世界樹の灰と正義の行方
緑の空間の奥底で、巨大な物影がゆっくりと動き出す。
それは、規格外の巨躯を誇る「大樹」だった。
「この流れなら、真のボスは巨大カマキリじゃないのか?」
僕の切実な願いは通じなかったらしい。
地響きを立てながら、途方もなく巨大な樹木が僕たちへと迫ってくる。
もはや遠近感すら狂うほどの圧倒的なサイズ感だ。これでは特撮映画の怪獣対決ではないか。
こんなものを、一体どうやって倒せと言うんだ!
そもそも、この空間自体のスケールがおかしい。
目の前に迫るそれは、ファンタジー小説によく出てくる「世界樹」と呼ぶべき代物だ。
言い換えるなら、スカイツリーが巨大に太って立ちはだかっているようなものである。
「どうしましょうか、リューイ様?」
ティーナが切羽詰まった声で問いかけてくる。
どうもこうもないが、やるしかない。
「とりあえず、今できる限りのことをやってみよう!」
僕たちは持てる力の全てを大樹へとぶつけた。
結論から言えば、まるで歯が立たなかった。
迫り来る大樹に対し、ティーナが最大火力の魔法をぶち込み、エルーザが特殊な矢を急所めがけて射掛ける。
ドルクは大樹の根元へと肉薄し、自慢の斧を渾身の力で叩きつけた。
僕とコビンも幹に飛び乗り、ひたすらに枝葉を切り払っていく。
しかし、存在の規模が違いすぎた。
僕たちの攻撃など、大樹にとってはかすり傷にすらなっていない。
「ダメだ、これは撤退か……?」
僕たちが戦意を喪失し、しっぽを巻いて逃げ出そうとした、その瞬間だった。
遥か上空から、突如として巨大な火炎の玉が降り注いできたのだ。
さかのぼること数分前。
ポチとライアは、スロープを猛スピードで滑り降りながら、群がるカマキリたちを蹴散らしていた。
「キリがないっすね。ライアの姉貴、大丈夫ですか?」
前方を警戒するポチの後ろで、ライアはガタガタと震えながらつぶやいた。
「お姉さん……速いの、だめなのぉ……」
極度の恐怖で硬直するライア。
そして無情にも、目の前には空に向かってそびえ立つ、あの発射台のようなスロープの終端が迫っていた。
次の瞬間、二人は勢いよく空中へと射出された。
「お姉さぁぁん……高いのもダメなのよぉぉ〜!」
空中に放り出された恐怖と緊張に耐えかね、ついにライアのパニックが爆発した。
彼女は錯乱状態のまま、無意識のうちに様々な魔法を展開し、それを手当たり次第に目の前のポチへとぶつけ始めたのだ。
「ちょ、姉さん、勘弁してくだせぇ!」
回復魔法から支援・底上げのバフ魔法、さらにはお邪魔な魔法まで。
ライアの極限のパニック感情までもが上乗せされた莫大な魔力群を叩き込まれ、ポチの身体は限界を超えた。
自らの意志に反して強制的に「龍化」させられたポチは、体内に暴れ狂うエネルギーに耐えきれず、ついに口から全てを吐き出した。
そう、正真正銘の「ドラゴンブレス」である。
運が良いのか悪いのか、スロープの射出軌道は、まさに大樹の真上へと向かうように調整されていた。
ポチが吐き出した全てを飲み込んだ超巨大な火炎球が、真っ直ぐに大樹へと墜落していく。
それはティーナの火魔法とは次元が違う、大樹の全てを文字通り焼き尽くすほどの凄まじい業火だった。
「一体、何が起きたんだ……」
あまりの光景に呆然と立ち尽くす僕の目の前に、上空からポチが降ってきた。
ドゴォォォンッ!
