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縁-えにし-  作者: 狸塚ぼたん
四章
86/104

気張る



ーーーーー



どれくらい時間が経っただろう。

泣き疲れてウトウトし始めていると、大きめのノック音が眠気を吹き飛ばした。


「ひよりちゃーん、起きてるー?」


ノックというより扉を殴っているような音と共に、声量大の間伸びした葵の声も聞こえてくる。

寝かせる気がないのだろう。

まさか夜這いということはないだろうが、扉を開けるのは憚れた。

怖いのはもちろんのこと、今の泣き腫らした顔を見られたくもない。

返事をしないでいたが、葵はなかなか立ち去ろうとしなかった。


「ちょっと従兄妹同士で話しない? 心配しなくても僕はベッドに入らないからさ」


わざわざ従兄妹同士で話したいと強調したのが気になった。

巧を抜きにするということは、榊家に関係する話だろうか。

もしそうでなくても、先生の正体について何か知っているような様子の葵と一対一で話してみたいとは思っていたのだ。


葵に対する警戒心よりも知識欲が勝った。

なるべく下を向きながら部屋の扉を開けに行く。


「……どうぞ」


足元しか見えないが葵からシャンプーの香りがする。

風呂上がりらしい。


「なんで下向いてんの?」


「酷い顔してると思うので」


そう言うと、葵の両手が私の両頬を挟み無理矢理上を向かせた。


「あーあ、制服のままだし目もこんなに腫らしちゃって! 待ってるからお風呂入ってらっしゃい!」


突然の聞き慣れない口調の中にどこか懐かしさを感じた。

澱んでいた部屋の空気まで明るくなった気がする。


「僕と巧はシャワー浴びたから、ひよりちゃんは湯船でちゃんとあったまりな。部屋で待ってるから出たら呼んで」


「え、あ、わ、かりました」


葵はそれだけ言い残すと、自分の部屋に戻って行った。

私はそそくさと風呂の支度をして洗面所へ向かう。


私が警戒していると察して、わざとあんな態度を取ったのだろうか。

思えばこの家に来てから、巧も葵も随分と気を遣ってくれている。


……それに引き換え私は。


洗面所の鏡に映る自分の姿は笑えてくるほど情けなかった。

シワだらけのセーラー服、髪はボサボサで目はパンパン。

まるで自分のことしか考えられない、わがままな子どもだ。

こんな子どもが葵に向かって愛だのなんだのと吠えていたのか。

相手が葵でなくても鼻で笑い飛ばされる。


羞恥心と自己嫌悪に苛まれながらシャワーを浴びて湯船に浸かった。


私には葵のような知識や能力はないし、巧のように冷静に人や物事を見極めて行動する力もない。

悔しい。

みんなを助けたいのに。


手の指の隙間から湯がこぼれ落ちていく。

私はそれをただ見ているだけだった。



支度を済ませて洗面所から出ると、部屋に戻る所だったらしい巧とばったり出会した。

さっきのことがあっただけに、とても気まずい。


「よく温まりましたか」


そんな私の心情を悟ってか、巧はふっと笑って声を掛けてくれた。

葵は彼をよく朴念仁と呼ぶが、私には到底そんなふうには見えない。


「はい。……さっきは、すみませんでした。真壁さんが助かったことは本当に良かったと思ってます。先生のことも真壁さんのせいなんかじゃ……」


「こんな時まで気を遣わなくていい」


巧が私の言葉を遮った。


「……先生のことは正直こちらにも責任があると思ってます。償えるようなことではないですが、せめて先生に託されたあなたは必ず守る」


守る、という言葉が今はとても重く感じる。

先生に守られ、巧や葵に守られ。

私は守られてばかりだ。


「ひよりさんは誰かに助けられたり、守られることがいけないことだと思ってますよね」


巧が私の心を見透かすようなことを言った。

いつからだろうか。

葵にも巧にも、もうこの弱さを隠し通すことができなくなっていた。

口が開けば途端に弱さが溢れ出てしまう。

だから口を噤んでいたいのに、噤んでいたら今度は胸が苦しくなって目からは止めどなく弱さが形になって零れ落ちる。


