滓がかすかに蘇った。そして今は、汽車より時間のかかることが、この移動における救いだった。
一等用の甲板の突き当りまで来ると、眼下には三等用の甲板が広がっていた。たまに足元を掬われそうな、全身にぶつかってくる強風のせいか、そこにも人の姿は見えなかったが唯一、手すりに凭れている青年の姿が見えた。
マルタが目を凝らすと、青年の顔は酷く青白かった。少し長い黒髪がバサバサとたなびいている。彼はそれでもほとんど動くことなく、一点を見つめ、ジッとしていた。どことなく苦しそうに見えて、ひょっとして船酔いしているのでは、と思った。そしてもう少し観察することにした。
青年はしばらく動かなかったかと思えば、カバンから大きな本を出して読もうとしている。
――本なんか読んだら余計にひどくなるのに。マルタはにわかに心配になった。
当の青年は、強い風にページが煽られ、繰るのにも悪戦苦闘していて、結局すぐに閉じてしまった。
マルタは足早に自分の客室に戻り、バッグを手に再び甲板に戻った。
そして、階下の青年に向かって何度も手を振ってみた。が、彼はいっこうに気づく様子はない。
業を煮やし、とうとう思い切って声をかけた。
「ねえ」
「そこのあなた」
「ねえ!」
大きめの声を出したものの、蒸気機関の音にあえなくかき消された。もう一度呼びかけても結果は同じだった。声は届かない代わりに、久々に声を張り上げたマルタ自身に跳ね返ってくるばかりだった。ふいに立ち眩みがして、ぐっと手すりを掴んだとき、船のどこかで休んでいたらしき数羽の海鳥が飛び交った。不思議とこの騒音のなかで、羽ばたきははっきり聞こえた気がした。マルタがその海鳥たちを目で追ったとき、同じく海鳥を見ていた例の青年の顔がこちらを向いた。
あっ、と声が出た。刹那、とっさにバッグに手を突っ込んで、船酔いに効くというレモン取り出し、青年に向かって投げた。
投げてから、
「レモン!」
と叫んだ。
青年はまるで星を見るような顔で中空を見つめている。
マルタの投げた黄色い果実は弧を描き、階下にたたずむ青年の頭に当たって弾み、手すりの外の海に消えた。
――少しして、三等甲板の庇のある物陰で、マルタと青年は並んで立っていた。青ざめた顔の青年とは対照的に、マルタは顔を赤くして、引き攣った口元をスカーフで必死に隠していた。
さきほど、謝りに階下に降りたマルタに対し、青年が駆け寄り、大真面目にこう言ったのだった。
「海鳥に気を付けて! 何か落としてきます!」
マルタはこの顔色の悪い青年に対し、申し訳ない気持ちになればなるほど吹き出しそうになった。わざわざ駆け寄って注意をしてくれた青年は、ルーと名乗った。彼のそのおかしな勘違いのせいで、バッグに忍ばせていたもう一つのレモンは渡しづらくなっている。しかし、ルーの船酔いは軽そうで、むしろ三等客室の人混みに酔ったのではないかとマルタは推測した。だからこそ甲板で風に当たっていたのだろう。
「おかけになったら?」
二人のすぐ横にはベンチがあった。一等甲板とは雲泥の差の、粗末で薄汚れたベンチであったが、促されてルーは腰を下ろした。マルタは腰かけず、手すりの方へ向かった。ひょっとして先ほどのレモンがプカプカ浮かんでやしないか気になったが、海面を見下ろしても白い波が船の腹を襲うように押し寄せているだけであった。
諦めて振り返ると、ルーが雑巾のような布で、自分の隣の座面を丁寧に払っているのが見えた。
「……あ」
純粋な厚意で居場所を差し出されるということに、これほど動揺するとは思わなかった。自分の頬に熱が通っていくのを、体の内側から感じたことに驚いた。そして風のせいだというように、再びスカーフの端を引っ張って顔を隠した。
「ありがとう、汚れたんじゃなくって?」
取り繕ったマルタに、ルーは一瞬口元で笑みを作って、布をポケットにしまった。
ここは風が直接当たらず、ルーの前髪をたまに揺らす程度だった。一方、マルタの視線の先の甲板では、積っていた煤が床を這うように渦を巻いて、風に吹かれて消えていった。
ルーの顔は青ざめているように見えていたのに、彼の指先も同じように白色だった。髪の毛もまつげも真っ黒で、特にまつ毛はぱちぱちとよく動いた。そんな中、煤がルーの鼻や頬にわずかに付いているのを見つけた。
――確認しておいてよかった、とマルタは思った。レモンが海に落ちてすぐ、慌てて階下へ走った。通路の人混みを掻き分けて、甲板への鉄扉を開く直前、マルタはまぶしい光に射すくめられた猫のように立ち止まった。そして、バッグの中から手鏡を出し、自分の顔が煤で汚れていないかを確認していたのだった。
ルーの顔を横目にまじまじと見た後、マルタはルーに手鏡を持たせ、
「汚れているわ」
と、自分のハンカチで鼻と頬を拭いてあげた。ルーは目も口も閉じてジッとしている。そして反対側の頬を拭こうと、ルーの顎に手を掛けたとき、ふいにルーが目を開いた。何度かぱちぱちと瞬きをした。そうして現れた水底のような黒い瞳に、マルタが映っていた。マルタの心臓が小さく跳ねた。
「拭けたわよ」
と、反対側は拭かずに、そのままルーの手から鏡を優しく受け取る。