激しい轟音と共に、直径十メートルほどのクレーターが穿たれる。
その中心には、無傷のポチが頭から地面に深々と突き刺さり、犬神家のような見事な倒立姿勢を保っていた。
ゆっくりと足が倒れていき、ポチの身体が美しいブリッジの形を形成した、その時。
「いやぁん、見えちゃうぅ〜!」
はるか上空から降ってきたライアが、ブリッジ状態のポチの腹の上でトランポリンのように跳ね上がった。
そのまま空中で華麗に二回転半の宙返りを決め、するりと完璧な着地を果たす。
「あら? 今の、金メダルかしらん?」
ライアは意味不明なことをつぶやきながら、優雅に服のほこりを払っている。
それよりも、土台にされたポチの背骨は無事なのだろうか。ブリッジの関節の向きが逆だったように見えたが。
大樹は激しい炎に包まれ、燃え続けている。
その巨体は、炎に舐められるたびに徐々に小さくなっていった。
「これで、終わりか……」
燃え落ちる大樹の姿を見つめながら、僕は安堵の息を吐いた。
僕たちの攻撃を一切受け付けなかったあの怪物が、今、完全に燃え尽きようとしている。
しかし、僕は気づいていなかった。
自らのその言葉が、壮大なフラグを立ててしまっていたことに。
大樹が燃え、灰へと変わっていく。
燃えて、燃えて、灰が山のように積もっていく。
やがて大樹は完全に燃え尽き、僕たちの目の前には高さ十メートルほどの灰の山だけが残された。
皆が肩を撫で下ろす中、沈着冷静なカイがポツリと疑問を口にした。
「おかしくないですか? あれほど巨大な大樹が燃え落ちたというのに、残った灰の量がこれだけというのは」
言われてみれば、確かにおかしい。
太ったスカイツリーほどの質量があった大樹が、燃え尽きてたった十メートルの灰の山になるなど、物理法則を無視している。
その時だった。
灰の山の中から、眩い緑色の光が放たれたのは。
光が弾けた瞬間、山となっていた灰が一気に中心へと集約され、新たな形を構築していく。
やがて光が収まると、そこには一匹の「小さなカマキリ」が誕生していた。
僕とカマキリの視線が交差した瞬間、今度はカマキリの身体から強烈な虹色の光が放たれた。
小さなカマキリは、虹色の光を浴びながら倍々ゲームのようにその体積を急激に膨張させていく。
同時に、その形状も大きく変貌を遂げていった。
「ダンバ〇ンかよ……!」
先ほどの昭和特撮風の変態とは違う。
そこから誕生したのは、まさに「人型昆虫ロボット」と呼ぶにふさわしい、機械的で巨大なカマキリの化身だった。
「アゥゥゥ、アゥ……」
巨大な昆虫ロボが、何か声のようなものを発している。
言葉の意味は理解できないが、なぜかその声は僕の心の奥底へと直接響いてきた。
直後、カマキリの巨大な双眸から、四方八方へと無差別にレーザー光線が乱射された!
「退避! 全員退避しろ!」
僕たちは全力で駆け出し、近くにあった巨大な岩の陰へと身を隠す。
岩の向こう側では、カマキリが狂ったようにレーザーを放ち続けている。
ドドドドドッ!
