第75話:霞が関の終焉、あるいは悪魔の遊戯
深夜の静寂を切り裂くように、乃木総理からのダイレクト電話が司の手元で震えた。通話ボタンを押すなり、受話器の向こうからは理性を失い、興奮で裏返った乃木の絶叫が響き渡る。
「貴様ッ! 何のつもりだ、クロノス! 何をしたか分かっているのかッ!!」
司は、くるみの部屋の片隅で、散乱した雑誌を適当に避けながら、ひどく退屈そうに耳を離した。
「……そんなに大声を上げなくても聞こえてますよ、乃木先生。一体何のことですか? 夜中に騒ぐと近所迷惑ですよ」
「しらばっくれるな! 国家情報省だ! 建物ごと跡形もなく消え去っている! 内部の人間も、データも、すべてだ! 貴様が、アルカディアがやったんだろうッ! 何の目的だ、言え! 私を……私を失脳させるつもりか!?」
乃木の言葉には、犠牲になった数百人の職員への哀悼など微塵もなかった。あるのは、自分の政治生命を支える「目と耳」を奪われたことへの、ただ醜い保身の恐怖だけだ。司は、無意識のうちに口角が蔑みに歪むのを感じた。
「あぁ、あれですか。……ペナルティですよ、乃木先生」
「ペナルティだと……!?」
「先日、私の車の後をつけたでしょう? 監視をつけたでしょう? あれ、すごく不快だったんですよ。だから、その当然の報いを与えただけです」
「な……そんな、そんな理由で、国家の最高機密機関を壊滅させたというのか!? 狂っている! 貴様、自分が何をしたか……!」
「喚かないでください。乃木先生では、逆立ちしても私やアルカディアを潰すことなんて無理ですよ。せいぜい、新しく官房長官に復帰する神崎さんなら、もしかしたらアルカディアを壊滅させるくらいのゲームを仕掛けてくれるかもしれませんけどね」
司は冷たい声で、乃木の心臓に言葉を突き立てた。
「乃木先生に決定的に欠けているのは、己で何かを成そうとする意志ですよ。他人を使い捨て、自分は安全な場所で震えているだけ。あなたでは、何も進まない」
「貴様だって……貴様だって同じだろうッ! 自分の手を汚さず、化け物たちに殺させているだけじゃないか!」
乃木の反論が、一瞬だけ司の胸の奥に引っかかった。だが、彼はそれを瞬時に無機質な虚無へと追い払った。
「……まぁ、とにかく。神崎官房長官が復帰しましたら、いよいよ再戦ですね。これは面白いゲームになりそうですよ。あ、ちなみに」
司は、電話を切る直前、ひどく軽薄な、だが逃れられない死の宣告のような声で付け加えた。
「国家情報省だけが標的だと思わない方がいいですよ。……おやすみなさい、乃木先生」
ツー、ツーという無機質な切断音が乃木の耳に響く。
同時刻。
帝都の官庁街、霞が関。財務省の本館正面に、ミカラムと十体のレッドセラフィムたちが、闇に溶け込むように立っていた。
「……掃討を開始せよ。生存者は不要だ」
ミカラムの氷のような号令と共に、真紅の悪魔たちが動き出した。
深夜の財務省。窓からは、明日の国会答弁のための資料作成に追われる職員たちの、疲れ切った灯りが漏れている。彼らは自分たちの頭上に、地獄の蓋が開いたことすら気づいていなかった。
突如、一階の正面玄関が爆風を伴って吹き飛んだ。
「な、なんだッ!?」
警備員が声を上げる間もなく、一体のレッドセラフィムが音を置き去りにする速度で肉薄した。真紅の鋼鉄のような掌が、警備員の顔面を鷲掴みにする。
メキッ、という嫌な音と共に、頭蓋骨が完熟した果実のように簡単に握り潰された。鮮血と脳漿がエントランスの白大理石を真っ黒に汚していく。
レッドセラフィムたちは、階段やエレベーターを無視し、垂直に壁を駆け上がった。
三階、主税局。
「あぁ、この答弁書じゃ大臣に怒られるよ……」
呻くようにパソコンを叩いていた若手官僚の背後に、真紅の影が音もなく降り立つ。
彼が振り返る前に、セラフィムの鋭利な手刀が首筋を薙いだ。首が胴体から離れ、数秒間、首のない身体が机に向かって律儀にキーボードを叩き続けた後、噴水のような血を撒き散らして倒れ込んだ。
そこからは、阿鼻叫喚の屠殺場となった。
レッドセラフィムたちは、逃げ惑う職員たちを「捕食」するように追い詰めた。
「助けてくれ! 私はただの公務員だ、政治には関係ないッ!」
悲鳴を上げながら廊下を走る中堅幹部の背中に、セラフィムの放った収束粒子砲が直撃した。熱線は彼の胴体を正確に貫通し、内臓を一瞬で蒸発させた。空いた穴からは炭化した脊椎が覗き、彼は絶叫すら間に合わず、前のめりに倒れて肉塊と化した。
ある部屋では、十数人の職員たちが扉に鍵をかけ、デスクを盾にして震えていた。
だが、そんな薄っぺらい抵抗は、旧型の三倍の出力を誇るレッドセラフィムの前では無意味だった。
ドォォォォォンッ!!
