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後編-②

 この王宮の中庭は美しい。わたしの大好きな菫園ほどではないし、菫は咲いていないけれど。それでも王宮の中では、特に好きな場所だった。

 季節は冬を過ぎ、春も半ば。外を歩けばうららかな春の日差しが出迎えてくれる。どこもかしこも新たな命が芽吹き、生き急いでいる。


 ここ数か月、騒がしかった城内がようやく落ち着いてきたようだった。そのおかげでわたしは中庭に出ることを許されて、穏やかな時間を表面上は楽しんでいる。

 アルマなどは閉じ込められて可哀そうに、と冬の間ずっと嘆いていた。それでも陛下のその命令は愛ゆえだと信じ切っているようだった。命令でもなくわたしが自主的に、そうしてもし命令だったとしても愛ゆえ、なんて立派なものではないだろうけれど。


 咲き誇る薔薇の花を前に、わたしはそっと息を吐く。

 あんな夢を見たのは、あの日だけ。それ以降は、特に夢を見ることもなく、つつがなく、恐ろしいほどに平穏に、緩やかに毎日が無駄に流れ過ぎていく。

 だからこそ、異様にあの夢は記憶にこびりついていて。そして、薔薇の花をみてしまえば、否が応でもローレンツ様のことを思い出してしまった。


 あの時、確かに陛下は仰っていた。ローレンツ様は死んだ、と。嘘を言う方ではないし、だからこそあの言葉は異様に重く、ずっとわたしの心にのしかかっている。

 その死の真相をわたしは知らない。それを教えてくれたのが、陛下とエアフルト様だけだから。自分で調べようにも、そういう伝手も一切ない。

 こういう時、自分の過去を異様に恨みたくなる。せめて何かしら情報を得る手段くらいはきちんと作っておくべきだった。なんて、無意味にも思ってしまう。


 つまるところ、わたしは未だにローレンツ様の死を受け入れられていなかった。わたしはあの人が幸せになるために、ここに来た。もう二度とあの人がわたしを見て、疲れてしまわないように。

 それなのに、だって、まるでわたしは、ローレンツ様にかばわれたみたいではないか。そんな風に思ってしまうのだ。

 あのまま、あの国にいて。ローレンツ様と結婚していたら。わたしも、同じように皇帝陛下に殺されていた。それは間違いない。このことも多分、ローレンツ様の死を受け入れられていない原因の一つだ。


 だからなんというか、悲しい。けれどどこか絵空事のような感覚が抜けきらない。内乱も直接見たわけでもなく、あの時二人に聞いたきり。ダールマイヤーに今から行っても、昔と何も変わらない景色が広がっていて、ちょっと困ったように笑うローレンツ様が出迎えてくれるのではないかと夢想してしまう。

 そんなわけないと、ちゃんと頭では分かっているはずなのに。心が追い付いていない、ということなのだろう。こんなだから、最後の最後でローレンツ様に心配をかけて、陛下やエアフルト様に気を使わせてしまうのだ。


 結局中庭に出てきたところで、わたしが考えることは何一つとして変わらなかった。気分転換でもできればと思ったのに。いや、こればっかりはわたし自身が悪い。ちゃんとそのことは分かっている。

 それでも、寝ても覚めても。わたしはあの日から――ローレンツ様が死んだと聞かされたその日から、まるで何かに縛られてしまったかのように、ずっとそのことしか考えられなかった。


 *


 なんだかんだいいつつ、やっぱり室内より外の方が気分はいい。だから結局、昼より前からずっと今まで中庭で佇んでいた。いや、正確にいうならば途中でお昼も食べたし、午後のティータイムも済ませたけれども。もちろん、中庭で。

 誰も何も言わなかったし、きっとよほど久しぶりの外を堪能しているのだと思っているのだろう。それはわたしにとって、とても都合が良かった。


 中庭に出た当初はまだ頂点を超えていなかった太陽も、もう反対側に移って傾き始めている。暖かかった風もすっかり冷たくなり、日差しも緩まってしまったせいで、肌寒い。

 ゆっくりと、冷えた風がわたしを撫でる。思わずふるりと身を震わせてしまった。はしたないかもしれないが、寒いものは寒い。羽織の一つでも持ってきておけば良かったかもしれない。とはいえ、元々これほど長居をするつもりはなかったから、仕方がないと言えばそれまでだった。