天井から瓦礫が降り注いでくる。
先ほどまで鬱蒼とした緑の空間だった空から、土砂や岩石が容赦なく降り注ぐ。
その光景は、ここが美しい自然の中ではなく、無機質な地下ダンジョンの中であることを嫌でも思い出させた。
やがて、レーザーの乱射がピタリと止んだ。
そっと岩陰から顔を出すと、周囲の景色は一変していた。
美しい樹木の世界は跡形もなく消え去り、そこは剥き出しの土壁に囲まれた巨大なドーム状の荒野と化していた。
カマキリの足元と、僕たちが隠れていた岩の後ろの空間だけが、かろうじて破壊を免れ、緑の名残を留めている。
「フゥラァッシュ〜!」
突如、僕たちの背後から耳慣れたマヌケな掛け声が響いた。
あの緑の変態だ。
「さすがに、あの連続攻撃は骨が折れましたね!」
相変わらず昭和特撮特有の変なポーズを決めながら、緑の変態が巨大カマキリの前に立ちはだかる。
「しかし、ようやく私が対処できるサイズにまで小さくなってくれましたね!」
そう、変態ヒーロー対巨大昆虫ロボの理不尽な戦いが、今まさに始まろうとしていた。
土色のドーム内に、異様なまでの静寂が張り詰める。
「ようやく名乗る時が来ましたね。私の名はミドレンです!」
炊飯器のスイッチを入れたらご飯が炊けそうな名前である。
全力でツッコミを入れたいところだが、空間を支配する異様な緊張感がそれを許さない。
「行きますよ!」
ミドレンが地を蹴り、巨大カマキリに向かって怒涛の連続攻撃を仕掛けた。
「ミドレンパンチ! ミドレンキック! ミドレンヘッドバット! ミドレン嗚咽〜!」
最後の一つは明らかに戦技ではない気がするが、とにかくミドレンは凄まじい猛攻を展開する。
対するカマキリは防戦一方であり、むしろ戦うこと自体を嫌がっているような素振りを見せていた。
「ミドレンサマーソルト〜!」
ミドレンの鋭いかかと落としが、カマキリの頭部にクリーンヒットする。
「アゥゥゥ、アゥ……!」
再び、カマキリが悲痛な叫びを上げる。
その哀切な響きが、僕の胸を締め付けた。
「あぁ……この子は、まだ生まれたばかりの子供なんだ……」
ようやく合点がいった。
この巨大カマキリは、最初からずっと怯えていたのだ。
ミドレンが明確な殺意を向けてきたから、防衛本能でレーザーを乱射しただけ。
殺意を持っていなかった僕たちに対しては、無意識のうちに攻撃の軌道を逸らし、守ってくれていた。
そして今、いきなり理不尽に殴られ蹴られ、どうしていいか分からずにただ混乱しているのだ。
「これは……たとえ相手が魔物だとしても、見過ごすわけにはいかない。この子を助けよう」
振り返ると、仲間たちも皆、ミドレンの理不尽な暴力に対する怒りに震えながら、深く頷いてくれた。
「みんな、行くぞ!」
僕たちは岩陰から飛び出し、巨大なカマキリの子供を庇うように、その前に立ち塞がった。
背後には巨大ロボサイズのカマキリ。対する僕たちは、カマキリの膝丈にも満たない。
その小さな僕たちが、等身大の変態ヒーローと正面から対峙する。
ミドレンがスッと身を正し、僕たちに向かって指を突きつけた。
「私は過去にスタンピードで家族を失った…。」
「君たち、分かっているのかな? ダンジョンボスとは『絶対悪』だ。魔物を無限に産み出し、スタンピードを引き起こす。それが人々の住む街を蹂躙し、おびただしい数の死者を生むのだ。遅かれ早かれ、そいつは世界に不幸を撒き散らす存在なのだぞ!」
