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妖しい紅  作者: 月猫百歩
常闇の庭
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第七怪 銀の瞳


「紗枝様、紗枝様」


「え……?」


 一瞬誰のことを呼んだのか分からなかったが、自分の本名だと気付き戸惑いつつも目を開けた。


「お目覚めにぃ、なりましたかぁ」


 薄暗い中、自分をのぞき込む銀色の瞳と目が合い、まだ少し重い瞼をこすり気がつく。

 

 あれ、痛みが引いてる。

 

 瞼をこすった腕を眺めると、多少傷跡はあるが痛みも腫れも無く、痣も見あたらなかった。

 すごい。あれだけの傷がもうここまで良くなっているなんて、妖怪の薬は人の薬よりも効果が大きいみたい。

 何で作られているのか少し気になるけれど、妖怪の薬だということもあり、そこは知らない方が良さそうに思えて考えるのをやめた。

 知らぬが仏って言うしね。


「薬がぁよく効いたみたいですねぇ、紗枝様」


 くぐもった声を耳にして、腕を見ていた目を魚さんへひたりと向ける。

 魚さん、今、私のことを紗枝って呼んだ……。もしかして、私を起こした声も魚さんだったのかな。

 私は少し思案した後、意を決して息を吸った。


「あの」


「はい?」


「今、私のことを紗枝って……」


 不安げな面もちで魚さんをみつめる。

 本名を口にするのは鬼に禁止されているし、とても危険なことは多分、未だに意味がよく分かっていない私以上に分かっているはず。

 なのになんでいきなり私の事を本名で呼ぶんだろう。会ったのだって、片手に収まるぐらいしかないのに。

 不安に眉を寄せる私に、魚さんはふっとぎこちなく笑みを浮かべながら平たい手を何度か裏返し、くるりと銀色の目を私に向けた。


「紗枝様のお名前はぁ、はじめの頃にお会いした時ぃ、紗枝様から教えて頂きましたぁ」


「いえ、そういう事ではなく、鬼さんから本名は言っちゃいけないって言われていたじゃないですか」


「ここならぁ、大丈夫です」


 鱗と同じ灰色の唇をにこりと歪ませる。逆にそれが私にとってより不安をあおった。


 魚さん、なんだか様子がおかしい……。


 訝しげに表情が読みとりにくい顔を眺めた後、今自分が横になっている部屋を、落ち着かない気持ちで見渡す。

 なんだか旅館の客室みたいで、床の間には墨絵の掛け軸が飾られ、部屋の隅には数枚の座布団が重なっている。広さは私がいた籠の部屋と同じくらいだ。

 部屋を照らすのは、外側の薄い障子に暖色系のぼんやりとした光。籠の部屋とは違って外からは賑やかな雑踏が聞こえてきた。


 やっぱりここ、紅い鬼の屋敷じゃない。


「あの、ここはどこですか? 鬼さんのところに帰ってきたんじゃないんですか?」


「紗枝様はぁ、紅い鬼様のところへぇ、帰りたいのですかぁ?」


 わけの分からない質問に私は居心地が悪くなり、ゆっくり上体を起こそうとすると、魚さんが背中を支えて起こすのを手伝ってくれる。

 私はその手が離れるのを感じた頃、魚さんに顔を向けた。


「それは、その、どういう意味ですか?」


 掛け布団をぎゅっと握って、そこに視線を落とす。

 あの紅い鬼のところに行きたいわけがない。でも行かなければ鬼との契約がダメになる。今はあやふやになっているところもあるけれど、私から破れる事じゃない。

 したいしたくないの話ではないのだ。


「ご友人のことはぁ、諦めて下さいませ」


 くぐもった声に勢い良く顔を上げる。

 予想もしなかった言葉に目を見開き、一気に様々な言葉と疑問が浮かんでくるが、そんな混乱した状態でまとまる筈もなく、ただ口元を歪ませた。


「ですからぁ、紗枝様はお帰りになることが出来るのです」


 ちらりと様子をうかがうような視線を向けられる。

 私は何度か口を開け閉めした後、ようやく震える声で魚さんに尋ねた。


「ねぇなんでそんな事言うの? 何か知っているの?」


「紗枝様はぁ、人の世界に帰りたいのですかぁ?」


「話を逸らさないで!」


 顔が紅潮している。それを頭の隅っこで感じながら、灰色の肌を包んでいる着物の裾を掴んで叫んだ。

 魚さんは表情を変えずに、ただ行儀良く座っている。私は少し深呼吸をすると、自分に落ち着けと言い聞かせながら声を抑えてもう一度魚さんを見つめた。


「諦めろってどうして?」


「ご友人はぁ、帰ることは出来ません」


「だから、なんで?」


 魚さんは俯き、気の毒そうに顔を横に振った。


「そのお方はぁ神通力をお持ちの人でぇ、すでに他の鬼様とご契約されましたぁ」


 口と手足がわなわなと震え、目眩が襲った。

 他の鬼と契約? ……契約って?

