【虚構の都】
その日のウォーターシップダウンは鉛色の雲に覆われていた。
湿った風が草原を撫で、遠くの森をざわめかせている。
雨が降る前の、土と草の匂いが濃厚に立ち込める午後だった。
「少し、散歩に行ってくるよ」
ラボの玄関でフリーテルは短くそう告げた。
いつもの白衣ではなく、厚手の灰色のコートを羽織り、首元にはマフラーを巻いている。
その服装は、これから向かう場所の寒さを警戒してのものではなく、あるいは誰かに会うための正装のようにも見えた。
「お夕食までには?」
キッチンの奥からエプロン姿のクラリスが顔を出した。
彼女は手元の作業を止めず、視線だけで姉の意図を問うた。
その瞳にはすでに全てを察したような静かな色が宿っている。
「いや、今日は遅くなるかもしれない。先に食べていてくれ」
「そうですか」
クラリスは、それ以上何も聞かなかった。
「危険です」とも、「お供します」とも言わなかった。
これから姉が向かう場所が自分たち以外の何者も拒絶する、死の世界であることを知っているからだ。
「お土産は期待しないでおきます。あそこにはもう、瓦礫と塵しか残っていませんから」
「ふふ、そうだね」
フリーテルは小さく苦笑し、重い鉄扉を開けた。
湿った風が吹き込み、彼女の短い金髪を揺らす。
「行ってくるよ」
扉が閉まる重厚な音が、日常と非日常を分かつ境界線のように響いた。
集落を抜け、森を越え、さらに北へと歩を進める。
半日も歩くと、周囲の植生が明らかに変化し始めた。
青々としていた草木は次第に色を失い、灰色に枯れ果てていく。
地面は黒く乾き、踏みしめるたびにジャリッ、ジャリッという乾いた骨を踏むような音が響く。
空の色も、鉛色からどこか不吉な赤紫色へと変わっていた。
ここから先は、地図には存在しない場所。
かつて白堊理研が誇った第3管理都市・ブラッディーマリーの管区跡地である。
フリーテルは懐から旧式のガイガーカウンターを取り出した。
スイッチを入れた瞬間、針が振り切れけたたましい警告音が鳴り響いた。
『WARNING. WARNING. High Radiation Level Detected.』
『警告。致死性ヘキサグラム汚染濃度、基準値の5000倍を超過。直ちに退避してください』
「……相変わらず酷い空気だ」
彼女は顔をしかめることもなく、無造作にカウンターの電源を切った。
常人であれば防護服なしで足を踏み入れれば数秒で肺が焼け爛れ、数分で全身の細胞が崩壊して死に至る地獄の釜の入り口。
だが、彼女にとってはこの猛毒こそが身体を巡る血液のように馴染み深いものだった。
彼女の体内で無尽蔵に増殖を続ける癌細胞は、周囲の汚染物質すらもエネルギーとして貪り食う。
この死の世界において、彼女だけが唯一呼吸を許された異物だった。
丘を越えた瞬間、視界が開けた。
フリーテルは足を止めた。
眼下に広がるのは広大な盆地を埋め尽くす廃墟の海だった。
かつては白く輝く摩天楼が林立し、完全な秩序によって統制されていた未来都市。
感情を持たない市民たちが幾何学的に整備された街路を行き交い、KARMAが全てを管理していた理想郷。
しかし今、そこにあるのは赤黒い結晶に浸食されたコンクリートの墓標群だけだった。
折れ曲がった高層ビルの鉄骨が肋骨のように空を突き刺している。
崩落したハイウェイが巨大な蛇の死骸のように地上を這っている。
そして、都市全体を包み込むように滞留する濃密な赤い霧。
それは、都市の中枢にあったブラッディーマリー結晶炉が暴走し、臨界事故を起こした際に放出された高純度の汚染物質だ。
