初めての事件
※差別的な発言があります
私が葉桜探偵事務所で働くようになって、三日が過ぎた。
仕事内容は平凡で簡単だった。
応接間を毎日掃除して、調理室で昼食と晩ご飯を作って、足りなくなった材料と備品を買い物して、自宅に帰るだけの生活。
朝食も作りましょうかといったが、「卵かけご飯で十分だからいい」と言われたので作らなかった。
そのご飯もすべて桜川さんが、今日はこれが食べたいと言ってくれるので献立を考える必要がなかった。
楽と言えば楽だけど、本当に高額の給料を貰ってもいいんだろうかと困惑してしまう。
「忙しいときに働いてくれればいい。家事をしてくれれば、それで助かる」
そう桜川さんは言ってくれたけど、ワーカーホリックな私を満足させてくれないのも事実だった。
もっと働きたい。
それが私の切実な悩みだった。
それと同時に困った悩みもあった。
ずばり言うと桜川さんの話し相手になることだった。
家政婦をしていた頃も雇用主さんの話し相手になっていた。もちろん仕事をすべて終わらせてからだけど。
桜川さんの場合、話す内容がとても、なんというか、差別的だった。
応接間でテレビを見ているときなんて、自分が嫌いな芸能人が出てくるたびに「俺、こいつ嫌い」と批判してくる。
チャンネルを変えればいいのに、嫌いな芸能人の嫌いなところを延々と語り、挙句の果てには「こいつ死ねばいいのに」と言う。
例を挙げるのもおぞましいが、どれだけ差別的か分かってもらうために言っておこう。
「こいつのどこが面白いんだよ。一発ギャグのインパクトで持ってるだけだろ。フリートークが面白くないしエピソードトークも下手くそだ。MCになれるわけがないのに、偉そうにしやがって。自分がそんなに面白いなんて思い込みやがって、くっだらねえ。死ねばいいのに」
とある芸人に対する批判だった。私はそこまで言うのはどうかと思うけど、反論したら矛先が私に向けられるようで怖くて何も言えなかった。
こういうことを三日間ねちねち言ってくるので、正直辟易している。
散々批判した後「砂原さんはどう思う?」と訊かれたときは苦笑いしかできなかった。
まあでも私の意見を求めているわけではなく、ただ聞いてくれる人を求めている感じだった。これは家政婦時代にご老人の茶飲み話に付き合った感覚と似ている。
内容は最悪だけれど。
テレビだけではなく、新聞を読んでいるときも批判は止まらない。
「この国の奴らホント馬鹿だな。やっぱり日本人以外はみんな死んでもいいな」
というレイシスト丸出しの発言に私は肝を冷やした。
会って間もない私に対してこんなことを零すのだから、他人はおろか友人にもこんなことを言っているのだと思うとゾッとする。
というより友人がいるのかなこの人。
片倉さんが言っていたあだ名の『差別男』は本当だった。
よくよく考えれば、面接のときはあれでも猫を被っていたのかもしれない。
乱暴な言葉使いだったけど、言っている内容はまともだった。
目つきの悪さが性格の悪さに繋がるとは思えないけど、実例があるので信じてしまいそうだ。
だが、ここで擁護するわけではないけど一度たりとも私に対して暴言を言ったことはなかった。
私が仕事を丁寧に行なっていることや非難することがないことも原因なのだろう。
それに関してはほっと胸を撫でおろしている。
だけど、人の悪口を聞き続けることは予想以上に辛い。
悪口を言われている芸能人や政治家、スポーツ選手や女子アナのことが好きな訳ではないけれど、それでもストレスが溜まることに違いはない。
さらにストレスがかさむ原因となるのは、桜川さんが働いていないことだ。
桜川さんは三日の間、一度も仕事らしい仕事はしていなかった。
時折、パソコンを触ってはいるけれど、仕事で使っている気配がない。ネットサーフィンをしているだけだ。
始業の時間になると安楽椅子に座り、依頼人が来るのを待つ。
自分から仕事を取ってきたりとか宣伝したりすることもない。
ただ座っているだけだ。
新聞読んだり、小説読んだり、スマホを操作したりして一日の暇を潰している。
三日目に「仕事をしなくて大丈夫ですか」と意を決して言うと、操作中だったスマホから目を離して不機嫌そうに話す。
「仕事をしなくてもお金が入ってくるから平気だ。給料のことは安心してくれ」
仕事しなくてもお金が入ってくる?
どういうことだか説明を求めるとスマホを机に置いて説明し出す。
「このビルは俺の所有物だ。だからテナント料がこの探偵事務所の主な収入源となる」
えっ! このビル丸ごと桜川さんのもの!
こんな都心の一等地にビルを建てられるなんて――
「だからまともに働かなくてもいいんだ」
その言葉を最後に、またスマホの操作に戻る。どうやらゲームをしているようだ。
二十五歳の若さでこんな風に悠々自適に暮らせる、まるで貴族のような印象を受けた。
素直に羨ましい。
だけどいい大人が一日中ゲームしたり悪口言ったりして過ごすのはいかがなものかと思う。
それと心配することが一つだけあった。
桜川さんが極度の引きこもりだということだ。
私が勤務し始めてから一度も外出した形跡がない。
私の勤務時間の九時から五時までの間に外に出ていないのだ。
早朝にランニングとか体操とかしているのかなと思っていたが、会話の流れで起床時間が九時半と聞いていたので、それはない。
夜中に外出しているのかなと思ったが、それでも健康に悪いことには変わりがない。
「少し、外に出たらどうですか?」
これは干渉しすぎだと自分でも考えたが、虫の居所が良かったのか比較的素直に答えてくれた。
「依頼人がいつ来るか分からないからな。すぐに応対できるようにしとかないといけないんだ」
これは、言い訳だと思った。電話番ぐらい私だってできるし。
「運動は夜中にしているさ。週に三回、ジムに通っているから問題はない」
どうやら運動不足の心配はないようだ。
いやだけど太陽の光を浴びていない事実に変わりはないのだから、不健康なのは否めないだろう。
でも、私が何を言っても聞く耳持たないだろうと三日間の短い付き合いでも悟れた。
この人は自己中というより自己完結している。
自分の世界を、揺るがない世界を持っている。
だから他人を貶すことに躊躇がないんだ。
これは私の想像でしかない。正しいかどうかも分からない。
しかし、ある程度は当たっているという自信も心のどこかにあった。
その自信が確信に変わるのはとある事件に携わってからだ。
そう。とある事件とは私が働きだした四日目に始まることになる――




