第六怪 灰呟く
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なんだってこんな事に。見て見ぬ振りをすれば良かったか。
汚い濡れ雑巾のような人の子を見て、ぎりりと口を歪ませたが、やはり死なす事は出来なかった。
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あれ、この感覚――。
既視感を覚えると同時に、体中がぎちぎちと鈍い音を立てているのに気がつく。そして手足の痛みに呻き、起き上がろうと体に力を入れた瞬間、背中に亀裂のような痛みが走って、私は思わず叫び声を上げた。
「静かにしろっ」
不機嫌な声が壁か何かに反響してこだまする。
うっすら目を開く。表面が光ったごつごつとした薄暗い天井と、それと同じ丸い壁。それを何度か瞬きした後に、やっと洞窟の中だと理解する。
「誰? ここは、どこ?」
声の主を捜して目を辺りに走らせれば、忌々しげに自分を見下ろす影があった。
それはついこの間会ったばかりの、老いた髭河童だった。
「あなたは、あの時の河童――」
「黙れっ」
目を細めて吐き捨てると、髭河童は乱暴に私の胸ぐらを掴み上げた。
「お前など、貪欲の鬼様のものでないなら助けなかった! まったく運の良い人間めっ」
激しく凹凸のある床へ叩きつけられ、悲痛の声を上げて咳込む。
どうしてこんな乱暴なことをするの? 体をくの字に曲げながら横目で老河童を見つめ、咳をなだめようと胸をさすった。
「ここはワシ等河童の住処だ」
「河童の?」
上体を支えながら起きあがろうとするが、また痛みが走り仕方なく体を横たえる。
冷たい床は塗れていて、自身も頭からつま先までびしょ濡れになっていた。自分の身に一体なにが起こったんだろう。
「あぁ。だがお前さんを溺死させるわけにはいかんから、正確には住処の近くだがな」
「そう、ですか。あ、あの、ありがとうございます。助けてくれたみたいで」
痛みに顔を歪ませながら礼を告げる私に、やはり髭河童は渋い顔を向けるだけだった。そんなに人間が嫌いなのかな。
「とにかく紅い鬼様にお前のことをお伝えする。それまでここで待っておれ」
「あ――」
ここまでの詳しい話を聞きたかったのだが、私の声を聞く前に河童は踵を返し、暗がりへと消えて行った。
その様子を目で追ったあと、はぁっと私は息を吐いて目を閉じた。
ほんとに、大変な目に遭ったなぁ。
土蜘蛛の次は鬼女だなんて。この次は一体なにに襲われる事やら。
心の中で茶化してみるけれど、気持ちが軽くなるはずもなく、やはり泣きたくなった。
どうして私が狙われたんだろう? また土蜘蛛みたいに何かの計画のために襲ってきたのかな? もしそうだとしたら、鬼の屋敷は思ったより警備が薄いのだろうか。
土蜘蛛の時は知ってて入れたんだろうけれど、今回の鬼女は子鬼達が襲っているのを考えれば、招かれざる客っぽかった。
あの鬼は恨めしいと言っていた。そして般若の顔をして気が狂ったみたいに叫んでいた。「お前の全てを寄越せ」と。
あれは、どういう意味なんだろう。
ぴりぴり肌が痛む中、様々な考えを巡らしていると、また暗がりからひたひたという音が耳に入ってきた。河童が帰ってきたのだろうか。
「お怪我はぁ、如何でしょうぅか」
聞き覚えのあるくぐもった声。はっとして目を見開き、声のしたほうへ視線を投げた。
暗がりに立っていたのは、あの鬼の屋敷で働いていた魚の人だった。
「魚さん……どうしてここに?」
「わたくしはぁ、あなた様のことを耳にしてぇ、先に泳いで参りましたぁ」
私のそばまでのそのそ歩いてくると、まだ濡れている着物の帯から丸くて平たいものを取り出し、傍らに座った。
魚さんはどこから泳いできたんだろう? まさか鬼の屋敷から泳いできたんだろうか。だとしたら、そんなにここは紅い鬼のところから遠い場所ではないのかもしれない。
「これをお体に塗ればぁ、痛みは引きますぅ」
ひんやりとした水掻きの付いた手で、私の右腕を上げる。その途端、びりっとした痛みが腕に走り、口から悲鳴が漏れた。
そんな私を労りながら、てらてらと灰色に光る手が揺れると、腕に冷たい物が触れ次第に全体を包んでいった。
それを目で確認しようとしたとき、初めて自分の上半身が肌着だけの格好だと気が付いた。
「あれ? 私、着物を着てない」
「あなた様はお屋敷から落ちた後ぉ、通りかかった龍の角にひっかかりぃ、そのまま川に潜られぇ捨てられてしまったのです。そしてぇそこで河童殿に助けられたのです。着物は川に入った時にぃ、おそらく脱げたのでしょう」
その話を聞いて目を丸くした。
龍の角に引っかかるなんて、そんな奇妙な体験をしていたんだ。
暢気なことを思いながらも、その角が体を貫かなくて良かったと安堵する。
それにしてもひどい有様。薬を塗られている腕を見ると痣や擦り傷だらけで、未だに血が滲んでいる。
自分がどういう状態で河童に発見されたのか、想像もつかない。
「申し訳ぇございません……」
ふと蚊の鳴くような呟きが聞こえ、傷だらけの腕から魚さんに目を向ける。
「まさか、このような事にぃなるとは……」
薬を塗っていた手が止まる。それから溜息のような風が私の肌を撫でると、また水掻きの付いた手が再び肌の上を滑り始めた。
