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歯車姫  作者: ふゆはる


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第三章 影の目


翌朝、渡辺は署に着くなり机に突っ伏した。

ほとんど眠れなかった。

夜の静けさの中、自宅の天井を何度も見上げてしまうたびに、あの蛍光灯に浮かんだ金属質の眼が脳裏に浮かび、まぶたの裏側まで張り付いて離れない。

さらに――音だ。

昨夜から、耳の奥でかすかに「カチ……カチ……」と、時計の針を爪で弾くような音が鳴り続けている。

目覚まし時計の電池を抜いても止まらない。

音は自分の内側から響いているようだった。


机に置いたマグカップの表面が、わずかに波打っているのに気づいた。

周囲に風も振動もないのに、一定のリズムで波紋が広がっては消える。

机の奥から、かすかな金属音が混じって聞こえてきた。

引き出しを開けると、昨日回収したはずのサンプル袋がそこにあり、袋の中で銀色の粉がわずかに蠢いていた。

保管室のロッカーに入れたはずのものが、なぜここに。


慌てて鑑識課へ確認に行くと、保管室のロッカーは封印のままで、破片も粒子もすべて中にあるという。

では、机の中のこれは――。

袋を持ち上げた瞬間、粉は一斉に細長い列を作り、机の上で這うように動き始めた。

渡辺はとっさにゴミ箱へ押し込み、蓋を閉じた。

だが、金属の擦れる微音は、なおも耳の奥で続いていた。


その日の午後、防犯カメラ映像の確認を担当していた事務員が渡辺を呼びに来た。

「……これ、見てください」

映像には、昨夜の署内の廊下が映っていた。

渡辺が資料倉庫から出てくる直前、廊下の奥で蛍光灯が一瞬暗くなり、その間に“何か”が通り過ぎていた。

影のようだが、人間の輪郭とは違う。

細長く、関節が異様な角度に曲がり、動きは滑るように速い。

そしてその影は、明滅の合間にしか姿を見せない。

映像をコマ送りにすると、一瞬だけ影がカメラのほうを向いた。

そこには、あの金属光の“眼”があった。


渡辺は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

資料倉庫での出来事は、やはり幻覚ではなかったのだ。


夜、自宅に戻った渡辺は、玄関の鍵を閉める前に背後を何度も振り返った。

部屋の中はいつも通りのはずだったが、書棚の位置がわずかに変わっている。

昨夜までは窓際に置いてあったはずが、壁際に寄っていた。

家具は重く、誰かが侵入しなければ動かせるものではない。

しかし窓や扉には荒らされた形跡はない。


深夜二時過ぎ、枕元で不意にラジオが鳴り出した。

電源は切ってある。

スピーカーから流れてきたのは、音楽でもニュースでもなく、あの「カチ……カチ……」という金属音と、途切れ途切れの囁き声だった。

言葉は不明瞭だが、耳を凝らすと、時折「さがすな」という単語が混じる。

渡辺はコードを引き抜き、ラジオを押し入れに突っ込んだ。

だが音は止まらない。

壁の向こう、床下、そして自分の頭蓋の内側から響き続けていた。


翌晩、渡辺は覚悟を決めて資料倉庫に向かった。

鉄扉の向こうから、かすかな青白い光が漏れている。

中に入ると、前回よりも明らかに巨大化した“群れ”が棚の間を埋め尽くしていた。

無数の歯車と軸が絡み合い、脈動する塊は人間ほどの背丈になっている。

その表面を走る古紙の断片が、まるで皮膚のように群れを覆っていた。

断片の上の文字列は、ゆっくりと変化し続け、未知の記号や回路図が組み替えられていく。


「……何だ、お前は……」

思わず声に出した瞬間、群れが動きを止めた。

そして、歯車が組み換わり、やがてそれは人型を形作った。

関節は鋭角的で、骨格は細長く、頭部には二つの金属光の眼が浮かんでいる。

眼は瞬きもせず、ただじっと渡辺を見つめていた。


「さがすな」

再び、あの均一な声。

しかし今回は、その直後に続く言葉があった。

「……もどれ」

その瞬間、倉庫全体が震えた。

棚の上から埃が舞い、蛍光灯が一斉に明滅する。

光が消えた暗闇の中で、渡辺の周囲に無数の眼が浮かんだ。

一つ、二つではない。

壁、天井、床の隙間……ありとあらゆる空間から、金属光の眼が覗いている。


渡辺は無我夢中で扉に向かって走った。

しかし、距離は縮まらない。

