第八怪 橙通り
今はもう廃れつつある懐かしい情景がそこにあった。
賑やかな通りを彩る光は、ネオンや蛍光灯などの電子的な明かりとは違う、儚くも懐かしいオレンジや朱色の光で溢れていて、様々な形の着物や浴衣を照らしていた。
「ちょいと寄っていかないかい?」
「新しい酒が入ったよぉっ」
「旦那、これなんかどうだい。たいしたもんだよ」
店から通りを歩く影に威勢良く声をかける店主たちと、それらを聞きながら店先に並ぶ品物を眺める客たち。
鉢巻を頭に絞めた一つ目の大男。蛇のように舌をちろちろさせる酒屋。店から顔を出すのはどれも大柄な店主が多いようだ。
お客はかんざしを品定めしている青白い女性に牙をむきだした青年、猫目の少女。そんな一見人の姿をした妖怪もいれば、狐や川獺、狸などの動物の姿をした妖怪もいる。
「こっちにぃおいで下さいぃ」
呼びかけられ、振り返る。
笠から垂れる薄布のむこうに手招きする魚さんが見え、戸惑いつつもそちらへ進む。
「はぐれないようにぃ、お気をつけくださいませぇ」
「魚さん」
声に不安を含みながら、ぎゅっと茜色の襟を掴む。
「大丈夫です。その笠を被っていればぁ、平気ですからぁ」
少し前に宿の格子から外を眺めていた私に、魚さんが茜色の浴衣を手にして、せっかくだからこの通りを見学しようと提案してきたのだ。
妖怪の群に飛び込むだなんてとんでもない。
私は断ったが魚さんは私の意見を無視して、浴衣に着替えた私を半ば強制的に通りに連れ出したのだった。
その際に小さな桜色の匂い袋と薄布のついた笠を私に渡してくれた。これを持っていることによって、人間の匂いと気配を消してくれるらしい。
「これはぁどうでしょうか?」
薄い手には金色のかんざし。それを私に見せる。
それを一瞥した後、魚さんにだけ聞こえるくらいの小さな声で話しかけた。
「魚さん。そろそろ紅い鬼さんの所に帰らないと……」
「大丈夫です」
不自然に灰色の口元を歪ませて笑う。本当に大丈夫なのだろうか。さき程からそればかりだ。
私がうんざりしているのも気にとめず、また違う店先へと足を進める。私は仕方なくその後を追った。
魚さんはなにを考えているんだろう。普通失くし物を見つけたら、すぐに届けようとか考えないのかな。自分の主人の捜し物なら尚更だと思うんだけど。
魚さんはずっと紅い鬼に連絡を入れるそぶりも、帰る素振りも見せていない。本当に紅い鬼のところへ帰る気はあるんだろうか。
眉間にしわを寄せながら、様々な妖怪たちがひしめき合うなかを黙々と歩く。
ふと、ちらりと小さな人影が私の目に留まった。様々な服と肌が交差する向こうに、白地に黒の格子柄をした浴衣が見え隠れしている。
いまの。あれって、もしかして人間?
最初座敷童かと思ったのだが、そこまで小さな背ではないようだし、仕草や雰囲気的に妖怪では無いように思えた。
魚さんの背を気にしつつ、顔の角度を変えながらその子をよく見ようと目を細める。
小柄な人影は髪が短いけれど、オカッパではない。
あの丸い髪型はどこかでみたことが……。
次の瞬間、はっとして声を上げた。
「みっちゃんっ」
弾けたように叫ぶと、私は恐怖を忘れて道行く魑魅魍魎の背中を押し分けてその後を追った。
「待って!」
一瞬振り返った彼女の横顔が見えた。が、すぐさま妖怪の群に埋もれて見えなくなってしまう。
「みっちゃん、待って!」
袖を挟まれないよう脇に挟み、時折転びそうになっては『すいません』と頭を下げつつ見えた影を追った。
嘘だと思いたいし幻だと思いたい。でももし、本当に彼女だとしたら? まやかしでもない本物の彼女だとしたら?
