第一章 婚約破棄は突然に
夜会の会場は、いつも通り煌びやかだった。
天井から吊るされたシャンデリアの光が大理石の床に反射し、着飾った貴族たちの笑い声が絶えず響いている。
オーケストラの奏でる旋律は華やかで、誰もが今宵の社交を楽しんでいるように見えた。
けれど私は、その華やかさをどこか遠いものとして眺めていた。
今夜がどんな夜になるか、私はもう知っていたからだ。
三年前から、ずっと待っていた。
グランディア王国の王太子、エドワード・フォン・グランディア様が、私との婚約を破棄する日を。
アーデルハイト公爵家の長女として生まれた私は、幼い頃から王太子妃教育を受けてきた。
外交、政治、経済、法律、魔法、剣術、礼儀作法。
一通りのことは、人並み以上にこなせる自信がある。
けれど、私の本当の長所は、そのどれでもない。
自分より優秀な人間を見つけ出し、その人間に仕事を任せ、確実に結果を出させること。
それこそが、私という人間の本質だった。
だからこそ、私は知っていた。
今、この会場でエドワード様の隣に立ち、涙を流している男爵令嬢が、何者に操られているのかを。
そして、この婚約破棄が、私にとって何を意味するのかを。
音楽が止まったのは、前触れもなく唐突だった。
指揮者が手を止め、演奏がぴたりと途切れる。
会場の視線が一斉に、壇上に立つエドワード様へと集まった。
その隣には、涙目で俯くリリア・ベルモンド嬢の姿がある。
私は少し離れた場所から、静かにその光景を眺めていた。
「エレオノーラ・フォン・アーデルハイト!」
エドワード様の声が、広間に響き渡った。
誰もが息を呑み、次の言葉を待っている。
私だけが、驚かなかった。
むしろ、ようやくこの瞬間が来たのだという静かな高揚を覚えていた。
「私は今日、この場で君との婚約を破棄する!」
その一言で、会場の空気が凍りついた。
どこかでグラスを落としたのか、ガラスの割れる音が遠く聞こえる。
リリア嬢が両手で顔を覆い、肩を震わせていた。
けれど、私の胸に去来したのは、悲しみではない。
ようやく、という深い安堵だった。
エドワード様は、私の反応を待つように言葉を続けた。
「君はリリアを虐めた!」
「未来の王妃として、そのような嫉妬深い女性を王宮に置くことはできない!」
嫉妬。
その言葉に、私は思わず苦笑しそうになった。
私がこの三年間、彼女の背後を調べていた理由を、エドワード様は一度も尋ねようとしなかった。
証拠よりも、目の前で涙を流す女性の言葉の方を、彼は信じたのだ。
それが、エドワード様という人だった。
剣を握らせれば誰よりも優れているのに、人の心を見抜く目だけは、驚くほど曇っている。
彼はさらに続けた。
「私はリリア・ベルモンド嬢を新たな婚約者とする!」
会場がざわめいた。
貴族たちの視線が、一斉に私へと向けられる。
哀れみ、好奇心、そしてどこかに滲む嘲笑。
そのすべてを、私は正面から受け止めた。
視線に晒されることには、もう慣れきっている。
普通なら、ここで涙を流すべきなのだろう。
床に崩れ落ち、許しを乞い、あるいは怒りを露わにするべきなのだろう。
けれど私は、微笑んでいた。
三年間、この瞬間のために積み上げてきたものが、ようやく形になろうとしている。 そう思うと、涙よりも先に、静かな笑みがこぼれてしまう。
「承知いたしました」
私の声は、思ったよりもずっと落ち着いていた。
広間が、一瞬にして静まり返る。
エドワード様の顔から、余裕の色が消えていく。
「……何?」
戸惑いの滲む声だった。
彼はきっと、私が泣き崩れることを期待していたのだろう。
あるいは、怒りを爆発させてくることを。
けれど、私が返したのはそのどちらでもなかった。
「それでは、これで私も自由ですね」
その言葉に、会場が大きくどよめいた。
どこかで誰かが小さく笑い声を漏らしている。
「強がっているだけだ」と囁く声も聞こえてくる。
けれど、私は気にしなかった。
彼らが何を思おうと、これからの私の人生は、もう彼らの評価で決まるものではない。
エドワード様は何か言おうと口を開きかけたが、結局言葉にならなかった。
リリア嬢が驚いたように顔を上げ、私を見つめている。
その瞳の奥には、涙とともに確かな戸惑いの色が浮かんでいた。
彼女もまた、この状況を完全には理解していないのかもしれない。
そんな予感が、ふと私の中をよぎる。
会場を後にする間、私は誰とも目を合わせなかった。
背中に突き刺さる視線の数々を、ただ静かに受け流していた。
玄関ホールを抜け、夜風が頬を撫でたとき、ようやく肩の力が抜ける。
馬車に乗り込み、王宮の門をくぐり抜けると、窓の外に広がる夜景がゆっくりと流れていった。
三年間、待ち続けた夜が、ようやく終わったのだ。
公爵邸に戻ると、父はまだ書斎で仕事をしていた。
私の帰りが予定より早いことに気づいた父が、顔を上げる。
その表情には、すでに何かを察したような色があった。
「エレオノーラ、夜会はどうだった」
父の問いに、私は静かに答えた。
「婚約を破棄されました」
父の手が、一瞬止まった。
それでも、それ以上の動揺は見せない。
私たち親子の間には、言葉にせずとも通じるものがある。
父はしばらく私の顔を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
短い返事だった。
それでも、そこには様々な感情が込められているように感じられる。
怒りではない。 むしろ、どこか安堵にも似た響きだった。
私は父の前に進み出て、まっすぐにその目を見つめた。
ここからが、本当の始まりだ。
三年間、私が積み上げてきたすべてを、今この瞬間から動かしていく。
「お父様」
「明日から、王家との関係を整理してください」
その言葉に、父の目が、わずかに見開かれた。
「……本気で言っているのか」
私は迷わず頷いた。
「はい」
「もう、迷う理由はどこにもありません」
窓の外では、月が静かに公爵邸を照らしている。
その光は、これまでの私を照らしていた月と、きっと同じものなのだろう。
けれど今夜だけは、まるで違う光に見えた。
自由を手に入れた夜の光だった。
明日から、私はもう誰の婚約者でもない。
誰かに決められた人生を歩む必要も、これでなくなる。
ようやく、自分自身のための人生が始まろうとしていた。
そう思うと、これから待ち受けるであろう困難さえも、不思議と怖くはない。
父は執務椅子に深く座り直し、しばらく黙り込んでいた。
やがて静かに、口を開く。
「お前が何年も前から、何かを準備していたことには気づいていた」
「だが、まさかこれほどの落ち着きでこの日を迎えるとはな」
私は小さく笑みを浮かべた。
「私自身、少し驚いています」
けれど、その驚きの中には確かな手応えがあった。
王宮での立場を失ったことは、決して敗北を意味しない。
むしろこれは、私が自分の意志で選び取った、新たな出発点なのだ。
夜はまだ長い。
けれど、私の心はすでに、次の一歩へと向かい始めていた。
婚約破棄されたこの夜こそが、私にとっての本当の始まりになる。
そのことを、この時の私はまだ、はっきりとは言葉にできずにいた。
ただ、胸の奥に静かな炎が灯ったことだけは、確かに感じ取っていた。




