エピローグ:灰の中から咲いたもの
毎日投稿チャレンジ挑戦中です。予約投稿も使えばいける、、、はず。
20時に投稿しますので、よろしくお願いします。
あの日から、六ヶ月が過ぎた。
帝国との国境で起きたことを、私はうまく言葉にできない。
白い光の奔流の中で、私の「理解」と、王都の術師たちの「理解」と、アーベルシュタットの村人たちの「理解」が、ネットワーク上で同時に共鳴した。
百万人分の「ここに世界がある」という確信が、削除コマンドをはじき返した。柏木が端末から打ち込んだゼロ上書き(デリート)の命令は、圧倒的な「理解の質量」の前に、ただの空文字列に無効化された。
柏木がどうなったのかは分からない。
光が収まった後、彼の姿はすでに空白の向こう側に消えていた。彼が現実世界(地球)でどんな顔をして端末に向かっているのか、今の私には想像もつかない。
ただ一つだけ確かなのは、あの瞬間から、帝国で起きていた「消滅」が完全に止まったことだ。
三日後、「第七の村」の跡地だった荒野に、再び草が生えた。
一週間後、人々の記憶から消えていた「ルージン村」の名前が、近隣の住人たちの口から自然と出てくるようになった。
一ヶ月後、焼け野原だったその場所に、新しい家屋の柱が立てられた。
イネスは、その村の再建を見届けてから、エルドの手引きで王国へ移り住んだ。
今では毎日、図書館のカウンターで読書会のお手伝いをしている。字を覚えるスピードが異様に速く、エルドが「才能がある」と目を細めていた。
そして今日。
アーベルシュタットの図書館には、久しぶりの顔が訪ねてきた。
「やあ、アーカイブ嬢」
正面扉を開けて入ってきたのは、ヴァルグラムだった。
相変わらず深紺の法衣、相変わらずの灰色の瞳。でも、初めてこの図書館を訪れた時の圧密感は、すっかり薄らいでいた。
「閣下。視察ですか、それとも——」
「私用だ」
ヴァルグラムは私の言葉を遮り、腕の中に抱えていたものを、どん、とカウンターの上に置いた。
「なに、これ」
「本だ。見れば分かるだろう」
「……何冊あるの」
「三十冊。王立図書塔から、私が個人的に選んで持ってきた。分散核の正式ルートを通すと、書類仕事が多くてかなわない。君に直接届けた方が早い」
私は積み上げられた本を一冊ずつ確認した。
農業技術の新刊。衛生管理の応用編。土木工学の実践書。建築理論。そして——一番下に、分厚い背表紙を持つ数学の理論書。
「これ、王国に一冊しかないやつじゃないですか。塔の最深部で見た——」
「君が必要だと言ったのを覚えていた。写本を作る時間がなかったので、原本を持ってきた」
私は思わず、ヴァルグラムの顔を見上げる。
彼は視線を本棚の方へ逸らしたまま、表情を変えない。でも、その耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……ありがとうございます、閣下」
「礼は不要だ。これは王国への投資だ」
「そうですね」
私は笑いを堪えながら、本を棚に並べ始めた。
「エルド! 新しい本が来た! シラバスの更新、よろしく!」
「はいはい!……あ、閣下! いらしていたんですね!」
エルドが書架の奥から顔を出し、ヴァルグラムを見て慌てて頭を下げた。
ヴァルグラムは短く頷き、返礼した。
「補佐官が育っているな」
「おかげ様で。今では私がいなくても、読書会を回せるようになってますから」
「……」
ヴァルグラムは少しの間、黙ってカウンターの前に立っていた。
館内を見渡す目が、初めてここを訪れた時の「記録する目」ではなく、違う表情を持っているのに気づいた。
哀愁ではない。
もっと静かな、「取り戻しつつある」という安堵の色だ。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「君が戦ってきた相手は、この世界の外側に実在する設計者だった。なら、この世界は今も——彼らのシミュレーターの中にあるのか」
私は本棚に向けていた手を止めた。
この六ヶ月、誰にも話していなかったことだ。エルドにも、マリナにも。
「……多分、そうだよ」
私はゆっくりと振り返った。
「でも、私には関係ない」
「関係ない?」
「あの村人たちが病気で苦しんでいたのは、本物の痛みだった。エルドが私を信じて、震えながら黒板の前に立ったのは、本物の勇気だった。マリナがお母さんの回復を喜んで泣いたのは、本物の涙だった。……データでも、シミュレーターでも、その本物は消せない」
私は胸の前で、手を組んだ。
「この世界が誰かの実験場だとしても、ここで生きている人間の痛みと喜びは本物だ。だから私はここに残って、理屈を組んで、本を読ませ続ける。それだけの話だよ」
ヴァルグラムは長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「……三十年前に君が傍にいれば、私はあんな選択をしなかったかもしれないな」
「私は三十年前、まだ前世の研究室で死にかけてましたけど」
「……ならば、今からでも遅くはないということか」
彼は踵を返し、正面扉へ歩き始めた。
「また来る」
「いつでも。本は逃げないので」
扉が閉まった。
図書館の中に、いつもの静かな読書の空気が戻ってきた。
*
夕暮れ時。
読書会の村人たちが全員帰り、エルドとマリナも後片付けを終えて帰宅した後。
私は図書館の中で一人になった。
カウンターの椅子に腰を下ろし、膝の上にルビを乗せ、今日新しく届いた数学の理論書を開く。
このページを読んだ人間が誰もいないという事実が、私の胸をひそかに高鳴らせる。
前世で成し遂げられなかった「知識の伝播」を、今世でやり直している。死んで、生まれ変わって、ここまで遠回りをして、ようやく。
ふと、窓の外を見た。
夕陽が西の丘を赤く染め、水路の水面がきらきらと揺れている。村の中央広場では、子供たちが水車の仕組みについて、身振り手振りで議論しながら帰路についていた。
本を読んで、理屈を知って、世界を変えようとしている。
前世では、誰も私の理論を理解しなかった。でも今世では、農夫が、職人が、子供が、老人が、私の理屈を自分の手で使いこなしている。
(……私の理論は、死ななかった)
私は目元を袖でぬぐった。
五歳の子供が夕暮れ時に一人で泣いている理由を、誰も知らなくていい。
ルビが「キュウ」と小さく鳴いて、私の顎に頭を押しつけた。
「ありがとう、ルビ」
私は彼の白い頭を撫で、もう一度、本のページに目を落とした。
読まなければいけない本が、まだたくさんある。
教えなければいけない村人が、まだたくさんいる。
理屈を通さなければいけない世界が、まだ広くある。
監査官の少年が、いつまた現れるか分からない。
庭師が、次の「欠落」を仕込むかもしれない。
柏木が、第十六回のテストサーバーを起動するかもしれない。
でも、それは明日の私が考えることだ。
今この瞬間、窓の外では、村の子供たちが水車の理屈を語り合っている。
今この瞬間、この本のページは、ただ静かに開かれている。
それだけで、今日の理屈は十分通っている。
私は本のページを、一枚めくった。
——古い図書館の空気が、かすかに揺れた。
(了)
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