1話「窓際と記憶」
幼い日に身に染みた恐怖は歳とともに小さく硬い棘になり、心の奥底にひっそりと隠れている。三十歳を過ぎてもヴェルナの棘は、窓から見える深い森によって、その柔らかい心の肉に悪戯をするのである。少年時代のまだ小さな手にぶら下げたランタンの炎は、森を歩く足元のわずかな地面を照らしこそすれ、ほとんどは木々の闇に吸い込まれていた。何か悪いモノの仕業なんだろうかと思いもしたが、山道の木々はただただ貪欲に光を吸い込んでいたのだ。幼いヴェルナは一気に駆け出し、家に入るなり父か母の胸に飛び込んだものだった。
冷たさを帯びた秋の風が開けた窓から入り込み、カーテンを膨らませている。ヴェルナはまだ外を見ている。今でも恐ろしさを感じる暗い森の遥か向こうの街には電気照明が煌々と灯っている。街に近い森の一部すら、その正体を暴くように、過剰に明るい町の灯に照らされている。ヴェルナが5歳の時に終わった大国同士の戦争は唯一、電気を普及させた功績となって、街の灯りは嫌みのようにそれを世界に主張しているようだ。だがそれは街の話だ。この集落にはまだガス灯の家もある。
窓を閉めようとしたとき、森の中をゆらりと灯りが動いたように見えた。ヴェルナが目を凝らすと、確かに小さな灯りがユラユラと山道を進みこちらへ向かっている。
「来たか」
そう呟き、窓を閉めた。
「ごめんください」
エンジン音が静かになり、呼びかけが聞こえた。ヴェルナが玄関を開けると華奢なバイクと、それに繋がれた荷車があった。そしてその前に青白い顔をした少年がいた。ふと、この少年の顔は何に照らされているのだろうと思った。
「サザンカ精工からきました、ルー・ウォーターと申します。遅くなって申し訳ありません」
そう名乗った彼もまたバイクに負けず華奢であった。痩せて青白い、目と髪ばかり黒々とした少年に対し、まず礼を言った。
「こちらこそ、山の中までありがとう」
それで、とルーは今回の訪問の理由となった物を見たがった。ヴェルナは彼を家に上げ、さらに奥の部屋へと招いた。
「これなんだが」
と指をさした先にはトランクほどの大きさの機械が置かれていた。
「ハンクが」
と言いかけたヴェルナがルーを見て黙る。ルーもまた長いまつげをぱちぱちさせて彼を見返す。
「ああ、ハンクがね、君に連絡した何でも屋なんだけど、いろいろ直してくれるのにこれだけはわからないっていうんだ」
ルーは両手で機械を押し傾けながらいう。
「これは特殊な機械ですから」
「でも、暖房なんだろう?」
ええ、といったルーが荷車から分厚いバインダーを持ってくると、ボロボロに傷んだページを思いのほか乱雑にめくり、これだと言ってテーブルの上にカタログを広げる。
「TS05 家庭用暖房機 感情鉱石式?」
辛うじて読める異国の言葉だ。だが感情鉱石とはなんだろう。何かわかればと、次のページを開くと、カタログではなく修理マニュアルであった。
「昔、外国でガスから電気に移行する間に、少しだけ流行った動力です。そこはまあ、とっくに廃れた技術ですので」
その言葉で、ヴェルナは自分がルーに対して違和感を持っていることに気づいた。こんな少年がくるなんて。ハンクのように太った老齢の男を想像していたのだ。
「修理できるかい? 冬が来る前に暖房の用意をしておこうと思ってるんだが」
「おそらく可能です。ですが、お使いになりますかね」
ルーはこの部屋の暖炉が埋められてるのに気づき、
「ガスか、薪ストーブか、あるいは電気にするか。私はそれをおすすめしますね。もし上手く直したとして、なんせ古い機械ですから冬のさなかに動かなくなってもお困りになるでしょう。それに来年の冬も動くかどうかも保証できません。ご希望でしたら買い取りもいたしますが」
それを聞いてヴェルナは逡巡したのだが、ぽつりとつぶやいた。
「売るのはなあ。これでも一応、形見なんだ」
その時、ヴェルナは少年が目を伏せたのを見た。
「承知しました。では修理いたします。なお、メーカーはもう潰れてますし、保全部品も存在しません。すべて中古品から抜き取っての修理になります」
「ああ、それで買取ね」
とヴェルナが笑うと、ルーはさっそくとばかりに部屋の隅に布を広げた。荷車から木箱を持ってくると、工具と幾つかの部品らしきものを布の端に並べた。暖房機を敷布に乗せ、まずは小さなブラシで丁寧に汚れを落とし始めた。ヴェルナはその様子を見て、マッチを擦り、ガス台でお湯を沸かし始めた。ルーは手際よく機械を掃除している。壁に寄りかかりその姿を眺めていると、ルーにかすかに好感を持ち始めていた。集落の人間以外と話すのは久しぶりだった。
「それ、親父の形見なんだ」
ルーは手を止め、軽く振り返った。ベージュのカバーオールの腰に皴が出来た。
「そうなんですね」
それだけ言ってまた作業に戻った。疎まれる感じでもなかったので、ヴェルナは話し続けた。