「待って! 待ってよ!」
必死に笠を掴みながら大小異なる影をかき分けていくと突然視界が開け、すこし静かな橋の前に出た。
振り返れば賑やかなオレンジの通りが見え、前を向けば対照的に暗闇の中で柳の葉が風になびいている、なんとも物悲しい風景が広がっていた。
「みっちゃん!」
胸の前で両手を拳にしながら叫ぶ。
「紗枝ちゃん……?」
闇の中から声が聞こえ、肩が跳ねる。どくどくと鳴る胸を押さえながら辺りを見回す。
どこから聞こえるの?
きょろきょろと見回しながら橋を渡り始める。
「みっちゃん、どこ?」
「紗枝ちゃん。こっちだよ。橋の下」
橋の手すりに近寄り、おそるおそる背筋に冷たいものを感じながら下をのぞき込む。すると薄暗い川岸に見慣れた姿があった。
マッシュルームカットの丸い髪型。小さな背。もじもじと何度も動く指。蒼白い顔。
目の前にするまで信じられなかったけど、本当だったんだ……。
「みっちゃん……」
震える足を叱咤しながら、私はまた見失ってはいけないと彼女の元に駆け寄った。
「本当に、本当にみっちゃん?」
緩やかな土手を降りきったところで、私は確認するように小さな影を瞬きも忘れて見つめ続ける。
私の視線に居心地を悪くしたのか、みっちゃんは目を泳がせながらも、小さな顎をこくんと頷かせた。
「みっちゃん!」
私は駆け寄って彼女に抱きついた。
「みっちゃん、良かった。本当に良かった! 無事だったんだね!」
「うん……」
遠慮がちに肩に手が添えられる。
よかった! 生きてた!
土蜘蛛が言っていたように他の妖怪に襲われていたんじゃないかと不安に思っていたけれど、ちゃんと無事だった!
彼女の存在を確かめるように、少し強めにみっちゃんの体を抱きしめた。
「紗枝ちゃん、ごめんね」
「ううん。無事でよかったよ」
彼女が元の世界に戻っていれば一番良かったんだけれど、久しぶりに心から安心できる友達にあって私は舞い上がっていた。不謹慎だと分かりつつも、みっちゃんに出会えて嬉しくてたまらなかった。
しばらく会えたことにお互い喜び合っていたが、私はあることを思い出して、抱き合っていた体をゆっくり離すと正面からみっちゃんの顔を眺めた。
「あのねみっちゃん、紅い鬼以外の鬼と契約したって本当?」
その言葉に小さな目を一瞬見開いたが、すぐに俯いて唇を噛むと、申し訳なさそうに頭を縦に振って『そうだ』と返事をした。
くらりと眩暈に襲われた私は、自分に落ち着かせるよう一度深呼吸すると、彼女の顔をのぞき込むようにして言った。
「みっちゃん。私、あの時伝えなかったけれど、逃げるときにあの紅い鬼と約束して、みっちゃん達を返す事になっていたの。ごめんね、もっと早く言っておけば良かった」
「そんな……」
みっちゃんは呟くように呆然とした。小さな目はみるみる潤み、私を悲しげに見つめている。
私はそんなみっちゃんを励ますように彼女の肩に手をおいて明るい声を出した。
「でも、今からでも遅くないよ! 一緒に紅い鬼の所に行って、みっちゃんが帰れるように言うから」
もともとそういう約束だったのだ。みっちゃん一人返せないはずがない。それにそんじょそこらの妖怪と違って偉い鬼みたいだし、他の鬼と契約していてもきっと大丈夫。
私は紅い鬼がみっちゃんを無事に返してくれると確信していた。
「さ、行こうよ」
「駄目だよ」
ぽつんと小さな口から声が漏れる。
みっちゃんの喜ぶ顔を想像していたのだが、即答したみっちゃんの表情は相変わらず曇ったままだ。帰れないともう諦めているの?