 よろける私に魚さんが慌てて私を支える。


「大丈夫ですか?」


「待って。それ、本当?」


 自分を支える灰色の腕を掴んで、両目で淀んだ目をのぞき込む。

 お願いだから冗談だと言って欲しい。


「えぇ」


 私の気持ちとは逆に、魚さんはこくりと頷いた。

 銀の目は血の気の引いた私を見、すぐ下の布団へと視線を逸らす。その様子に些か苛立ちを覚える。


「もしかして、紅い鬼さんと最初に契約した子?」


「それは分かりませんがぁ、髪が短くとても小さな娘でしたぁ」


 あの中で髪が短い女の子はみっちゃんだけだった。

 でも、鬼と契約したってどうして?

 

 もしかして捕まってそうせざるを得ない状態になっているって事?

 それとも私を助けようとして? 

 紅い鬼はこの事を知っているの? 

 みっちゃんは今どうしているの? 無事なの?

 

 次から次へと嫌な考えが浮かび、ますます血の気が引いてくる。

 泳がせていた目を再び銀色の目へ戻して、縋るように水掻きのついた手を掴む。


「みっちゃんと、その子と魚さんは会ったことあるの?」


 灰色の口が気持ちほど開く。しかし一度閉じると、消え入りそうな声で答えた。


「……一度だけですがぁ、あります」


「どこで?」


 魚さんはきょろきょろと目を泳がせたが、小さく息を吐くと首を小さく横に振った。

 その息を吐いた口がいくら待っても開きそうにないので、私は懇願した。


「お願い、親友の子かもしれないの! お願いよ」


 魚さんは居心地が悪そうに身じろぐとそっと言った。


「座敷牢です。紗枝様と一緒にいたぁ、人の子でした。それは確かです」


 座敷牢ということは最初みんなで捕まった時ということかな。

 でも、それならやはり魚さんの言っている髪の短い子って言うのはみっちゃんに間違いない。

 だとしてもなんで戻ってきたの? しかも鬼と契約しただなんて。帰れないだなんて。

 わなわなと身体が震えた。

 どうしたら、どうしたら良いんだろう?


「お気を確かに……」


 そっと水掻きの薄い膜が、自分の頬を掠める程度に撫でた。


「わたくしはぁ、紗枝様にずっとこの常闇にいてほしいのです」


 思考の海から突然、引き上げられる。突然の言葉に思考が停止し、動きも停まる。

 そして視線をおそるおそる魚さんへと向けた。


「紗枝様」


 いつもは淀んでいる目が、今は澄んだ水のように透き通り、まっすぐ私を見つめている。

 私は思わず息を呑んで緊張してしまった。

 ゆらりとあの紅い鬼のように妖しく、銀色に光る瞳に見つめられ、私は蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。

 静まり返った部屋の中、外の喧噪が聞こえるだけで他に音はない。

 二人とも石のように見つめ合ったまま、しばらく微動だにしなかったが、魚さんの目がまた元の淀んだ銀色に戻ると、魚さんはそれを私から逸らした。


 気まずい空気の中、私は口を堅く結んだ。

 魚さんは何を考えているんだろう。どうしてそんなふうに思うんだろう。

 この状況をどうして良いか分からず、私は唇を噛んで俯いた。


「鬼様のところへ行くにはぁ、少しばかり時間がかかりますのでぇ、この宿をとりました」


 何事もなかったかのように、淡々と話し始める魚さん。

 それでも私はまだ顔を合わせることが出来なくて、ただ手元に視線を落とした。


「しばらくここでぇ、お体をお休め下さいませぇ」


 銀の瞳を灰色の陰に隠し、薄い手が揃えられると頭を下げた。

 私はそれを目の端で見た後、はっと思い出して、立ち上がろうとしている魚さんに、慌てて詰め寄った。


「待って魚さん! 話はまだ終わっていないわ! 肝心なことをきちんと話して」


「紗枝様」


 部屋の中に、私の言葉を遮った声が波紋のように響く。

 銀の瞳は相変わらず下を向いていて見えないが、くぐもった声だけはまっすぐ耳に届く。


「わたくしもぉこんな姿ですがぁ、これでも妖怪の端くれでございます。ゆめゆめぇ御自身がぁ、ひ弱な人の子だという事をお忘れ無く」


 有無を言わせない口調に、私は初めて魚さんに対して紅い鬼と同じような気持ちを抱いた。

 それこそが、魚さんが元は鬼だったという確かな証拠に思えてならなかった。





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