風に乗って舞う赤い粒子が雪のように静かに降り積もっている。
「久しぶりだね、ブラッディーマリー」
フリーテルは呟いた。
その声は広大な廃墟に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
かつて、彼女がフレデリカ・マーキュリーと名乗り、この都市を混乱に陥れようと暗躍していた日々。
退屈で、無機質で、けれど確かに人々が生きていた白き檻。
今はもう見る影もない。
MSGVFの猛攻とKARMAの冷酷な防衛プログラムによって焼き尽くされた都市は、静寂という名の死に絶えていた。
「君たちの望んだ『永遠の静寂』はこういう形だったのかい?」
彼女は誰に問うでもなく丘を下り始めた。
赤い霧が彼女の身体を包み込む。
その霧の向こうに、かつての亡霊たちが手招きしているような気がした。
廃墟のメインストリートへと足を踏み入れる。
かつては中央管理大通りと呼ばれ、真っ白な清掃ロボットによって塵一つない状態に磨き上げられていた場所だ。
今は赤い結晶化した砂がアスファルトを覆い隠し、所々に炭化したヘキサギアの残骸が転がっている。
風化して塗装が剥げ落ちた看板には『秩序こそ幸福』『KARMAは見ている』というプロパガンダの文字が虚しく読み取れる。
フリーテルは瓦礫を踏み越えて歩く。
足元で、何かが砕ける音がした。
見下ろすとそれは子供が遊んでいたであろう古びた人形の頭部だった。
プラスチックの表面は熱で溶解し、赤黒い結晶が寄生している。
「……」
彼女は表情を変えずに通り過ぎる。
感傷に浸るには、ここはあまりにも死の濃度が高すぎた。
ふと、視界の端で何かが揺らいだ。
物理的な風ではない。
もっと高次元の情報の干渉。
『……ケテ……タス……テ……』
ノイズ交じりの声が脳内に直接響いてくる。
赤い霧が渦を巻き、人型の影を形成していく。
それは幽霊ではない。
高濃度のヘキサグラム汚染空間において、死に際の強烈な思念や情報が空間そのものに焼き付けられた情報の残響だ。
フリーテルは立ち止まり、その影を見つめた。
逃げ惑う市民の影。
崩れ落ちる壁に押しつぶされる瞬間の影。
そして、何かを叫びながら消えていく兵士の影。
この都市が死んだ日。
その瞬間の絶望がこの赤い霧の中には永遠に保存されている。
「ああ、聞こえるよ」
フリーテルは亡霊たちに語りかけるように、静かに目を細めた。
「君たちの怨嗟も、後悔も、痛みも。僕には痛いほどよく見える」
彼女の瞳が科学者の冷徹さと、少女のような残酷さを帯びた光を放つ。
「さあ、見せておくれ。かつて僕が憎み、愛し、そして壊そうとした、あの退屈で美しい『白き檻』の最期を」
赤い霧が濃くなり、世界が反転する。現在から過去へ。
フリーテルの意識は、まだ都市が生きていた時代。フレデリカ・マーキュリーが生きていた時間へと、深く沈行していった。
世界が白に塗り潰されていく。
赤い霧が晴れると、そこには目が眩むような白があった。
塵一つない舗装道路。幾何学的にデザインされた純白の高層ビル群。
空調によって完全に管理された無臭で適温の空気。そこは、白堊理研が作り上げた完璧な実験場。
第三管理都市・ブラッディーマリー
まだこの都市が生きていた頃の記憶だ。
通りを行き交う市民たちは皆一様に白い衣服を纏い、胸には識別番号だけが記されている。
彼らの歩調はメトロノームのように一定で、無駄な会話も、笑い声も、怒号もない。
ただKARMAから与えられた役割を遂行するためだけに動く、血の通った機械部品たち。
『市民番号4088、心拍数が上昇しています。推奨される鎮静剤を摂取してください』