「他の鬼のことなら紅い鬼がなんとかしてくれるよ! けっこう権力みたいなの持っているみたいだから。ね? 一緒にきて。お願い……!」
私は肩においた手を彼女の小さな手に移すと、ぎゅっと握りしめた。
みっちゃんは小さく息を吐き、微かに私の手を握り返してきた。そしてそこに、暖かい涙を一粒落とした。
「紗枝ちゃん……ごめんね」
「え?」
「……私っ」
何かを言いかけて、突然はっと顔を上げた。
凍り付いた顔。蒼白い彼女の顔がさらに蒼くなる。
彼女のおびえた視線の先へと、自分も恐る恐る振り返る。
「あっ!」
振り返った先には白髪の鬼が、笑みを浮かべながら佇んでいた。
「何をしているんだい?」
くすんだ着物は風もないのにゆらり動いて、滝のような白い髪はどこかでみた夜叉のように鬼気迫るものがある。紅い鬼と対峙している時と同じように、その冷たい群青の瞳から目が離せない。私は金縛り状態になり、石像のようにその場で震えるのも忘れて固まっていた。
「愚痴の……鬼、様」
途切れがちにみっちゃんが背後で呟く。私は聞こえたみっちゃんの声に我に返って、じりっと身構えた。
もしかして他の鬼って、みっちゃんと契約した鬼って、この夜叉のような鬼のこと?
「やぁ、時雨。ここにいたのかい?」
しぐれ?
目の前の呆けいている私を無視して、白い鬼は私の前を通り過ぎると彼女の肩に手をかける。そして微笑みかけ、みっちゃんに歩くよう顎で促した。
彼女は戸惑い私を一瞬見た。
しばらく見詰め合うが、何かを諦めたように目を閉じて鬼に促されたまま川の方へ歩きだす。
「みっちゃん!」
未だに震える身体を無理矢理動かし、もつれつつも慌てて駆け寄って、がしり彼女の袖を掴んだ。
みっちゃんは振り返らない。代わりに白い鬼がこちらをちらりと見た。
「ははぁ。噂通りの人の子だねぇ」
にぃっと口角を上げると、たくましい蒼白い腕を私へと延ばして、私に叫ぶ暇さえ与えず瞬時に首を捕んだ。
ひゅっと口からすきま風が通るような音が鳴る。
首を強く絞められているわけではないのに、なぜだか息がうまくできない。
殺されるっ!
「鬼さまっ」
悲鳴を上げるのとほぼ同時に、みっちゃんが白い鬼の腕にしがみついた。
白い鬼がみっちゃんを見下ろすと、彼女はしきりに首を左右に振って小刻みに体を震わせている。
「やめて下さい……友達なの……お願いです」
「そう、か。あい分かった」
するりと暖かみのない手が首から離れる。
私はその場にせき込み、膝を突いた。
一瞬にして体中に冷や汗が流れて、悪寒が背中を覆う。凍り付いた胸を内側から心臓が激しくしつこく叩いている。
白い鬼はこちらを心配そうに振り返るみっちゃんの肩を抱きながら川の近くに寄った。ひやりとした空気が頬をなでると、橋の下から屋形船が現れ、みっちゃんたちの前に着く。
「待って! みっちゃん!」
裏返った叫びにみっちゃんはこちらを振り返りじっと見た。そして悲しげに目を閉じると鬼に促されるまま船に乗りこんだ。
丸い黒髪と広がる白髪が暖簾をくぐり見えなくなると、船はそのまま音もなく川を滑り出した。
行ってしまう!
追いかけようと足に力を入れるが、膝が狂ったように笑って言うことを聞かない。叫ぼうと口を開いても、出てきたのはカラカラに乾いた喉の悲鳴だけだった。
さわさわと柳が風に遊ばれて乾いた音を辺りに響かせている。
息を整えてようやく膝が黙ったころ、一人きりになった私は呆然と船の消えた方へと視線を送り続けた。