「俺は学校を卒業してすぐ街に出たんだけど、ここでガス工やってた親父が去年死んで戻ってきたんだ。戻ってきたらほんと、家財は最低限だけで、あとはそれがぽつんと置いてあったんだ」
ガスの火を少し弱めた。ルーは暖房機のカバーを外して、内部の機械を持ってきたパーツと入れ替えている。ポットに茶葉を入れた。ルーに背を向け、ポットにお湯を注いでいると、キィキィと音がした。振り返ると内部のハッチの蝶番に油をさしている。立膝で座っているルーの横には外した部品が置かれていた。目が合った。
「お茶にするかい?」
「恐縮です、部品の交換はもう終わったので」
部屋はガス灯が灯り、また卓上にはランプがあり、質素な部屋を照らしている。気まぐれに花瓶として使うつもりだった緑色の瓶が、用途を成すことなく、ただその色をテーブルに映している。
何か食べるかと尋ねたものの、ルーが固辞したのでヴェルナもお茶だけを口にした。
「なんで親父はこんなものを買ったんだろう。それもどこで手に入れたんだか」
「まず新品でないことは確かですね。製造はずっと前に中止しているので。例えばガス工さんだったら、請負先で不要になったのを引き取ったとか、そういうパターンでは」
ルーはカップに口を付けた後に訊いた。
「いつごろからあるんでしょう」
ヴェルナは記憶をたどるように上を向いた。
「母が死んで、その年だと思う。そのころには俺はもう街に出てしまったんだ」
ルーは自分の手の甲に付いた油をじっと見ている。
「ほんとに使ってたんだろうか。親父がこんなものを」
二人で機械を見る。
「ただの暖房機ですよ」
ルーが静かに話し続けた。
「私は、この機械、あんまり得意じゃないんです。電気やガスの機械みたいに何かに接続されてるわけじゃないのに動きますよね。機構なんかは酷く精密に出来てるくせに、動力の正体が分からないんです。でも、短い期間とはいえ、多くの人が何かも分からないまま使っていたんです。さっきのカタログに他の商品も載っていたでしょう? 機能が大して変わらないのに値段の差ばかり大きいんです」
ルーの表情は呆れるというより困っている風に見えた。
やがて立ち上がり、先ほどのハッチを開けて何かを取り出した。
道具箱の中から新しい布を出し、それを拭いてヴェルナに寄こした。
それは見覚えのある母のネックレスと、家族写真だった。
「私は迷信だと思ってますが、感情鉱石という名前からか、自分の大事な、感情を動かすものをハッチに仕舞うんです。入れなくても動きます。でも、この機械を使う人は違うという方が多いんです」
ヴェルナは声も出なかった。写真には幼い自分と、母と、そして父が写っていた。
独り、この機械を前にした父を思い浮かべ、ヴェルナの喉が詰まった。
「父は騙されていたのかな?」
「それはどうでしょうか」
「さみしかったんだろうか」
「……どうでしょうか」
ヴェルナは両手にネックレスを包み込んで、しばらくしてルーを見た。ルーは窓の方に視線を向けていた。そのルーの横顔を見たとき、ヴェルナの奥底にあった記憶が小さな小さな爆発を伴ってよみがえった。
「これはまだ家族がそろっていたときの、なんでもない日だったけど、父がとても悲しそうな顔を見せたことがあったんだ。本当に何の不幸もない、いつものように母は夕飯を作っていて、俺はこのテーブルで宿題をしていて、仕事から帰ってきた父が窓際の椅子に座って、片手にはいつもの酒のグラスがあって」
ルーは長いまつげをぱちぱちとしながらヴェルナの話を聞いている。
「窓が開いてて、森の向こうには夕方から電灯がともってて、戦争も終わったし、ガス工の仕事がなくなったわけでもない。ただその夕陽を見て、窓からの風で髪を揺らして、でも目が潤んでて」
ヴェルナはそこまで話してハッとしたように黙った。
ルーは愛想笑いなのか、ここに来て初めて口元を緩めた。そして
「電気というのは、正と負で揺らいでいないと流れていかないそうです。どちらか一方だけに留まっているわけじゃないそうです。人間の感情もそれに似てると言えば、ほんの少し、あの機械も理解できるかもしれません」
といった。
じゃあお代をと、ルーに手渡そうとして言った。
「ハンクから値段聞いてたけど、ちょと安くない?」
「このあと山の向こうで二件仕事があるので出張費は三分の一です」
そのあと、ハッチに写真などを戻す場合の手順を教わった。
「入れるかどうかはお任せします」
とルーは言った。
「直してくれて、どうもありがとう」
ヴェルナが無理やり持たせた、すぐ口に入れられる食料を荷車に積んで、ルーがエンジンをかけた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
去っていくバイクの荷車に貼られた宣伝の文字がヴェルナの目に留まった。
【出張修理:サザンカ精工】
【修理:なんでも】
【買取:役に立たないものだけ】
夜の闇は深まり、空にはわずかな星がきらめいていた。