『エリアD-3、清掃完了。効率評価、AA』
街の至る所にあるスピーカーから合成音声のアナウンスが流れる。
それは音楽のように滑らかで、そして死ぬほど退屈な旋律だった。
その完璧な静寂の中に。
場違いなヒールの音が響いた。
カツン、カツン、カツン。
「あーあ。相変わらず吐き気がするほど綺麗な街だね」
大通りの真ん中を、一人の少女が歩いていた。
白い制服の群れの中で彼女だけが異質だった。
短く切り揃えられた金髪。
その身を包むのは白衣ではなく、仕立ての良い黒いドレスと、深紅のリボン。
そして何より、その碧眼にはこの街の住人が去勢されたはずの不遜な光が宿っていた。
彼女の名はフレデリカ・マーキュリー。
後にフリーテルと呼ばれることになる、悪を自称する天才科学者。
「ねえ、そこの君」
フレデリカはすれ違いざまの男性職員に声をかけた。
「……」
男性は立ち止まり、無表情に彼女を見る。
「君、今日の空の色をどう思う?」
「……現在、天候制御システムは正常に稼働中。空色は規定値WHITEにより最適化されています」
「ははっ、傑作!」
フレデリカはケラケラと笑った。
まるで面白いジョークを聞いたかのように腹を抱えて笑った。
「規定値だって!自分の目で見て綺麗だとか、薄気味悪いとか、そういう感想はないわけ?ああ、そうか。君には『心』がないんだったね」
彼女は男性の胸にあるIDプレートを指先で弾いた。
「つまらない奴、壊しがいがない」
興味を失った彼女が指を鳴らすと、男性職員の持っていたタブレット端末が火花を散らし、瞬時にハッキングされた。
画面にはKARMAのロゴの代わりに、舌を出して笑う道化師のアイコンが表示される。
「せいぜいその完璧な檻の中で飼われていなさいな。壊れるその時までね」
彼女がこの都市に潜入したのは単なる気まぐれだった。
白堊理研のセキュリティを突破し中枢にある機密データを盗み出す。
それは彼女にとって、散歩のついでに行うパズルゲームのようなものだ。
彼女はセキュリティゲートを顔パスで通過し、都市の地下深くに位置する重要区画へと降りていった。
そこは地上以上に冷たく、静謐な場所だった。
壁一面に埋め込まれたサーバーが青白い光を明滅させている。
その最奥に巨大なガラス壁で隔てられた空間があった。
『ブラッディーマリー結晶炉』
都市の動力源であり、高純度のヘキサグラムを精製する心臓部。
赤く脈打つ巨大な結晶体が空中に固定され、眩い光を放っている。
「ふうん、これがこの街の心臓か」
フレデリカはガラス越しにその毒々しくも美しい輝きを見つめた。
「すごいエネルギーだね。これを暴走させたらこのお上品な街なんて一瞬で消し飛ぶんじゃないかな?」
「それを望んでいるのか?」
背後から男の声がした。
フレデリカは驚く様子もなく、優雅に振り返った。
そこに立っていたのは、白衣を着た一人の研究員だった。
他の市民と同じように無表情だが、その瞳だけはどこか深い井戸の底のように暗く、静かだった。
「あらら、見つかっちゃった。警備ドローンを呼ばないの?『不審者がいます』って」
「呼んでも無駄だろう。君はすでにこのエリアの監視システムを掌握している」
研究員は手元の端末を操作することもなく、淡々と言った。
「君は『フレデリカ・マーキュリー』だな。指名手配中の反社会的な科学者」
「ご名答、サインでもしてあげようか?」
フレデリカは挑発的に微笑む。
だが、研究員は動じない。彼はただ、ガラスの向こうの結晶炉を見つめ返した。
「君の言う通りだ。このエネルギーはあまりに強大すぎる。我々は、火薬庫の上で永遠の平和を演じているに過ぎない」