「魚さんのせいじゃありません」
どうして謝るの? とぎこちなく笑んでみせる。
すると大きな銀色の目がくるりと回り、そこに私の傷だらけの顔が映った。
あぁ、顔にも傷があるんだと、ちょっとだけショックを受ける。
「いえぇ、わたくしのせいです」
なんで謝るんだろう? 首を傾げて尋ねるが、魚さんは俯くだけで何も話さなかった。やはり使用人という立場から、責任を感じているんだろうか。それとも紅い鬼にすでに怒られてしまったのだろうか。
「よく分からないですけれど、こうして助けにきて、心配してくれているじゃないですか」
ふふっと笑いながら『元気出して下さい』と声をかける。
それをどう思ったのか分からないけれど、魚さんはずっと一言も喋らず、黙々と薬を塗り続けた。
またなにか気に障ったことを言ったのかな。
不安に思いながらも、私も黙って大人しく薬を塗られていた。
「もうしばらくすればぁ、痛みが引いてきますぅ。そしたらわたくしがぁ、ここからお連れいたしますぅ」
全身に薬を塗り終えた頃、ようやく灰色の口が動いた。
薬の入れ物を帯の間に仕舞い込み、私の衣服を整えてくれる。
「鬼のところへ帰るの?」
魚さんはなにも言わない代わりに、懐から何か飲み薬のような物を取り出すと、そっと私の口元に添えた。
「これをお飲み下さいぃ。痛み止めです。これを飲めば眠りに落ちてぇ、起きたときには着いております」
「うん、ありがとう」
私は気持ちばかり顔を上げ、口元に添えられた薬を飲んだ。魚さんはそれを確認すると私に気を使って、上げた頭を下ろすのを手伝ってくれた。
私の頭がまた横たえられるた時、魚さんはおもむろに口を開いた。
「実はぁわたしはぁ、元は鬼だったのです」
「へ?」
突然の告白に私は目を見開き、まじまじと魚さんの顔を見た。
つるりとした頭を見ても角があった形跡はみられないし、無表情に見える顔を見ても、鬼とは似ても似つかわない。とても鬼には見えない。
魚さんは私の視線から逃げるように俯き、ぽつりぽつりと話し出した。
「これでも少しはぁ、名を馳せておりましてねぇ。そこらの妖怪や土地神を、見下してぇおりましたぁ。しかしぃ、ある川の主の怒りをかってぇ、このような無様な姿に変えられましたぁ」
「怒りをかった?」
「えぇ……」
両目で灰色の鱗に包まれた横顔をみつめ、私は頷いて続きを促した。
「わたしはぁ、悪戯に川の魚を捕っては殺しぃ、岩を投げては川をせき止めておりました。わたしにとってはぁ、ほんの悪ふざけだったのですがねぇ」
愚かでしょう? と、銀色の目がくるりと私に向けられる。私は何度か目を瞬かせてから言葉を選び、口を開いた。
「えっとでも、今は反省しているんでしょう? 川の主様には謝ったの?」
私の言葉に、ふるふると魚さんは首を横に振った。
「当時はぁ仕返しすることばかり考えてしまいぃ、反省などしませんでしたぁ。しかしぃ、時は流れてぇ川の主に謝ろうと決めたときにはぁ、川の主はいなくなっておりましたぁ」
「いなくなった? どこかに行ってしまったの?」
またくるりと淀んだ銀色が動き、どこを見るわけでもなく宙をさまよわせた。そして小さく息を吐くと一言。
「主が死んだのです」
「死んだ?」
眉を寄せた私に、こくりと魚さんは頷いた。
「川は主がいなくなりぃ、ただの川になりましたぁ。そしてその川はぁ、今やドブ川と成り果てましたぁ」
深く溜息を吐いて、また消え入りそうな声で言った。
「私はもう、元の姿に戻ることがぁ出来なくなってしまったのです」
それから黙り込んだ魚さんに、なんて声をかけて良いか分からず、私も一緒になって黙ってしまった。
ドブ川になったって、多分、私たち人間のせいだよね。
確かめてみようかと口を開きかけたが、何にも読みとれない灰色の横顔を見ると尋ねる気が失せてしまい、声を出すのをやめた。
お互いが沈黙してから間もなく、私の瞼は次第に重くなっていった。薬が効いてきたのだろう。痛みとともに意識もぼやけてくる。
「お薬がぁ利いてきたのですねぇ」
「そう、みたい」
朦朧としながらも、私はやっと口を開いた魚さんに応えた。そして、まだ悲しげな魚さんに声をかけた。
「そんな顔しなくても、大丈夫ですよ。もし良かったら今度紅い鬼さんに、鬼に戻れる方法を一緒に聞いてみましょう。何か、分かるかもしれないですよ」
意地悪だけどねと付け加えて、ひどく重くなった瞼を閉じる。
ぐにゃぐにゃと揺れる意識の中、自分の体が抱き起こされるのを感じながら魚さんがどうして私に今の話をしたんだろうと考えた。
もしかしたら、鬼にいじめられている仲間だと思って、その気持ちを打ち明けてくれたのかもしれない。何度目かに会ったときも、名前を聞いてはいけないはずなのに尋ねてくれたし、あの時から私のことを仲間だと思っていれくれたのかな。
少しばかり自惚れかなと内心苦笑していると、くぐもった声で魚さんが私に囁いた。
「あなた様は、人の世界に戻りたいのですか?」
「……え?」
「それとも紅い鬼様のところに、戻りたいのですか?」
なにを言っているの?
そう尋ねようとしたけれど、私はもう既に睡魔に抵抗する事が出来ず、そのまま眠りに沈んでいった。