9 擦
人はこんなに落ち着いていられるのだろうか。
ぼくはとても不思議に思う。
自分が存在する世界がシミュレートされた現実、つまり偽物かもしれないという疑いが濃いというのに、だ。
ぼくの左隣でアレクサンダー――ただしバーテンダーの黒須さんは『アレクサンドラです』と言い、高野さんに渡したが――を飲むキレイな女性も落ち着ている。
高野さんは焦ることがあるのだろうか。
ぼくには、あるようには思えない。
「わたしの貌に何かついてますか」
そんなぼくを見て高野さんが言い、
「いや、キレイだな、と思って……」
ぼくが答える。
「お世辞でもありがとう」
「お世辞は言わないよ」
「そうなんだ」
「万人が思うかどうか知らないけど、高野さんは、ぼくの好みだから……」
「酒匂くんって昔からそんなにイケシャアシャアとしてったけ」
「さあ、自分ではわからないな」
「今の酒匂くんの感じ、わたし、好きかも」
「ありがとう」
「その昔は眼中になかったけどね」
「まあ、そうでしょうとも」
「酒匂くんだってなかったくせに……」
「ぼくは島根さんが好きだったな」
「あの大人しい眼鏡の……」
「そう。高野さんは当時、誰が好きだったの」
「上尾くんと邸くんには憧れてたわね」
「クラスの一番と二番じゃん」
「普通の子だったのよ」
「今では普通じゃないと……」
「さあ、自分ではわからないわ」
話が一周戻ったような塩梅だ。
高野さんがグラスをグイと傾ける。
その姿に、アレクサンドラ王女の姿が透けて見える。
……といっても、ぼくはエドワード皇太子(後のエドワード七世)ではないが。
「酒匂くん、何を考えてるの」
「アレクサンドラ王女のことかな」
「夫と姑に苦労したところだけ、わたしと同じか」
「いや、キレイなところも……」
「酒匂くん、酔うには早いわよ」
「そういえば、アレクサンドラ王女の首には瘰癧(るいれき/頸部リンパ節結核)の手術跡があったというね」
「ああ……」
「それを隠すために長くて美しい髪を垂らしていたと……」
「髪の結い上げが流行したときは宝石をちりばめたチョーカーをしていたようね」
「当時のファッション・リーダーだね」
「夫のエドワードが彼女への愛情を完全になくし、以後彼女を顧みなくなったのは、その傷跡を見たからだとも言われるわ」
「酷い男だ」
「最初から知らされていなかったんじゃないかな」
「見ればすぐに気づくようなことを……」
「だって彼女の美貌に惚れ込んだのは結婚に消極的だった本人と母親だというから……」
「話さない秘密」
「話せなかったのかもしれないわよ」
「王家の結婚なのに……」
「いろいろな柵があったんじゃない」
「高野さんにも柵があるかな」
「世に生きていれば柵だらけ」
「じゃあ、秘密の方は……」
「虫垂炎の手術跡があるけど、別に秘密じゃないし……」
「いつか見たいね」
ぼくが言うが、高野さんはそれに応えず、
「そういえば首の傷で思ったけど、ジャックイン・プラグの痕とかね」
と話を飛ばす。
「シミュレートされた世界へ入るための……」
「そう」
「あの時代は十九世紀だよ」
「エドワード七世の戴冠式が一九〇一年だから、彼女の人生後半は二〇世紀よ」
「なるほど」
「それにチャールズ・バベッジなら生まれている」
「コンピューターの父だね」
「それを言うならプログラムの父……」
「バベッジの階差機関でシミュレートされた現実が作れるのかな」
「さあ」
「今の技術でも無理な話だというのに……」
「でも結婚にウンザリしていれば、夢の世界に浸りたいはず」
「その点は今も昔も変わりがないか」
「そうね」
「高野さん、結婚はもうウンザリ……」
「一応はね」
そのとき『色』に新たな客が入ってくる。
だから、ぼくと高野さんの首が入口側に動く。
最初は暗くて顔の判別がつかない、
が、やがて、それが見知ったものに変わる。
まさかの上尾和昌と島根弘美だ。