ミドレンの言葉は、正論として僕の胸に重くのしかかる。
しかし一方で、背後で震えるこのカマキリがどうしても悪い存在には思えないという直感があった。
「あんたの言う通りかもしれない。でも、この子はまだ生まれたばかりだ。人間だって魔物だって、これから善にも悪にも染まり得る。その可能性すら見ずに、最初から存在しなかったことにして殺すのは、絶対に間違っている!」
僕の言葉を聞いたミドレンは、鼻で嘲笑した。
「フン……。それを世間では『偽善』と呼ぶのだよ。そもそも、魔物という存在に善悪の分別などつくはずがない!」
そう叫ぶと同時、ミドレンは両腕の鎌を構え、僕に向かって殺到してきた。
「くっ!」
僕も瞬時にオーガソードを引き抜き、その一撃を受け止める。
ミドレンの攻撃には一切の隙がなかった。
鎌による死角からの薙ぎ払いと、器用な足技による頭部への蹴りが、変幻自在に襲いかかってくる。
僕は、その連撃に全く対応しきれていなかった。
鎌が僕の足元を狙い、時にオーガソードを絡め取る。それを躱したかと思えば、強烈な蹴りが頭部を掠める。
なぜ僕がここまで追い詰められているのか。
実力差ではない。僕の意識が、戦闘に全く集中できていないのだ。
ミドレンが動くたびに、彼の股間を隠すあの一枚の葉っぱが、ヒラヒラと頼りなく揺れるのである。
鎌が足を狙ってくるたびに、葉っぱが揺れる。
オーガソードで斬り合うたびに、葉っぱが揺れる。
そして何より、ミドレンがハイキックを放つたび、僕の目の前でその葉っぱが危険な角度で激しく揺れ動くのだ。
もし、あの葉っぱが落ちてしまったら……。
その悲劇的な光景を想像しただけで、僕の体は恐怖で硬直してしまう。
ミドレンが攻撃を繰り出すたびに、僕の精神力は削り取られていく。
「何という精神ブラクラ攻撃……ミドレン、恐るべき策士だ!」
防戦一方の僕を見て、ミドレンは余裕の笑みを浮かべた。
「ふぅ。実力はこちらが上のようだが、決定打には欠けるようだな。これ以上時間をかけるわけにもいかない。もう一つ、上の段階へ行かせてもらおう」
ミドレンは再び独特なポーズを決め、高らかに叫んだ。
「変身!」
その瞬間、ミドレンの身体が眩い緑の光に包まれる。
光が晴れると、彼の姿は劇的な変化を遂げていた。
完全な人型のプロポーション。
顔の口元だけが露出し、残りは滑らかなヘルメットで覆われている。頭頂部にはカマキリのような二本の触角。
そして最大の変化は、両腕の鎌が、緑色に発光する一本の片手剣へと融合していたことだ。
その剣を右手に構え、ミドレンが冷酷に言い放つ。
「この姿になった以上、もはや私に一切の隙はない。あるのはただ、完璧な正義の執行のみだ」
確かに、彼は明らかに強くなった。
完成された特撮レンジャーの姿。攻撃の要である鎌が一本の剣に集約されたことで、破壊力は格段に跳ね上がっている。
そして何より脅威なのは、防御力を底上げしている全身を覆う緑色の防護スーツだ。
そう、その全身を覆うピッタリとしたスーツが。
僕を縛り付けていた最大の呪縛を、完全に取り払ってくれたのだ。
「そうだね。ようやくここからが本番のようだ」
僕は小さく息を吐き、呟いた。
「フィジカルブースト」
僕の身体の奥底から、熱を帯びた魔力が強烈な光となって全身を駆け巡る。
基礎能力が跳ね上がり、力がとめどなく溢れ出してくる。
そう、もうあの恐ろしい「葉っぱ」に脅かされる心配はないのだ!
