鬼と短刀ー1
千紗はふっと意識が浮上するのを感じた。頭では目覚めなければと思うのだが、体がこれまでにない柔らかな物で包まれており、中々目覚めを決断してくれない。
そんな状態がどれほど続いたのか。
コンコンという硬質な音に、一気に覚醒が促され、千紗は飛び起きた。
慌てて立ち上がろうとして足に力を入れれば、柔らかく沈み込む感覚に足を取られ、勢いよく顔からその場に転ぶ。
痛みはない。顔に触れるのは柔らかな布の質感だった。
千紗はその場で上半身を起こした。
千紗が足を取られたのは、ふかふかと分厚い乳白色の寝具だった。
周囲を見回せば、千紗が居るのは柱だけで四方の壁がない寝台のようだった。
寝台の天蓋からは紗が幾重にも降りていて、寝台の外の様子をしっかり見ることができない。
千紗は今度はゆっくりと動き、紗をめくる。
見たことのない部屋だった。壁には分厚い布が覆われており、全体的に薄暗い。
千紗がいる寝台の他には脚の長い机などが見える。千紗には用途不明な家具だろう物もある。
唯一この場で見慣れているのは、今着ている襦袢のみで、千紗は思わず両腕で自身を抱きしめた。
「ここは、一体?」
そう口にした途端、記憶が蘇る。
襲われた加田城。
母との会話。
走った山道。
草原と翠の鳥居。
そして、近づいてきた二人の男。
そこまで思い出し、千紗は絶望する。ここは、鬼の住む異界の地なのかもしれない。
鬼というものを見たことはないが、きっと彼らは青鬼と赤鬼だと、千紗はそう思う。
千紗の知る男と彼らは違っていた。
二人の男は鼻がツンと上を向き、彫りの深い顔立ちをしていた。
彼らのように青みがかった白色の肌を、千紗は知らない。
一人は、背が高く紺碧色をした短髪に空色の瞳を持った端厳な容姿だった。千紗が知る形とは違うが、腰に帯びているのは剣だろう。
もう一人は、朱色の腰まである髪を一つにまとめ、蘇芳色の瞳を持つ線の細い男だった。その鬼が着るのはダボっとした卯の花色の服で、その紅白の色彩はあまりにもお目出度く、千紗の現状とはかけ離れたものに感じた。
鬼二人は千紗を捕まえに来たに違いない。
そう思い、千紗は逃げようとした。だが、腰が抜けてしまい、その場から動くことができなかった。
赤鬼はご機嫌な様子で飛び跳ねらようにさちこの近くまで来ると、手を広げて言葉を発した。しかし、それは千紗の理解できない言葉だった。
そこからの記憶がない。
抱きしめていた腕を解き、頬に触れる。自分が存在していることを確かめる。
「なんということ…。ここはもしや、鬼の住処?」
もしもここが鬼の住処であるならば、食べられてしまうのだろうか。
育った場所も両親も、何もかも失い「生きる」という言葉だけが残っていたのに、本当に何もかも失ってしまう。
ふと母から手渡された守り刀と巾着袋を思い出し、千紗は寝台の隅々探すが、見当たらない。
部屋のどこかに置かれているのだろうか。
寝台から足を下ろせば、柔らかな毛の床に触れ、千紗は思わず体を震わせた。
震える体を叱咤して部屋中探しても、やはりない。
つと頬に涙が伝うのを感じた。
慟哭したいのに、母に徹底的に躾けられた慎みが邪魔して、声を上げることが出来ない。
毛足の長い床に腰を落とせば、薄い襦袢越しの尻にその柔らかな毛が触れた。
布団だけでなく床さえも千紗を優しく包むのに、千紗が感じるのは深い喪失感だった。
そして、その喪失感にさえ、鬼は浸らせてくれないらしい。
千紗の正面にある木製の片開き扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。
扉を開いたのは、若い女だった。
赤と青を纏う二人のあの男鬼とは違い、小麦色の肌だったが、蒲公英色の巻き髪が、千紗とは違うものだと示していた。
彼女は、床に座る千紗に少し驚いたようだったが、千紗と目が合うとその胡桃色の瞳を和らげ、安堵の様子を見せた。
手にはお盆を持っており、そのお盆の上には水差しが乗せられていた。
「ビエアン、ドゥ?」
女鬼の言葉もまた、やはり理解できない。
千紗が首を傾けて見せれば、彼女は一度頷くと、お盆を右手で持ち、左手で耳に触れながら何事か呟いた。
だが、すぐに両手でお盆を持ち直すと笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
そして、水差しの乗ったお盆を台の上に置いてから千紗の側まで近付き、千紗の手を取って立たせる。
「ルゥ、ヒルデキルディ イルヤアナ」
分からない言葉を話しながら、女鬼は千紗を寝台へと導き座らせると、千紗を残し水差しを置いた台の方へ戻った。
水差しとともに持ってきていた陶器の器に水差しを傾け、中身を器に移してから、器だけを持って再び千紗のところまで戻ると、彼女はそれを千紗に差し出した。