43. 37kg
◇◇◇
慶史が買い物に行っている間のおやつとしておにぎりの半分をたべ、さらに夕食でようやく、慶史が作った巨大おにぎりを和希は完食した。
結局ほとんど慶史が用意してくれた夕食も、合わせて平らげる。
欠食分を補う、ということを意識しながら、和希はよく噛んでよく食べた。
今、少しでも体重を増やせるに越したことはないから。
「三条さんって、なんだか食べ方もトレーニングみたいですね」と後輩は笑った。
夕食のあとの食器の洗い物……という、手伝いにはいるのか疑問なぐらいの手伝いをしたのちに。
和希は、ゆっくりと足を180度横に開き、床を使ったストレッチを始める。
慶史は感嘆のため息を漏らした。
体を前へ倒すと、胸は当たり前のように床にぺたりとついて。
次に、すんなりと体を横に倒して、体を足にまっすぐ沿わせる。
「いやぁなんか……筋がないみたいに柔らかいですね…」
「いや?全然固くなってるよ。一番道場に行ってた頃に比べると。
自主練も、蹴りとパンチぐらいしかしてないからなぁ。
あとエルボーと手刀と抜き手と頭突き?」
「え、えーと……。
つまりは、殴る蹴る系の自主練はしてたんですね?」
「あと足を踏み折る系の下段蹴りとか……。
まぁ、どっちかというと、絶えずやってくる実戦が兼ねてた」
「…………幕末明治の武道家みたいな暮らしですね」
とはいえ。その“実戦”を繰り返して蹴りの形が崩れていると牧ノ瀬覇華から言われれば、世話はないわけだが。
それにしても。
慶史はベッドに胡坐をかいて、何が面白いのか、和希のストレッチをとっくりとながめている。
和希の脚は、今度は縦に180度。
そのまま体を前に倒して胸をつける。
もちろん、綺麗に足は開くのだけど、本当に何の抵抗もなくぺたんと広がっていた時よりは、ほんのり固くなっている。
――――後ろの蹴りあげが固くなっている、か。
慶史ごしの、覇華のアドバイスを、悔しく思い出した。
テコンドーには動的なストレッチがつきものだ。
足を前に振り上げ、後ろに振り上げるのは、基礎の練習の一つで必須と言ってもいい。
と言っても家主が部屋にいるときにやるのもあれなので、明日、慶史がまた学校に行っている間にやるか……と和希が考えていると。
「あの……。
ケガ、大丈夫ですか?」
慶史が唐突に声をかけた。
「え?……あ」
途端に、体のあちこちに残る、覇華にやられたばかりの痛みを思い出す。
そうか、昨日は覇華にKOされたばかりだったのだ。
アドレナリンかなにかが体に満ちすぎていたのか、……すっかり忘れていた。
「大丈夫。全然平気」
「そうですか……」
和希の空元気に気づいてか気づかずか。
慶史は引き続き、床に平たく体を伸ばす和希を見つめていた。
「4月29日」
……また慶史が声をかける。
「あの、キックボクシングの試合?大会?があるっていう場所に行って、一体どうするんですか?」
後輩の、眼鏡の奥の目を観察する。
割と心配している目だ。
「気になるの?」
「もしかしてその場所で、性犯罪者狩りとして、直接ファルス本山を襲撃するつもりとか、ですか?」
「えー。まーさかー」
和希は大げさに肩をすくめて見せた。
「何キロ体重差あると思ってる?
おまけに敵陣のど真ん中だしね。
心配しなくていいよ。そんな無謀なことはしないって」
「じゃぁ、俺もついていっていいですか?」
「は?」
思わず予期しなかったところから声が漏れた。
慶史の眼鏡の奥の目。
―――――おお。
まったくこちらを信用していない目だ。
「いや。あの、なんで……」
「心配なので、という理由ではだめですか?」
「だからさ……」
「あの。たとえば不意を打って攻撃したとしますよ。それでも。
何キロ体重差があると思ってるんですか?」
ぐ、と和希は詰まる。
まっったく同じ軌道で斬り返してきやがった。
「えっと……………公称で37kg?」
「普通に考えて、そんな体重差で試合、組みますか?」
「2012年の大みそかのGLORYで、グーカン・サキ(約95kg~100kg)とセミ―・シュルト(約135kg)が闘った試合がそれぐらいじゃないかな……」
「三条さん」
「ごめんわかった。ふざけるのはやめる。
確かに、襲るつもりで行くよ。
ただ、命知らずややけで、アイツを狙おうとしているわけじゃない。
ずっと、アイツのことは調べてきた。
私なら勝てると思ってる」
「………37kg差でですか?」
「37kg差で」
「相手は元プロなのにですか?」
「元プロだろうと」
「三条さんより小柄な牧ノ瀬さんに負けたのに、ですか?」
「本山なんかが覇華さんとは比較にならない」
「たとえ、37kgの体重差を埋めるだけの実力差が、三条さんと本山にあったとしても。
自分に過去酷いことした男を前に、冷静に力を発揮できますか?」
「するよ。
私は、あいつを倒す」
後輩は、真っすぐにこちらを見る。
こちらに少しでも嘘がないかと、丹念に調べるように見る。
和希は少し緊張しながら、その視線に、胸を張った。
耳によみがえる、いらない声。
――――――そんな守りに入っちゃうの、もったいないよね?
ウルサイ。
最大の防御という選択肢を選んで、一体何が悪い?
……やがて、慶史は、ため息をついた。
「警察に言う、って選択肢は、ないんですね?」
和希は即答する。「ない」
「捕まりはするでしょうけど……三条さんの身の安全は確保されますよ」
「そうだね、一時的にはね。
そのあと、終わることがないいたちごっこが待ってる。
そもそも刑務所の中で身が守れるとは思わない」
「そんなこと言ったら……」
「―――――――魂の殺人」
和希はつぶやいた。「とか、言ったっけ」
「強姦被害…のこと、ですか?
確かに、そう、言いますけど……」
「殺されたなら、殺した奴から魂を奪い返す権利が、私にはあるだろ?」
「……………」
―――――――息が詰まるような沈黙ののちに。
慶史は、はりつめた息を吐いた。
「……三条さんが襲われたり殺されたりしたら。
みんなが悲しみますよ?」
どうかね、と思ったが、和希はそれは言わなかった。
たぶん、目の前の後輩への侮辱になる。
それぐらいは空気を読んだ。
魂を取り戻すってことは、つまり。
「生きるっていう当たり前を、私はまっとうしたいだけ」
◇◇◇