 視線を上げて、空を仰ぐ。青々とした綺麗な空は、少しずつ赤らみ始めていて、一日の終わりを感じさせる。流石にそろそろ帰るべきだろう。寒くなってきたのもあるけれど、あまりにも長居しすぎると、アルマたちにも心配を掛けてしまう。既に長居しすぎている、自覚はあるだけに。

 けれども、分かっていても身体は動かない。帰りたくない訳じゃないのに、どうしても足が言うことを聞いてくれない。これは困った。なんて、きっと少しも困っているとは誰も思わないだろう顔で思った。


 結構悩んではいるけれど、それでもどうしようと焦らないのは夕食の前になれば誰かしらが呼びに来ると、分かっているからだろう。心配は、かけてしまう。それでも言い訳はどうとでもなる。

 だから、誰かが来るまでこのままぼうっとしていよう。わたしが、そう心に決めたとき。葉がこすれあう音がした。


 風が吹いて、葉がこすれるような音じゃない。誰かが、人が葉を掻き分けた音だ。

 予想よりもずっと早い音に、警戒しながら視線を落とす。音がした方をじっと見つめながら待っていれば、視界に移った人物にわたしは思わずきょとん、としてしまった。

「ここにいたのか」


 鼓膜を揺らしたのは、ここ何年かで聞きなれた声。抑揚のない、淡々としたその声は聞き間違いようもない。他の誰でもなく、陛下のものだ。

 わたしは慌てて頭を下げようとした。けれど陛下はそんなわたしの動きを、片手一つで制する。

 少し迷ってから、結局陛下の意に沿うことにしたわたしは、僅かに倒していた身体を起こした。かわりに一歩、陛下に近づくように足を踏み出す。固い靴越しに、柔らかな草を踏みしめる感覚がいやに残った。


「どうかされましたか? わたしのことを、探されていたようですが……」

「ああ。そうだ。あなたを探していた」

 陛下の真っすぐなまでの視線が、わたしを射抜いた。

 その視線には安堵と、僅かな緊張が混じっている。どうやらただわたしを呼びに来ただけ、ではないらしい。


 なんとなく、嫌な予感がわたしのなかを通り過ぎていく。

 城内が落ち着いた、ということは。つまり祖国の内乱がある程度落ち着いたか、片が付くめどが立った、ということだ。

 今のところ、陛下が以前仰っていたどうなったか、の報告は聞いていない。


 つまり、そういうことなのだろう。もう、受け入れられないなんて言ってはいられなかった。わたしは覚悟を決めなければならない。

 すべてを受け入れる、覚悟を。


 唐突に訪れたその瞬間は、意外とすんなりとわたしの中に落ちてきた。いや、たぶん。落ちてきた、というよりもきっとまだ、現実感がないから、そんなことを言えるのだと思う。

 冷たさの混じった風が、わたしの頬を、身体を撫ぜた。


「あなたに話がある。ユーディット・ヘルツォーク」

 僅かに目を見開く。まじまじと陛下を見てみたところで、今の陛下の発言が変わるわけではない。

 通り過ぎていった嫌な予感が、わたしの中に戻ってきて、とどまった。その嫌な予感をぬぐうように口を開く。どうしたのかと、そう問いかけようとして。けれどわたしのその言葉は、音にならなかった。


「――いや。ユーディット・シュトルム嬢」

 かわりにひゅっと、喉が変な音を立てた。息が出来なくなる。世界から音が消えて、鮮やかな夕焼けの色も薄れていく。

 足元が崩れ落ちるような感覚が、わたしを襲う。


 わたしは、陛下のその言葉の意味を。わたしを、旧姓で呼びなおしたことの意味が分からないほど、もう無知ではなかった。

 突然だ。本当に突然。どうして。陛下を見ても、その様子はいつもと一切お変わりはない。その声は先ほどまでと寸分たがわず、抑揚のない淡々としたものだ。向けられる眼差しは少し、真剣みを帯びているだろうか。