「……私は今まで、先生に守られていることが当たり前でした。先生がいなくなった今になって気づいて、弱い自分が情けなくて悔しいんです」


こうして巧に弱音を吐いてしまうこと自体、甘えだ。

これ以上巧を困らせるつもりはない。


「すみません、もう寝ます」


弱さを吐くだけ吐いて階段に向かおうとすると、手首を掴まれて引き止められた。


「先生はあなたが弱いから守ってきたわけじゃない。榊ひよりが誰よりも大切だったからだ。でなきゃ隠し神に逆らってでもそばにいるはずないだろ」


厳しい声と眼差しが降りかかって来る。

かと思えば、少し苛立ったような様子で頭を掻いて見せた。


「誰よりも近くにいたあんたがそんなことにも気付けないのか」


完全に敬語が抜けた。

そして、呼び方がひよりさん、あなた、あんたと二人称代名詞がどんどん変化していく。


「はっきり言ってあんたら従兄妹は拗らせすぎだ。いいか、人間ってのは足りないもんを他者と補い合って尊重しながら生きていくもんなんだよ。なんでも一人で全てを熟る人間なんかいない。いるとすれば、なんでも一人で全て熟ると思い込んでる性格が捻くれた自惚れ者だ」


と、巧は階段の上の方を勢いよく指差した。

私はその様子を呆気に取られて眺めていたが、やがて自室にいる葵のことを自惚れ者と揶揄していることに気づく。


自然に「……ふふっ」と小さく息が漏れ出た。

私のその様子を見て、厳しい表情を浮かべていた巧の頬が少しだけ緩む。


「先生がいなくなって悲しいのはわかるが、これ以上自分を責めるのはやめてくれ。あんたらに助けてもらってばかりのこっちが惨めになる」


「いえ、巧さんがそばにいてくださって心強いです。ありがとうございます」


素直に礼を言うと、巧は咳払いをしながら掴んでいた私の手首を放した。


彼の言葉はまるで先生から直接言われているかのように、すっと私の中に沁み込んでいく。

不思議なことに、その言葉だけでさっきまで抱え込んでいた自責の念や自己嫌悪感も溶けてなくなっていくかのようだった。

自分の手だけでは溢れ落ちるのなら、他の人の手も添えて貰えばいい。

そう言われているような気がする。


「すみません、つい熱くなり過ぎました。ーーとりあえず、俺は物理攻撃が効く相手なら役に立てます。だから安心して眠ってください」


「はい」


「いつまで話してんの」


階段上から呆れたような声が降ってきた。

視線を向けると、手すりに肘をついて眠そうに欠伸をしている葵がいた。

いつからいたのだろうか。


「僕がいない間に二人とも随分仲良くなられたようで」


「拗ねるな」


「拗ねてないですー。単純に嫉妬ですー」


もっとタチが悪い。


「ほーら、もうねんねの時間ですよ」


葵に促され、私と巧は階段を上がった。

私の部屋の扉はさも当然の如く葵が開ける。

葵が私の部屋で過ごすことを渋々了承したらしい巧は、そんな葵を咎めようとはしなかった。

しなかったが、物凄く不服そうな顔をしている。

しかしやがて、


「葵、気張れよ。本気で気張れよ」


と、なぜか葵に向かって真剣に何かを訴えかけるように声を掛けた。

葵も私もなんのことかわからず頭にはてなを浮かべる。


「もういいから、お前は自分の部屋で遺書でも書いときな」


しっしっと払うような仕草を見せて巧を追い払う葵。


遺書? なぜそんなものが必要に?


不安に思って巧の顔を見上げると、彼は葵の不謹慎な言葉を鼻で笑い飛ばしていた。


「生憎まだ死ぬつもりはないから書く気もない。おやすみ」


そう言って巧が先に部屋に戻る。

私も大人しく葵と部屋に戻った。


「遺書って、どういうことですか」


「どうもこうも、そのままの意味だよ。先生の抑止力がなくなった今、僕の力が隠し神にどこまで通用するかわからない。いざとなったら巧は見捨てるって話」


「親友なんじゃないんですか」


「親友だからひよりちゃんを任せてるんだよ。本当にあいつがいてくれて助かってる。今の僕じゃひよりちゃんのメンタルケアはできないからね。ーーただ、どちらか一人しか救えない状況に陥った時、僕は真っ先にひよりちゃんを選ぶ。それはあいつも了承済みだよ」