壁が物理的な暴力によって粉砕され、瓦礫と共に真紅の死神が躍り込んだ。
「やめろ……やめてくれッ!」
リーダー格の男が叫ぶが、セラフィムは無機質な瞳で彼を見つめ、その両脚を掴んで左右に引き裂いた。生きたまま股裂きにされた男の、喉が張り裂けるような絶叫が深夜の財務省に響き渡る。
レッドセラフィムは、ただ殺すだけでは飽き足らず、その異常なパワーを建物の破壊へと転じさせた。巨大な支柱を一本ずつ、飴細工を折るように粉砕していく。
崩落する天井。押し潰される官僚たち。
ある者は崩れたコンクリートの下敷きになり、下半身を潰されながらも必死に助けを求めて手を伸ばしたが、セラフィムはその掌を無情に踏み抜き、そのまま頭部を蹴り飛ばした。
財務省本館の中枢、大臣室付近。重厚な木製の扉を、セラフィムが「熱」で焼き切る。
中にいたのは、国家の財政を司ることに誇りを持っていたはずのエリートたちだった。だが、今や彼らはただの怯えた小動物に過ぎなかった。
レッドセラフィムたちは、彼らを一人ずつ壁に並べると、指先から放たれる熱線で、キャンバスに絵を描くようにその肉体を切り刻んでいった。
「ア、ガ……ッ、アアアァァァッ!!」
生きたまま手足を一本ずつ、断面を焼きながら切断される苦痛。部屋中に、焦げた肉の異臭と、絶望の膿が充満する。
掃討戦は二十分に及んだ。
国家の金脈を司る最高機関にいた数百人の職員たちは、誰一人として五体満足で外に出ることは叶わなかった。廊下は、千切れた四肢と、誰のものか判別もつかない内臓の絨毯で埋め尽くされていた。
「……目標の完全沈黙を確認。構造崩壊に移行する」
ミカラムの淡々とした報告が、司の元へ届く。
直後、財務省の地下に埋め込まれたエネルギー発生源が暴走し、内側から爆発的な熱量を解放した。凄まじい地鳴りと共に、霞が関を象徴する歴史的な重厚な建造物が、膝をつくようにゆっくりと崩落していく。数千トンの瓦礫が、まだ息のあったかもしれない数名の職員たちを、永遠の暗闇の底へと押し潰した。
アルカディア本部のモニターで、その光景を見守っていた司は、特に感慨も抱かずに目を逸らした。彼にとって、財務省には戦略的な意味も、政治的な意図も、これっぽっちも存在していなかった。
「……国家情報省の近くだったから」
ただそれだけの理由。ついでに掃除した、という程度の感覚。
司にとって、国家を揺るがすテロリズムも、建物の破壊も、すべては日々を侵食する「退屈」を紛らわせるための、取るに足らない暇つぶしの一つに過ぎなかったのだ。