「これで決着をつけよう」
ミドレンが目にも留まらぬ速さで剣を振り下ろしてくる。
僕はそれをオーガソードで軽々と受け流す。
体勢を崩した僕の死角を狙い、ミドレンの右足が鋭い蹴りを放つ。
しかし、僕は振り返ることすらなく、無造作に左手を伸ばしてその右足を鷲掴みにした。
そのままミドレンの身体をコマのように振り回し、強引に地面へと叩きつける。
「な、なぜだ!? 完全に死角からの攻撃だったはずだぞ!」
地面に半分めり込んだミドレンが、驚愕の声を上げながら立ち上がる。
彼は片手剣をかなぐり捨て、拳による真っ向勝負を挑んできた。
ミドレンが渾身の魔力を練り上げた拳を突き出してくる。
しかし、そんなものは僕には通用しない。
そもそも僕は剣道部出身だ。大振りの拳など、カウンターの的でしかない。
僕は立ち位置から一歩も動くことなく、ミドレンの拳を全ていなし、的確にカウンターを叩き込んでいく。
隙を突いた死角からの足技も、すでに軌道は読み切っている。
時間が経つにつれ、ミドレンの動きは目に見えて鈍っていき、やがて疲労困憊で膝を突いた。
対する僕は、息一つ乱していない。
もはや立ち上がることすらままならないミドレンを見下ろし、僕は静かに告げた。
「僕には、すでに魔物だけど大切な友達がいる。この子だって、今は良い子じゃないかもしれない。でも、決して悪い子じゃないんだ。これ以上この子を殺そうとするなら、今ここで君にトドメを刺す。どうする?」
僕の最後通牒に対し、ミドレンは血を吐きながらも笑った。
「ふむ……。どうやら世界には、星の数ほどの正義が存在するようだな。しかし、私の空には一つしか正義の星は輝いていない。ならば、私は私の正義を貫いて死ぬまでだ!」
ミドレンが最期の力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がろうとした、まさにその時。
ピーポー、ピーポー。
場違いなサイレンの音が、ドーム内に鳴り響いた。
誰がどう見ても、明らかに日本の「救急車」である。
救急車がミドレンの目の前で急停車し、後部ドアが開く。
中から白衣を着た救命医らしき人物たちが飛び出してきた。
あっけにとられる僕たちをよそに、彼らは手慣れた手つきでミドレンを担架に乗せ、一瞬で救急車へと放り込む。
そのままバタンとハッチを閉め、猛スピードで走り去っていった。
遠ざかる救急車のテールランプを見送りながら、僕はポツリと呟いた。
「いや、あいつを連れて行くなら、救急車じゃなくてパトカーだろ……」
一方、走り去る救急車の中では、凄まじい罵声が飛び交っていた。
「あんた、一体何のバカやってんのよ!」
ミドレンを激しく罵倒するのは、「ピクレン」と呼ばれるピンク色のスーツを着た少女だ。
「でもさぁ……ピクレン。強い奴を見たら、やっぱり戦ってみたくなるのがヒーローじゃん!」
担架の上で弱々しく言い訳をするミドレンに、ピクレンは呆れ果てた顔で冷酷な事実を突きつけた。
「いい? よく聞きなさい。そもそもあのダンジョンは、発生したのが地上だったの。だから、本物のダンジョンボスはもうとっくに討伐済みよ!」
ミドレンが「えっ?」と間抜けな顔をする。
「あんたが嬉々として戦っていた相手は、そのダンジョンボスを討伐した張本人たちよ!」
ミドレンの顔が、さらに「えっ?」と歪む。
「あんたの任務はダンジョンボスの討伐だったでしょ!? なのに、ボスを倒した英雄に喧嘩を売ってたのよ。あんたが戦ってた相手は、カマキリなんかよりよっぽどヤバい連中なのよ!」
ミドレンはもはや言葉を失い、完全に硬直した。
「はぁ……。我々『地球防衛軍』も、そろそろ組織としての身の振り方を真剣に考えた方が良さそうね……」
ピクレンは深くため息をつき、頭を抱え込んだのだった。
僕たちは、嵐のように去っていった救急車をただ呆然と見送っていた。
「結局、あいつらは何だったんだ? ただのお騒がせ集団か?」
散々場を引っ掻き回した挙句、勝手に逃げていった謎の組織。
釈然としないが、これで邪魔者はいなくなったと考えるべきだろう。
問題は、背後にいるこのカマキリだ。
僕は巨大なダンバ〇ン風カマキリに向き直った。
「で、お前は一体何者なんだ?」
「キリキリ、キリ!」
カマキリが鳴き声を上げると同時、僕の脳内に不思議な感情と情景が直接流れ込んできた。
『おいら、ただここに住んでただけなんだよ!』
「え、どういうことだ?」
さらに詳細なカマキリの思考が、次々と僕の頭の中へ流れ込んでくる。
『おいらたち、ずっとここで仲間と一緒に平和に暮らしてたんだ。そしたら突然、あの緑の変なやつが乱入してきてさ。いきなり仲間を攻撃し始めて、おいらにも襲いかかってきたんだよ。
あんたたちが来たとき、あいつ一回逃げたんだけど、また戻ってきて執拗に狙ってくるからさ。
さすがに腹が立って、レーザーみたいな「アッツイやつ」を撃ちまくってやったんだ。でもあいつ、ちょこまか逃げ回って、最後はあんたたちの後ろに隠れやがったんだよ!