走っても走っても、扉は遠ざかっていくように見えた。

耳元で「カチ……カチ……」という音が急速に速まり、やがて連続した唸りに変わった。

視界が白く焼けつく。

最後に感じたのは、冷たい金属の指が自分の首筋に触れる感触だった。


――気がつくと、渡辺は資料倉庫の床に倒れていた。

時間は朝に近く、倉庫の中は静まり返っている。

昨夜見た群れも、光も、眼も、何も残っていない。

ただ、自分の右手首に奇妙な痕があった。

それは極小の歯車が連なったような模様で、皮膚の下でわずかに脈動している。


渡辺は痕を隠すように袖を引き下ろし、倉庫を後にした。

しかし、廊下に出た瞬間――天井の蛍光灯が一度だけ明滅した。

その反射板に、あの金属光の眼が一瞬、はっきりと映った。



渡辺は手首を押さえながら廊下を進む。

呼吸が浅く、心臓の鼓動が耳の奥で金属音に重なるように響く。

「まさか、俺は……」

言葉にならない声を漏らす。手首の模様は微かに動き、まるで皮膚の下で生きているかのようだった。


事務室の明かりを頼りに机に座ろうとした瞬間、机の表面に粉のような粒子が舞っているのに気づいた。

昨日回収したはずの金属粉――微細な歯車の集合体――が、空中で集まり、再び這い回り始める。

渡辺の視線が釘付けになる。

粒子はゆっくりと人型を形作り、前夜の群れと同じように、頭部に二つの金属光の眼が浮かぶ。


「さがすな……」

低く、均一な声が響き、渡辺は全身に寒気を感じた。

しかし今度は続けて囁きがあった。


――「ついてこい」


それは命令のようで、脳裏に直接響いた。

渡辺は理性で拒もうとしたが、足が自然に動き、群れに向かって歩き出してしまう。

廊下を進むたびに、壁や床の隙間から小さな歯車が這い出ては、指先や足元にまとわりつく。

粉は皮膚に触れるとひんやりと冷たく、内部で脈動するような感触があった。


廊下の奥で、群れが一斉に動き、渡辺を取り囲む。

眼の光は眩しく、視界の端が白く焼けつく。

耳の中では「カチ…カチ…」が連続する連打に変わり、頭痛と吐き気を伴った。

まるで金属そのものが神経に触れているかのようだった。


渡辺は手首を見る。

歯車模様は今や脈動を増し、動きが指先や腕まで伝わる。

皮膚の下で、小さな歯車が組み合わさっている感覚――自分の体の一部ではない何かが、意志を持っているかのようだった。


「逃げなきゃ……」

走ろうとした瞬間、廊下の向こうで蛍光灯が一斉に明滅した。

明かりがついた瞬間、眼の光が自分の顔を正面から覗き込む。

一瞬の光の中で、渡辺は理解した――逃げ場はない。

建物のあらゆる空間から、無数の眼がこちらを追っている。


群れは空間を押し広げ、床、壁、天井の隙間を満たす。

渡辺が足を踏み出すたび、微細な粉が指先や靴の中に入り込み、脈動が全身に広がる。

それは音だけでなく、振動としても彼を制圧する。

耳元で囁きが増幅し、体の奥深くまで届く。


気がつくと、渡辺は廊下の床に膝をついていた。

粉の群れが膝に集まり、小さな歯車が皮膚の下に組み込まれるような感覚が走る。

意識が揺らぎ、呼吸は乱れ、視界が金属光で満たされる。


「……俺は……」

声は出せない。声帯は歯車模様の脈動に干渉され、うまく震えない。

金属粉の群れはゆっくりと人型を形成し、渡辺の周囲を完全に囲む。

眼が瞬きもせず、彼の意識を覗き込む。

その視線の先で、右手首の歯車模様が暴走するように脈動し、指先まで動き出した。


渡辺は意識の糸を手繰り寄せようとする。

しかし、床に散らばった粉が群れを形成し、脳に直接干渉する感覚が強まる。

思考は断片化し、現実と幻覚の区別は完全に消えた。

金属の指先が首筋に触れ、皮膚の下で歯車が組み合わさる感触――冷たく、圧迫されるようで、逃げることはできない。


耳の奥で、最後に囁きが響いた。


――「さがすな……永遠に」


そして渡辺の視界は白く焼けつき、次の瞬間、床には人の形が倒れていた。

机の上には散乱した書類と、微細な金属粉の列だけが残っている。

粉は規則的な模様を描き、床下や隙間から再び脈動を始める。

その音は――まだ、「カチ…カチ…」と鳴り続けていた。


渡辺の姿は、永久に消えた。

署内に残されたのは、金属の痕跡と音だけ。

そして、それを見た者は皆、背筋を凍らせる奇妙な視線を感じるのだった。

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