葵は椅子に座り、机に肘を掛けながら淡々と話していた。

時々、この人は人として大切な何かが欠落しているように感じることがある。


「そんなこと言われても、嬉しくありません」


「嬉しいと思ってもらえると思って言ってないから。ーーそんなことより、もっと有益な話しようよ」


「例えば、三年前あなたがどこで何をしていたか、とかですか?」


先生の話も気にはなるが、やはり巧を外したのならこの話が一番聞きたいところではある。

しかし葵はそれも話す気はないらしく、嫌そうに顔をしかめる。


「あーあ、ひよりちゃんまで警察みたいなこと聞く。もっと他にないの? 彼女いるんですか? とか好きな女性のタイプは? とか」


「はぐらかすのなら、もう寝ます」


むくれる葵を放っておいて、制服を干してベッドに足を突っ込む。


「遠藤真希については何も聞かないんだね。よすががなんなのか、見当はついてるの?」


「……ええ、まあ」


私は言葉を濁した。


私とマキちゃんは似ている。

先生のことで心が乱されるたび、思い知らされた。

マキちゃんはきっとーー


心のどこかで、見当が外れていることを願っていた。


「そう。じゃあ、彼女のことは任せたよ。僕はここでひよりちゃんの魂を守ることに専念する。今日も呼ばれる場所はあの神社だと思うけど、先生がいなくなって牽制されることがなくなったから相手は隠し神だけとは限らない。一応小学校までの道のりは昼間練り歩いて大方祓ってあるけど、万が一のために気をつけて。土鈴は持ってる?」


珍しくまともに心配してくれていることに驚きつつ、服のポケットに入れている土鈴を確認する。


「はい、あります」


葵に私から土鈴のことを話したことはなかった。

巧から聞いたのだろうか。


「それは絶対無くしちゃダメだからね。僕がおじさんに殴られる」


「これって、そんなに大事なものなんですか」


「それは神と人間の縁の象徴と言われてる宝物。今まで回収できなくて現物が残ってるのかさえわかってなかった。おじさんが血眼になって研究して探してた代物だよ」


……そんなもの、どうして先生が。

先生は大切な人から預かったと言っていたが、それは一体誰だったのだろう。


「じゃ、もうそろそろ寝ていいよ。僕はここで見てるから」


葵は頬杖をついて私の顔をじっと見つめている。

非常に寝づらい。

背中を向けて寝たとしても視線を感じそうなほどガン見されていた。


私は観念して壁際に寄り、隣に一人分のスペースをつくる。


「どうぞ」


「は?」


「だから、隣どうぞ。そこだと寝にくいでしょう」


「それ本気で言ってる?」


「あなたは私に恋愛感情はないと言いました。そんな相手にわざわざ夜這いするほど、性欲バカじゃないと思ってます」


「……待って、僕ほんとにひよりちゃんのこと心配になってきちゃった。僕じゃなくて巧だったとしても同じこと言ってたでしょ」


「はい。巧さんの方が信用度は高いです」


葵の顔色がみるみる悪くなっていく。


「男はみんな性欲バカなの! わかる!? 好きな子相手じゃなくても誰でもいいクズもいるの! そんなクズに引っ掛かったらひよりちゃんなんてーーあー、あいつの言ってた意味わかった。気張れってそういう……いやそれにしても温室育ちすぎ……」


頭を抱えてぶつぶつと独り言を呟く葵。


「葵さんは誰でもいいクズなんですか?」


「はいそうです、なんて答えるわけなくない?」


「……そうですね」


ーー正直、先生が視えるようになる前は兄妹が欲しかった時があった。

一緒に通学したり、公園で遊んだり、夫婦喧嘩の夜もベッドで寝転びながら他愛のない話をして気を紛らわせたり。

そんな妄想をしたこともあった。


……まあ、それだけだ。

大して意味なんてない。

私が葵を未だ兄として認めていないのと同様、葵も口では「お兄ちゃん」と言いつつ私を妹とは思っていないのだろうし。

決して葵に添い寝を強要しているわけではない。


「……………なんで……そんな……悲しい顔するかな……………」


葵は苦しそうに胸を押さえながら、喉から搾り出すような声を上げた。

こんな葵を見たのは初めてだ。

それほど嫌だったのだろう。


「あの、変なこと言ってすみませんでした。一人で寝ますから」


すーーーーーっと葵から空気の抜ける音がする。


それからばっと顔を上げて、


「僕はお兄ちゃんです」


真剣な表情で言い放った。

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