その言葉に、フレデリカは眉をひそめた。
「何それ。君もこの街が『異常』だって分かっているの?」
「分かっているさ」
研究員は静かに頷いた。
「ここは檻だ。思考を放棄し、KARMAに委ねることで成立する安寧という名の死。
だが、外の世界の混沌よりはマシだと思わないか?」
「思わないね!」
フレデリカは即答した。
「傷つくことも、迷うことも、間違えることもない人生なんて、死んでいるのと同じさ!僕は生きている。誰かに管理されるくらいなら泥の中でのたうち回って死ぬ方を選ぶよ!」
彼女の言葉は、冷たい研究室に熱を持って響いた。
研究員は少しだけ目を見開き、そして微かに、本当に微かに口元を緩めたように見えた。
「そうか、君はまるで『毒』のような人だ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「ああ、褒めているとも。この真っ白な世界には、君の赤色は鮮やかすぎる」
その時。
都市全体を揺るがすような、重低音の警報が鳴り響いた。
『Emergency. Emergency.』
『外郭防衛ラインに、所属不明機の接近を感知。』
『識別信号……MSGVF。規模、測定不能』
無機質なアナウンスが、終わりの始まりを告げる。
「おっと、おしゃべりはここまでみたいだね」
フレデリカは天井を見上げた。
白い天井の向こうで、何かが崩れる音が聞こえる。
「来たよ、君たちが恐れていた『混沌』が」
「ああ、予定されていた破滅だ」
研究員はまるでこうなることを知っていたかのように、静かに目を閉じた。
「逃げたまえ、フレデリカ。この街はもう終わる」
「君はどうするんだい?」
「私は、最後まで見届ける義務がある。この虚構の都の最期をね」
フレデリカは一瞬、彼の手を引こうか迷った。
だが、彼の瞳にある諦念を見てそれをやめた。
彼はこの白い檻と心中することを選んでいる。
「馬鹿な人だね。せいぜい綺麗な死に顔で逝きなさい」
フレデリカは背を向け走り出した。
彼女の背後で研究員が何かを呟いた気がした。
だが、その言葉は爆発音にかき消され、彼女の耳には届かなかった。
白かった世界に亀裂が走る。
天井が崩れ、瓦礫と共に赤が降り注ぐ。
記憶が燃え上がっていく。
ズガァァァァァァン!!
「……ッ!」
フレデリカは爆風に煽られ、長い廊下を転がった。
白かった壁が粉々に砕け散り、鉄骨が剥き出しになる。
その隙間から見えたのは完璧な幾何学模様を描いていた街区が、黒い煙とオレンジ色の炎に蹂躙されていく光景だった。
空を覆うのはMSGVFの航空部隊。
地上を埋め尽くすのは第三世代ヘキサギアの群れ。
「ハハ、派手にやってくれるじゃないか」
フレデリカは煤けた頬を拭い、瓦礫の陰からその光景を睨みつけた。
「僕がこの街を壊すときは、もっと芸術的に、内側から崩壊させるつもりだったのに。これじゃあ、ただの暴力だね。美学がない」
彼女は悪態をつきながらもその表情には焦りが滲んでいた。
この破壊の規模は一人の天才が退屈しのぎに起こす悪戯のレベルを遥かに超えている。これは戦争であり、虐殺だった。
「市民番号5022、避難経路へ移動中。……きゃあっ!?」
「市民番号3391、負傷。救護班を……」
廊下の向こうから市民たちが整然と、しかし早足で歩いてきた。
彼らの顔には恐怖という感情が希薄だった。
目の前で同僚が瓦礫の下敷きになっても、彼らは叫ばない。ただ、KARMAから推奨された最適化された避難行動を淡々と遂行しようとしていた。
ドォォォン!!