「どうもありがとう。機械になった気分です。いつも古い機械を磨いてるので」
「私は修道院にいたの。よく、お年寄りや病人の体を拭いていたわ」
マルタはハンカチを畳み直して、手鏡とともに、バッグにそっとしまった。
「あなたは機械屋なの?」
「ええ。でも修理はたまにするくらいで、ほぼ回収役です。船で移動するのは今日が初めてですが」
これが、とつぶやいてルーが大きな本をカバンから取り出した。さっきの本だ、とマルタは思った。そして、いざ開こうとした瞬間にルーが短く息を吐いたのに気づいて、
「字を読むと船酔いが悪くなるわ」
と手を差し出し、そのずっしりと重たい本を丁寧に受け取った。
彼自身への興味には及ばないながらも、この寡黙な、本来ならすれ違うだけの旅人のような雰囲気をまとったルーが、あの華奢な白い指で一体どんな機械をどんなふうに扱っているかを知りたかった。表紙には感情鉱石シリーズと書かれている。中身はそれぞれ分厚いカタログとマニュアルの合冊で、機械に詳しくないマルタにとって難解なことばかりだろうと想像していた。だが、意外にも見おぼえのある品々が掲載されているのを発見し、思わず顔がほころんだ。
「まぁ、これとこれ、これも知ってるわ! 感情鉱石式殺菌消毒器......そうなのね、硬くなったパンをふやかすのに使ってたけど」
ルーもマルタの話に興味を持った風に、一緒にカタログをのぞき込んでいる。
「この変な機械も寄宿舎にあったわ。お湯に関係してると思うのだけど」
「ボイラーですね。マルタさんはどちらで使っていたんですか?」
「修道院。私は求道者だけど、三年いたわ」
ルーが、求道者――と呟いたのを見てマルタが付け加えた。
「修道女みたいに誓願を立ててない、見習いみたいなものよ。いろんな人がいるの。自ら門を叩く人もいるし、私みたいに両親に放り込まれた人もいるわ」
そこまで言って、ルーが、放り込まれた――と呟かないでよかった、と思った。少し強く吹いた風がページをめくろうとする。
「誰が見ても、『こんな古い機械は見たことない、使ってるのはここだけだ』っていうの。まさかここで正体がわかるなんて思わなかった」
明るい調子のマルタに、ルーが一つ質問した。
「そうなんです、古くて数も減ってきてます。それで、ちゃんと動いてるんでしょうか。壊れたりしてませんか?」
「壊れるわよ。信じられないでしょうけど、叩いて直してたわ。上手なシスターがいたのよ」
一瞬間をおいて、ルーが吹き出した。マルタは驚いたが、涙を浮かべて笑うルーを見て、弾けたように笑った。
「あそこは楽しかったわ、静かだし、本もたくさん読めたし」
つい先日出たばかりの修道院が急に懐かしく思えた。朝の起き抜けの空気や、壁を這う蔦の緑、育てた花に蜜を求めるハチたちといった些細な事柄の欠片が溢れた。
「でも、毎日ほぼ同じ場所で同じ生活だったの。あなたみたいにあちこち行くのとは正反対ね」
ルーは少し考えるように間を開けて、
「同じことを繰り返してる方が、頭の中は広くなる気がします」
と言った。それに対してマルタは、
「心もそうだといいのに」
と呟いた。呟いてから、それは深さなのか、広さなのか、と考えた。
ルーはそれについては黙っていたが、少しの後、言葉を選んでいるように話し始めた。
「仕事でいろんな場所へ行って、それを旅みたいだという人もいます。楽しいんですが、いろんな人の生活を見ていると、自分には何が待っているんだろう、と思うこともあります」
ルーは続けた。
「一人のとき、例えば暗い山道や、民家の無い雪道なんかで、いつかばったり神様に出会いそうな気がします。そうなったら旅も終わるのかもしれません」
「神様を信じてらっしゃるの?」
マルタが聞いた。
「あなたに言うのも申し訳ないですが、特に信じてるわけじゃありません。ただ、信仰はなくても、対象の無い信仰心というのは備わっているようです」
実を言えばマルタも特別篤く神を信じているわけではなかったが、今もって求道者の気分でいるのはそういうことなのかもしれない、と思った。
やがて陸からの風のせいか、灰色がかった雲が晴れ、透き通った青空が見えた。
もう随分経った気がしたが、ルーが持っている時計は正午を指したところだった。
「ああ、もう下船の時間です」
「そう......。私はあと丸一日乗ってないといけないわ」
楽しい時間でした、とお礼を言うルーに、急いでメモを渡した。
「それ、修道院の住所よ。もしも近くに寄ったら、機械を見てあげて」
ルーはにこやかに受け取って甲板を去った。
桟橋にはぞろぞろと下船した客が歩いている。
マルタは甲板の手すりに掴まって彼らを眺めていた。やがて、その中の一人が振り返ったのが目に入った。ルーがこちらに手を振った。マルタも手を振り返した。ルーが背を向けたとき、
「ルー!」
と叫んだ。
ルーは再び振り返った。マルタは手すりから身を乗り出し、そして、バッグから取り出したレモンを力いっぱい投げた。マルタの手から放たれた黄金色の小さな果実は、放物線を描いて、慌てて広げたルーの手に見事に収まった。




