第27話 舞踏会②【ワサビの制裁と月下のワルツ】
「……ごふっ!? か、から……ッ!?」
「鼻がぁぁぁッ! 脳みそが焼けるぅぅぅッ!」
夜のテラスに、男たちの絶叫が響き渡った。
誠の手によって、鼻の穴に直接『特製マンドラゴラ練りワサビ』を注入された暗殺者たちは、涙と鼻水を垂れ流しながら、摩擦のない床の上でもがいていた。
彼らは悶絶してのた打ち回ろうとするが、摩擦係数がゼロであるため、力が空回りしてその場で手足をバタつかせることしかできない。まるで氷上に打ち上げられたアザラシのようだった。
「……反省したか?」
誠が冷ややかに見下ろす。
「ひぃぃぃッ! 許して……許してくれぇぇッ!」
「もう二度と……お前のメイドには手を出さねぇ……!」
「そうか。じゃあ、警察(衛兵)のところまで滑っていけ」
誠は男たちの背中を、ボウリングの球を転がすように軽く蹴った。
「――【慣性の法則】」
ヒュンッ!!
男たちは摩擦ゼロの滑走と、誠が付与した運動エネルギーによって、猛スピードでテラスを滑り、そのまま開いていた窓からパーティー会場の中へと「射出」された。
ズサーーーーーーッ!!
「きゃあぁぁぁっ!?」
「な、なんだこの男たちは!?」
会場のど真ん中を、鼻にワサビを詰めた黒装束の男たちが滑走していく。彼らはそのまま、唖然としている公爵令嬢の足元で「ストライク」を取り、ピンのように彼女を巻き込んで盛大に転倒した。
「……よし。ゴミ掃除完了」
誠は会場の騒ぎなど気にも留めず、テラスに残されたアリアに向き直った。
アリアは、汚れたドレスを抱きしめたまま、小さく震えていた。
「……誠様」
彼女は泣きそうな顔で、俯いた。
「申し訳ありません……。私が人質になんてなったせいで、誠様のお手を煩わせて……それに、このドレスも……」
ワインの染みは、純白の生地に深く染み込み、赤黒く広がっていた。皆が用意してくれた、大切なドレス。それが台無しになってしまったことが、アリアには何よりも辛かった。
「……もう、皆様の前に出ることはできません。私はここで……」
「アリア」
誠が短く呼んだ。
「……じっとしてろ」
誠はアリアの前に立つと、汚れたドレスに手をかざした。
「……【時間逆行】・対象:繊維の汚れ」
カッ。
一瞬、淡い光がドレスを包んだ。
次の瞬間。
「……え?」
アリアが目を見開く。
赤黒いワインの染みが、まるでビデオを巻き戻すように収縮し、一滴残らず消え失せたのだ。
生地は再び、雪のような純白の輝きを取り戻していた。
「な、直りました……!? でも、時間は不可逆なはずでは……」
「部分的なエントロピーの減少だ。熱力学第二法則には喧嘩売ったけどな」
誠は事もなげに言い、ポケットからハンカチを取り出して、アリアの涙を拭った。
「ほら、顔も汚れてるぞ。化粧が崩れる」
「あ……」
アリアは硬直し、それから顔を真っ赤にしてされるがままになった。魔王の不器用な優しさが、胸を締め付ける。
「……誠様。……ありがとうございます」
「礼には及ばん。……それより、まだ曲は終わってないぞ」
会場からは、優雅なワルツの調べが漏れ聞こえてくる。
誠は、少し躊躇いながらも、アリアに右手を差し出した。
「……踊るぞ」
「えっ……!?」
アリアが驚愕する。
「で、ですが……私などと……それに、誠様はダンスは嫌いだと……」
「嫌いだ。ステップも知らん」
誠は無表情で言った。
「だから、物理で踊る」
「ぶ、物理……?」
「俺に捕まってろ。足は動かさなくていい。――【重力制御】・【遠心力適用】」
誠がアリアの腰に手を回し、グイッと引き寄せた。
「ひゃっ!?」
二人の体が、ふわリと数センチ浮遊した。
「行くぞ」
「えっ、ええええっ!?」
ヒュンッ!
二人は、独楽のように優雅に、そして高速で回転を始めた。
ステップなど必要ない。誠が計算した完璧な軌道に沿って、二人はテラスの上を滑るように舞った。
月明かりの下、純白のドレスが花のように広がる。
「す、すごいです……! 体が勝手に……!」
「目は回ってないか?」
「はい! まるで、空を飛んでいるみたいです!」
アリアの顔に、満面の笑みが咲いた。
恐怖も、劣等感も、すべてが遠心力と共に彼方へ飛び去っていく。
今、彼女の視界にあるのは、月よりも眩しい主人の瞳だけだった。
「……悪くないな」
誠もまた、アリアの笑顔を見て、小さく口元を緩めた。
ガラス越しに、会場の貴族たちが呆然と二人を見つめている。
月夜に浮かぶ、魔王とメイドの幻想的なダンス。
それは、どんな熟練のダンサーよりも美しく、そして物理的に有り得ない動きで、見る者すべての心を奪っていた。
***
一方、会場内は大混乱に陥っていた。
「な、なんなのですの、この汚らわしい男たちはッ!」
ワサビまみれの暗殺者に巻き込まれて転倒した公爵令嬢が、髪を振り乱して絶叫する。
「おのれ……! 誰の指図だ! 神聖な舞踏会で凶行に及ぶとは!」
騎士団長が男たちを拘束する。
男の一人が、ワサビの激痛に耐えかねて、うっかり自白してしまった。
「あ、あが……ッ! ご、公爵家の……執事に頼まれて……!」
「なっ!?」
会場の視線が、一斉に公爵令嬢に突き刺さる。
「は!? ち、違いますわ! わたくしは知りませんわよ!?」
令嬢が顔面蒼白で否定するが、状況証拠は真っ黒だ。
「……ほう。公爵家が、我が国の賓客である魔王殿を狙ったと?」
財務卿が眼鏡を光らせ、電卓を片手に歩み寄ってきた。
「これは重大な外交問題ですね。賠償金は……公爵家の領地一つ分くらいでしょうか?」
「そ、そんなぁぁぁッ!!」
公爵令嬢は白目を剥いて気絶した。
***
騒動の後。
誠とアリアは、クラスメイトたちの元へ戻ってきた。
「きゃーっ! 素敵だったよ二人とも!」
「あのダンス、どうなってんの!? 摩擦ゼロで慣性ドリフトしてたよね!?」
莉乃と円城寺が興奮気味に迎える。
「……疲れた。帰るぞ」
誠はネクタイを緩め、寿司の折詰(味沢が用意してくれたお土産)を持った。
「はい、誠様」
アリアは、どこか夢見心地な表情で、誠の後ろに寄り添った。
その距離は、来る時よりもほんの少しだけ、近づいているように見えた。
「……あ~あ。完全にフラグ立ったね」
『遊び人』瑠奈がニヤニヤしながら呟く。
「……悔しいけど、完敗だわ」
サキュバスクイーン(留守番していたが、水晶で覗き見していた)の泣き声が、遠く離宮から聞こえた気がした。
こうして、波乱万丈の舞踏会は幕を閉じた。
だが、この一件は、ある組織に魔王の「脅威」と「弱点」を同時に知らしめることとなった。
闇の中で、次なる歯車が回り始める。
「……魔王黒峰誠。やはり、ただの子供ではないな」
王城の深奥。
玉座の裏で、何者かが静かに嗤っていた。