直撃弾がビルを貫通する。
市民の列が吹き飛び、白い制服が鮮血で汚れる。
「気持ち悪いね、本当に」
フレデリカは舌打ちをした。
死ぬ瞬間まで管理されている。叫び声すら上げずに肉塊に変わっていく。
それは彼女が最も忌み嫌う人間性の欠如だった。
「おい君たち、 こっちだ!そのルートはもう崩落している!」
彼女は思わず叫んでいた。
だが、市民たちは足を止めない。
「警告。当該ルートは推奨されていません」
「避難プロトコルに従い、A-4ルートへ進行します」
「馬鹿か、君たちは!A-4ルートは今しがた爆撃された場所だよ!」
彼女の声は届かない。
市民たちは炎の壁に向かって行進し、そして次々と焼かれていった。
清掃ロボットが燃え盛る死体の横で、床に飛び散った血を汚れとして認識し、機械的に拭き掃除を続けている。
狂気の世界だった。
フレデリカは走った。
地上はもう駄目だ。脱出艇のあるハンガーへ向かうしかない。
だが、彼女がアクセスしたメインコンソールに表示されたのは脱出ルートの表示ではなく真っ赤な警告文字だった。
『CODE: PURGE』
『防衛ライン突破を確認。機密保持プロトコル発動』
『ブラッディーマリー結晶炉、臨界自壊シーケンスへ移行』
「……は?」
フレデリカの足が止まった。
彼女は震える指でコンソールを叩いた。
「自壊シーケンスだって?まさか敵に街を占領されるくらいなら都市ごと吹き飛ばすつもりかい?」
画面上のカウントダウンが無慈悲に数字を減らしていく。
それは、都市の動力源である巨大なヘキサグラム結晶炉を強制的に暴走させ、高濃度の汚染物質と共に爆縮させるという狂気の焦土作戦だった。
「ふざけるなよ!僕の遊び場を勝手に終わらせてたまるか!」
フレデリカはコンソールに噛みつかんばかりの勢いでハッキングを開始した。
KARMAの防壁を食い破り、自爆コードを解除しようと試みる。
「止めろ、止まれよ!そこにいる市民はどうなるんだ!あの研究員はどうなるんだ!管理するのが君たちの仕事だろう!?なのに最後は使い捨てかい!?」
彼女の指先から電子の刃が次々と撃ち込まれる。
しかし、中枢の防御は鉄壁だった。
そこにあるのは悪意ですらなかった。ただ機密を守るという冷徹な計算式だけが彼女を拒絶した。
『Access Denied.』
『Goodbye, Citizen.』
「くそっ……!!」
フレデリカはコンソールを殴りつけた。
拳から血が滲む。
彼女の才能をもってしても、この巨大なシステムの自殺を止めることはできなかった。
カッ――――。
世界から音が消えた。
都市の地下深くから、太陽よりも眩しい赤が溢れ出した。
結晶炉が砕け散ったのだ。
衝撃波よりも先に、高純度のヘキサグラム汚染の波が都市を飲み込んだ。
白いビル群が一瞬にして赤黒く変色していく。
逃げ惑う市民たちが喉を掻きむしりながら崩れ落ちる。
侵攻していたMSGVFの兵士たちも、ヘキサギアごと機能不全に陥り、沈黙していく。
「……あ、あ……」
フレデリカは床にへたり込み、その光景を見ていた。
彼女の特殊な体質だけが、この致死の光の中で彼女の命を繋ぎ止めていた。
美しい白亜の都市が、ドロドロに溶けた赤い硝子細工のように崩れ落ちていく。
その中心で、無数のヘキサグラムが雪のように舞い上がった。
それは、彼女が見たどんな実験よりも残酷で、そして皮肉にも、涙が出るほど美しかった。
……。
…………。
「……」
フリーテルは目を開けた。
赤い霧の中。
現在のブラッディーマリーの廃墟に彼女は立っていた。
「そうだったね。僕は何も守れず、何も壊せず、ただ見ていただけだった」
彼女の目の前を赤い霧でできた人影が通り過ぎていく。
それは情報の残響。