あんたたちにアッツイの当てたくないから撃つのやめたら、今度はあいつ、あんたたちを盾にしながら襲ってくるし。マジで卑怯だろ? ジリ貧で困ってたら、おやびんが助けてくれたんだ!』
僕はカマキリの思考を整理し、仲間たちへと説明した。
「リューイ様、カマキリの『キリキリ』という鳴き声に、そんな複雑な事情が含まれていたのですね!」
ティーナが深く感銘を受けたように頷く。
他の仲間たちも、感心した様子でウンウンと頷いている。
いや、端から見たら僕が一人で幻聴と会話しているヤバい奴なのだが。そこは誰かツッコミを入れてほしい。
とにもかくにも、事態は思わぬ形で収束を見た。
周囲の環境はカマキリのレーザーで完全に破壊されてしまい、もはやこのダンジョンから得られるものは何もない。
「よし、とりあえず全員撤収だ」
僕の号令で、皆が帰り支度を始める。
すると、カマキリが名残惜しそうに鳴いた。
「キリッ!」
『おいらも一緒に連れてってよ! 絶対におやびんの役に立つからさ!
ここもボロボロになっちゃって住めないし、何よりおやびんが言ってた「他の魔物の仲間」ってのがすっげー気になるんだ!』
頭の中に響く真っ直ぐな想いに、僕は苦笑した。
「分かった、ついてくることを許そう。でも、そのサイズだとちょっと連れて歩けないな」
僕がそう言うと、巨大だったカマキリの身体はシュルシュルと縮んでいき、手のひらサイズの可愛らしい本来のカマキリの姿へと戻った。
そして、器用に跳躍して僕の肩へとちょこんと乗る。
「これなら全く問題ないな。それに、ずっとカマキリと呼ぶのも味気ない。キリキリ鳴くから、今日からお前の名前は『キリ』だ」
僕が名前を与えると、キリは嬉しそうに小さな鎌を大きく振り上げた。
どうやら気に入ってくれたようだ。
僕たちは、かつては鮮やかな緑に溢れ、今は荒涼たる土色のドームと化した空間を後にし、地上への帰路についた。
その頃、遥か遠く離れた別の場所。
重厚な調度品に囲まれた執務室で、一人の男が深く眉間に皺を寄せていた。
「そうか。地表に出現した例のダンジョンボスは消滅したか。しかし、それは同時に新たな火種が生まれたということだな」
男は右手に黒電話の受話器を握りしめ、左手には太い葉巻をくゆらせている。
漆黒の高級デスクの奥、革張りの椅子に深々と腰掛けているその男は、小太りで背も低く、頭頂部が見事に禿げ上がった、どこにでもいそうな中年太りのおっさんだった。
ただ一つ、その双眸に宿る鋭い光だけが、彼がタダモノではないことを物語っている。
「魔人族とのきな臭い問題だけでも頭が痛いというのに、ここに来て未知の第三勢力が台頭したというのか……。くそっ、これではまた、育毛剤と胃薬の処方量を増やさねばならんな」
男は忌々しげに吐き捨てると、重い腰を上げて革張りの椅子から立ち上がった。
そして、執務室の巨大な窓枠へと歩み寄り、外の景色を見下ろす。
彼の視線の先には、日本とは似ても似つかない、中世ヨーロッパの城塞都市を思わせる壮大な風景が、夕闇の中に静かに広がっていたのだった。