――ああ、そうか。いや、そうだろう。

 わたしは陛下の話を聞くまでもなく。祖国がどうなったのかの報告がなくても、その結末が見えてしまった。

 終わったのだ。全てが。内乱に決着はついた。勝敗は、言うまでもないだろう。どんなお話の中でも、どんな世界でも。最後は正義が悪に打ち勝つと、決まっている。

 祖国ダールマイヤーは。悪の側であった現皇家とシュトルム公爵家が負けたことによって、新たな体制になるのだろう。

 そうして陛下は、ヘルツォークはその新体制に味方する。

 つまり、わたしという存在が邪魔になったのだ。旧体制を支持したその筆頭であるシュトルム公爵家の直系である、わたしは。


 ぽとん、と心に小さな雫が落ちた。落ちた雫はゆっくり、ゆっくりと広がっていき、心を蝕んでいく。

 仕方がない。分かっている。これは貴族の娘に生まれ、政略結婚した者の運命だ。それでも、いざその時が目の前に迫ってきた今、はいそうですかと簡単に受け入れられるものではない。わたしの身がいく先は、死しか、ないのだから。


 なんて、自分を納得させようとしたけれど、わたしは知っていた。この心を蝕んでいく冷たい感覚は、死に対する恐怖ではないことを。

 本当は、死ぬことよりも、何よりも、こうして陛下がわたしを切り捨てられる選択肢を取ったことが、苦しかったのだ。


 政略結婚だ。陛下もわたしも、お互いがお互いに恋情を抱いていないことを知っていた。

 それでも長い年月を経て、それなりの関係を築けていたと、わたしは思っていた。陛下が時折見せてくれる穏やかな表情から、きっと陛下も少なからずわたしのことを、思ってくれているだろうと。勝手に、そう思っていた。確かめてもいないのに。

 エアフルト様のような気さくな関係にはなれなくても、いつか、穏やかに家族のような関係にはなれるのだと、信じて疑わなかったのだ。


 成長したと思っていたのだけれど、どうやらわたしは、昔から一向に成長していなかったようだ。むしろ、退化していると言っても過言ではないかもしれない。

 表情に自嘲的な笑みが浮かんでしまわないようにするのが大変だった。必死にいつもどおりの笑顔を取り繕う。息はまだ、上手くできない。


 陛下の眼差しは、変わらずわたしに向けられていた。残酷なまでに、まっすぐ。感情を読み取ることは、難しかった。けれど僅かとはいえ、哀れみのようなものが含まれている気がした。

 額を押さえた陛下が、僅かに目を伏せた。少しだけ頭を振ると申し訳なさげな眼差しに変わっていた。

「シュトルム嬢……いや、ユーディット。すまない」

「……いいえ、陛下。お気になさることはございません」


 本心からの言葉だった。陛下は優しすぎる。為政者として当たり前の判断を下しただけなのに、わたしのような小石にも気を使ってくださるのだ。

 だからわたしは、この人とならきっと、良い関係を築けると思った。築いていきたいと思い、努力をした。昔と同じような過ちを繰り返さないために。

 それは、今も同じ気持ちだ。今まで、いや、最後の最後までわたしに気を使ってくれる優しい人のために。わたしはあのときにはできなかったことをする。


 ほんの少しでも陛下のお気持ちが軽くなるように。

 ゆっくりと空気を吸い込む。胸いっぱいに広がった冷たい感覚が身体を支配していく。震える身体を、恐怖を押さえつけるために陛下に気づかれないようスカートの裾を握り込んだ。


「今までありがとうございました、イェレミアスさま。あなたや、エアフルトさまたちのおかげでわたしはとても……とても、幸せな日々を過ごすことができました」

 あまり、大きな声はでなかった。けれど風が時折吹き付ける音がする以外、静かな中庭でははっきりと聞こえるだろう。幸いだったのは、声が震えていなかったこと。

 ここで声に怯えが宿っていれば、また陛下に気を遣わせてしまう。だからわたしは、いつもと変わらない声で話せていることに安堵した。


「……陛下とこの国、そして国民全てのこの先が、良きものと、幸せで満ち溢れていることを願っております」

 スカートを握り込んでいた指の力を弱め、そっと摘まむことに切り替える。軽く持ち上げ、膝を折って頭を下げた。


 静寂が中庭を支配する。陛下のお言葉があるまで頭を下げているつもりだったのだが、一向に陛下から声が掛かることはない。

 失礼に当たると分かっていたが、どうにもおかしい。あまりにも続く沈黙に、気遣ったつもりが逆に陛下を困らせてしまったのかもしれないと気持ちが逸ってしまった。

 顔を上げた先、見えた陛下は珍しく目を見開き、驚いた様子でじっとわたしを見ていた。


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