あの日、あの瞬間、死んでいった人々の断末魔が永遠に繰り返されている幻影。
『熱い……熱い……』
『逃げなきゃ……プロトコル……』
『ママ……?』
無数の声がフリーテルの鼓膜を叩く。
彼女は表情を変えずに、その地獄のような合唱の中を歩き出した。
向かう先は、都市の中心。
全ての始まりであり、終わりである場所。
砕け散った結晶炉の跡地へ。
赤い霧の密度が一歩進むごとに濃くなっていく。
ここは都市の中心部。かつてブラッディーマリー結晶炉が存在した爆心地だ。
フリーテルは瓦礫の山を登りきった。
その視界に飛び込んできたのは、現実とは思えない光景だった。
「……ハハ。これはまた、派手な墓標だね」
そこには、巨大な赤の槍が天を突いていた。
暴走した結晶炉から噴出した高純度ヘキサグラムが瞬時に冷却・凝固し、数百メートルもの巨大な結晶柱となって大地を貫いているのだ。
その周囲には、ドロドロに溶けて結晶と融合したビルの残骸が、波打つように広がっている。
白かった都市の面影はない。
あるのは赤と黒の、静寂の世界だけ。
フリーテルは結晶柱の根元へと歩み寄った。
ここが最も汚染濃度が高い。
並のヘキサギアなら近づいただけで制御系が焼き切れるレベルだ。
しかし、彼女の身体は歓喜していた。
体内の細胞が空気中の毒素をエネルギーとして貪り食い、活性化している。
(皮肉なものだ、この死の世界で僕だけがこんなにも生き生きとしているなんて)
自嘲気味に笑った時。
巨大な結晶の陰に、ひとつの影が立っているのを見つけた。
それは他の亡霊たちのように逃げ惑ってはいなかった。
ただ静かに空を見上げて佇んでいる。
白衣を着た、研究員の姿。
「……やあ、また会ったね」
フリーテルは声をかけた。
あの時の名も知らぬ研究員。
都市と心中することを選んだ彼の情報の残響だ。
影はゆっくりと振り返った。
その顔はノイズで歪んで見えない。だが、その暗く静かな瞳だけが、確かに彼女を認識したように感じられた。
「君の望み通りになったかい?」
フリーテルは問いかけた。
「完璧な静寂。誰にも邪魔されない安寧。ここは君が言った通り、外の世界のどんな場所よりも静かだ」
亡霊は答えない。
ただ、その身体から立ち昇る赤い粒子が微かに揺らめいた。
それは肯定のようにも、あるいは深い悲嘆のようにも見えた。
「僕はね……悔しいよ」
フリーテルは本音を漏らした。
普段の彼女なら決して口にしない、弱音。
「僕はこの白い檻が嫌いだった。でも……こんな形で終わらせたくはなかった。君たちが信じた秩序が最後は君たち自身を焼き尽くすなんて……そんな結末、あまりにも救いがないじゃないか!」
彼女は握りしめた拳を見つめた。
あの時、コンソールを叩き割るほどに抗った指先。
今はもう何も掴めない。
亡霊がふっと手を伸ばした気がした。
フリーテルの頬に触れようとするかのように。
しかし、その手は触れる直前で霧散し、赤い風となって消えた。
『…………』
最後に、彼が何かを呟いたように聞こえた。
「ありがとう」だったのか、「さようなら」だったのか。
それとも、ただのノイズだったのか。
後に残されたのは風の音だけだった。
フリーテルは一人、巨大な結晶柱の前に取り残された。
虚しさが、胸の穴を吹き抜けていく。
「……手ぶらで帰るのも癪だね」
彼女は跪き、地面に積もった赤い砂を両手で掬い上げた。
そして意識を集中させる。
ズズズッ……
彼女の手の中で赤い砂が蠢いた。
汚染物質を養分として、急速に結晶構造が組み変わっていく。
茎が伸び、葉が広がり、そして蕾が膨らむ。
パァン。
小さな音と共に、彼女の手のひらで一輪の赤い結晶花が咲いた。
毒々しくも宝石のように美しい花。
「……手向けだ。受け取っておくれ」
