41. 君の部屋で一人の時間
◇◇◇
起きた時には、今井慶史はもういなかった。
テーブルの上に置手紙と、合鍵らしき鍵が置いてある。
水性サインペンらしきもので書かれた、距離があっても判読できるような、大きくて揃った読みやすい字。
学校に行ってくる旨と、和希の家の鍵を持っていく旨が書かれている。
家族同士での置手紙のやり取りに慣れているのか、ひとり置いていく先輩への最大限の気遣いか。
(月曜か……)
今日は何の講義が入っていたっけ?
休むという連絡のメールを、同じクラスの奴に送って、それから念のため携帯の電源を切った。
いつもならとっくに目も覚めているような時間なのに、こんなに明るいのに、頭が重くて、もう一度まどろみそうになる。
いや、この重さは、眠気ではない。
重いのは頭だけではない。
(――――やっぱり、話し過ぎたんだ)
枕に顔を押し付けて、和希はため息をついた。
枕から男子のにおい。やっぱり、胸のあたりがざわざわして落ち着かない。
素肌が、二の腕が、内腿が、普段男子が着ているジャージの裏地のメッシュ感を細かに感じ取る。
居心地がいいわけじゃない分、逆に起き上がる気力を奪われているような。
どうにか。迷い迷いしながら、昼前にようやく体を引き起こした。
平日に大学をさぼって、随分と怠惰極まりない。
しかし、このままだと、朝昼と2食も欠食してしまう。
タンパク質は贅沢かもしれないが、なにか食べ物を摂取しないと……。
狭い台所を見ると、皿が置いてあり、ラップに包まれた大きい三角おにぎりが握ってあった。
――――後輩、優しい。
風呂場に干してある洗濯物をとり、慶史のジャージを脱ぐとスポーツブラと下着、そして自分の服を身につける。
不安定な胸が、やっと落ち着いた。
(服だけじゃなく、私の家から、バンテージと、何か武器になるものも持ってきてもらった方がいいかな……)
防御のための金属レガース(←本来サッカー用)とか。相手のダメージを増すためのスパイクとか。
そんな事を思いながら、和希はおにぎりのもとに戻ってきた。
しかし、大きい。
マンガみたいに大きいおにぎりだ。
1つあたり、ごはん茶碗1杯分+αぐらいのコメは使っていそうな大きさだ。
2つあるのは、朝と昼のぶんという意味か?
もう冷え切ったおにぎりを両手で持ち、頭からかじる。
表面にはほんのり塩が効いているし、中には、しっとりした細切り塩こんぶがはいっていた。
食べなれた俵型(=弁当に入れるのに便利)でもなく、味付け海苔も巻かれていない大きな三角おにぎりは、何だか新鮮な感じ。
(………………うまい)
冷えている分、塩味が体にしみる。
もしいろいろ滞りなく済んで、日常に戻れたら、とにかく塩こんぶを買おう、と誓った。
和希の家のコメが、今井家のコメほどうまくなくても。
うまいとはいえ、さすがに大きさが大きさだ。
和希は女としてはかなり早く食べられる方だが、男の量を食べようとすると胃の消化を待ちつつになる(そこがいまいち体重を増やせない一因だろう)。
なので、休みながら時間をかけて、おにぎりひとつ食べ終えた。
指にのこる塩味のべたべたを舐めながら、あと一つのおにぎりに目をやる。
(あとひとつは、おやつの時間に食べようか)
なんだか、それが妙に楽しみな自分に気が付いた。
この場所でこの空間でこの時間を過ごすこと。
あとで食べるおにぎりを楽しみにしていること。
意外とこの時間、尊い気がした。
そこからすぐに不安の揺り戻しがくるほどには。
――――本当に、話し過ぎた。
桜井にも言うことができなかった、出産のことまで。
増していくおなかの重さと不安。
その不安から逃げようとどんどん感情を切り離し凍らせていく。
その氷の塊が、ゴロゴロとぶつかり合って中を傷つけていく感触。
出産時の死の恐怖。
数日絶え間なく続いた、体を引き裂かれそうな痛み。
出産後ボロボロになった体の辛さ。
表現できない、人に言えないところの傷み、辛さ、まさに延々続く嵐みたいだった。
その状態で―――出産直後、別室にしてあった赤ん坊を、祖父母がミサナ―――当時の和希――――のもとにわざわざ連れてきた。
(半分強姦者の血を引いているとはいえ、赤ん坊には罪はないのだから…)と。
12歳とはいえ母親として産んだ子の存在は気になるはずと考え、連れてきたとか――――
そのあと、何があったのか記憶にはない。
たぶん二度と自分の目の前にその赤ん坊が連れてこられない、消息も聞かせることができないようなことが起きたのだと思う。
ついでにそれから今に至るまで、祖父母にも会えなくなる、会いたくなくなるようなことが。
支援者の中にも、出産されたこどもの存在を知らない人は多い。
人に言ったら、安易に、
「こどもに対して産んだ母として何か思わないのか」
と問われてしまいそうで、人には言わない。
……相手が善人なほど(生物学上の父の存在を忘れて)糾弾してきそうで。
精神論やら「思いやり」やらで何とかなる状態ではない。
ましてや『父性』が本能でも何でもないのと同じく『母性』も標準装備されているものではない。
離れて消息も聞かないからこそ、生きているなら幸せでいてくれればと祈ることができる。
もし、強姦者の面影のある顔で目の前に現れたら……まだ、何をしてしまうかわからない。
(……今井君には)
今井慶史には、こんな物語は訪れませんように。そう願わざるを得ない。
今気になっている女の子とになるのか、将来出会う誰かとになるのかわからないが、幸せな家庭を築いて。もし子供を授かるのなら、多少の苦労はしながらも協力して幸せに子供を育ててほしい。
ふと、携帯の電源を入れてみる。休講連絡をした奴からの返信がいくつか。
慶史からは、夕方に和希の家に寄ってから帰るというメール。
果たしてマンションは見張られずに普通に出入りができる状態か。それは彼らの人員によるが……。
そして。
『知らないおっさんたちが来てて、三条のことアレコレ聞いてきてんけど、また、あたらしいストーカー出来たん?』
という同級生からのメールに、まだ危機が去っていないことを痛感し、深く息をついてまた電源をオフにした。