フリーテルはその花を研究員の亡霊が消えた場所に供えた。
「この猛毒の世界で花を咲かせられるのは、僕みたいな化け物か、君たちの妄執くらいだからね」
赤い大地に、一輪の赤。
それは誰の目にも触れることなく永遠に咲き続けるだろう。
この都市が生きていた証として。
フリーテルは立ち上がり、踵を返した。
もう、振り返らなかった。
赤い霧の中を出口に向かって歩き出す。
その背中は来た時よりも少しだけ小さく、そして少しだけ晴れやかに見えた。
過去の幻影との対話は終わった。
彼女にはもう帰るべき場所があるのだから。
丘を登りきると空気の味が変わった。
喉を焼くような鉄錆と結晶の味が消え、湿った土と草の匂いが肺を満たす。
フリーテルは足を止め、振り返った。
眼下に広がる赤い霧の海。
その深淵に沈む、かつてのブラッディーマリー。
夕闇が迫り、赤かった霧は徐々に黒い闇へと同化していく。
「……さようなら」
彼女は短く告げた。
それは都市への別れであり、かつてフレデリカ・マーキュリーとして振る舞っていた自分自身の亡霊への別れでもあった。
境界線を越える。
そこには当たり前の風が吹き、鳥が鳴く、生きた世界があった。
森を抜け、ウォーターシップダウンの集落が見えてきた頃には日はすっかり落ちていた。
ラボの窓から暖かなオレンジ色の光が漏れている。
「……ただいま」
重い鉄扉を開けると、美味しそうな匂いが漂ってきた。
クリームシチューの匂いだ。
「お帰りなさい、姉さん」
ダイニングからクラリスが顔を出した。
エプロン姿で手にはお玉を持っている。
その表情はいつも通り冷静だが、無事に帰ってきた姉を見て微かに安堵の色を浮かべていた。
「遅かったですね。お夕食、温め直しますか?」
「ああ、頼むよ。お腹が減って死にそうだ」
フリーテルは灰色のコートを脱ぎ、マフラーを解いた。
その瞬間、身体に纏わりついていた死の気配が消え失せ、いつもの尊大な科学者の顔に戻った。
「ボス、おつかれさん」
「フリーテル!遅いよー!」
奥の部屋からミヒャエルとノエルが飛び出してきた。
「聞いてくれよ、今日リンと賭けしたら大負けしちまってよ」
「僕ね、新しいお絵描きをしたんだよ!見て見て!」
二人はフリーテルの周りにまとわりつき、今日あった出来事を口々に報告し始める。
騒がしくて、遠慮がなくて、そして圧倒的に生きている声。
あの静寂の都とは対極にある、泥臭い生命の輝き。
「はいはい、分かったから。まずは着替えさせてくれたまえ」
フリーテルは苦笑しながら二人を軽くあしらう。
だが、その手つきは優しかった。
「……姉さん」
クラリスが静かに問いかけた。
「過去の幽霊とは、お話できましたか?」
フリーテルは椅子に座り、スプーンを手に取った。
湯気の向こうに、あの赤い結晶花と研究員の幻影を思い出す。
「ああ、相変わらず退屈で真面目な連中だったよ」
彼女はニヤリと笑った。
かつて悪として世界を嘲笑っていた頃の、しかし今はもっと温かみのある笑みを浮かべて。
「君たちの言う通りだ。今のこの生活の方がずっと刺激的で、面白い」
「そうですか、それは何よりです」
クラリスもまた、小さく微笑んだ。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
「いただきます!」
フリーテルはシチューを口に運んだ。
温かい。野菜の甘みと肉の旨味が広がる。
それは管理された栄養食では決して味わえない、生の味がした。
窓の外では夜風が吹いている。
北の空には、まだ微かに赤い光が見えるかもしれない。
けれど今の彼女にはもう関係のないことだった。
ここが彼女の帰る場所。
騒がしくて愛おしい、最果ての楽園なのだから。




